丸紅本社は江戸時代の御三卿徳川一橋家の敷地内に建てられています。
一橋家は、8代将軍吉宗の四男宗尹(むねただ)を家祖とし、徳川将軍家に後嗣がないときは御三卿の他の2家(清水、田安)とともに後嗣を出す資格を有しました。
しかしながら、御三卿の中で唯一将軍を出したのが一橋家で、歴代の将軍では第11代将軍家斉と第15代将軍慶喜です。
一橋家の北側にあるお堀は、現在、神田川と繋がる江戸川となっています。
目次
1 一ツ橋
一橋家の北東にあったのが一橋門で、門の北の外堀に架かっていたのが一ツ橋です。
橋のたもとに石垣が一段高くなっているところがありますが、そこが一橋門の跡です。
一橋門跡
一橋門は、徳川家が江戸城に入ったころにはすでに架けられており、大きな丸木が一本架けられただけの橋であったことから、この名がつけられたと言われています。
17世紀中頃には、付近に松平伊豆守の屋敷があったので、伊豆殿橋と呼ばれたこともありました。
なお清水家、 田安家と並んで徳川御三卿と称された一橋徳川家の屋敷は1740年(元丈5年)から、門内にありました。
この門の石垣は、 1629年(寛永6年)に築造、 1873年(明治6年) に撤去されており、現在では川岸にわずかな高石垣だけが残っています。
現在の橋は、 1925年(大正14年)に架けられた関東大震災の復興橋梁の一つで、 都内に造られた12のラーメン橋台橋の内、 唯一当時の姿を今に残すものです。
2 丸紅本社
丸紅本社には、丸紅ギャラリーがあります。
行った時の特別展は以下です。
復元小袖と竹との一期一会
~復元のロマン~
2024年1月23日から2月22日まで
「『ふしみ殿御あつらへ』 小袖裂と復元小袖-墨書と裂から分かる桃山時代の小袖制作-」を開催しております。
時代の変遷により小袖の図柄、色彩が変化してきたと言われております。
今回展示する、桃山時代の復元小袖の鮮やかな色彩に思いを馳せ、竹の大作を制作いたしました。
花材
丸竹(着色)、割竹、 馬酔木、椿、ウィンターベリー、 びろうやし、たれ桑(着色)、ボク
制作
丸紅相互会 草月流 華道部
プロデュース
華道部講師 石川己青
(草月流本部講師)
一橋徳川家 屋敷跡
一橋徳川家は、寛保元年(1741年) 徳川八代将軍吉宗の第四子宗尹が江戸城一橋門内に屋敷を与えられたことがはじまりである。
一橋家・田安家・清水家は御三卿と呼ばれ、 御三卿は将軍家に世継ぎがなく、御三家(尾
張・紀伊・水戸)にも将軍となりうる 該当者がいない場合に将軍を送り込める家柄で、 十万石の格式をもち、直属の家臣団を持たず、将軍家の身内として待遇された。
当家は、二世治済の長男家斉が十一代将軍となり、水戸家より入った一橋九世が徳川最後の十五代将軍徳川慶喜であり、御三卿の中でも幕政に深く関わった。
敷地は広大で、この一角のほか気象庁・大手町合同庁舎付近まで及んでいた。
3 和気清麻呂像
昭和15年に皇紀2600年を記念して作られた像です。
現在は、内堀通りで分離されていますが、丸紅本社と同様この像も一橋家の敷地内にあります。
和気清麻呂は宇佐八幡神託事件において、僧・道鏡の企みを挫いた人物です。
ここに立たせるは護王大明神の神号を給はりし
贈正一位和気清麻呂公の像にして宇佐の大神の
貴く畏き御教言を承り復奏の為に参内せるさまを
うつせるなり公の誠忠は國史の上に顕著なるが殊に
孝明天皇の宣命に身の危うきを顧ず雄々しく
烈しき誠の心を盡せるはと稱へさせたまひまた
明治天皇の策命に日月と共に照り徹れる偉き
勲をめでさせたまへりこれの像は明治の大御代に允許を
忝うせしを今茲紀元二千六百年の記念として
宮城の御濠に沿へる地に建設せるなり公の英霊は
千載生けるが如く儼然として宮闕の下を離れず我が
國體を擁護しまつり天地と倶にとこしへに存せむ
昭和十五年二月 大日本護王会
4 平川門
一橋家の登城は一番近いこの門を使っていました。
平川門
平川門は、江戸城内郭門の一つで、三の丸から外への出口にあたり、御三家・三郷はここから登滅しました。
現在の九段南一丁目や一ツ橋一丁目は、平川村と呼ばれていたため、名付けられました。別名で「不浄門」とも呼ばれるのは、城内の死者や罪人がここから出されたことに由来します。