史跡 美術館/博物館

角館・武家屋敷通り

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秋田県の角館市には、美しい武家屋敷が点在しています。

角館は「小京都」とも呼ばれ、日本らしい歴史的な町並みが今も残っています。

 

角館武家屋敷通り:角館の表通りは国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、文化財として保護されています。

ここでは「石黒家」「青柳家」「岩橋家」「松本家」「河原田家」「小田野家」などの武家屋敷を実際に見学できます。

中には現在も住居として使われているお屋敷もあります。

シダレザクラ:武家屋敷通りには約400本のシダレザクラがあり、そのうち162本が日本の天然記念物に指定されています。

特に春には美しい桜が咲き誇り、武家屋敷の黒壁とのコントラストが素晴らしい眺めとなるようです。

1        表通り

2        小田野家

 

武家屋敷小田野家(仙北市指定史跡・昭和50年8月6日指定)

佐竹義宣(さたけよしのぶ)の秋田への国替えに、常陸より少し遅れて移ってきた小田野氏は、今宮弾正の配下となり、角館の菅沢町(現在の田町武家屋敷)に居住した。

小田野氏は角館に入って分家をつくり、ここの小田野主水家は長右衛門家から分かれた清右衛門家である。

両家とも佐竹北家組下に変わり、解体新書の挿図をはじめ蘭画で名高い小田野直武は長右衛門家の人であり裏町に住んだ。

ここの小田野氏は、主水を代々名乗り、武芸に秀でていた。

九代藩主佐竹義和が、文化8年(1811)角館を訪れた折りに小田野主水直政(19歳)は、藩主御前で武芸を披露している。

また眼科医としても名をなし、安政2年(1855)江戸で出版された「東講商人鑑」の「羽州仙北角館之図」の広告欄に眼科の名医として小田野主水が紹介されている。

建物は明治33年(1900)の大火で主屋が焼失したが、その後再建された主屋の間取りは近世武家住宅そのままである。

屋敷の特徴としては、薬医門から玄関までの灯台躑躅と、黒塀にそって熊笹が生い茂っていることである。

 

3        稲庭饂飩(いなにわうどん)佐藤養助 角館店

稲庭うどんは、秋田県湯沢市稲庭町が発祥の、手延べ製法による干しうどんです。

日本三大うどんのひとつに数えられます。

ひやむぎ より少し太い麺で、郷土料理として いたるところで提供されています。

このお店は、小田野家の向かいにありました。商品販売のみのお店です。

口上

佐藤養助の創業は、万延元年(一八六〇年)。

江戸時代がその幕を下ろす八年前の事である。

宗家は、稲庭の地に伝わった稲庭饂飩の原型の技術を受け継いだ稲庭吉左エ門。

秋田藩主・佐竹候より御用製造を仰せ付けられたその技法は、吉左エ門家の一子相伝、門外不出であったため、製造法の根絶を憂いた吉左エ門が二代佐藤養助に特別に伝授し当家の創業となったのである。

明治時代になり、当時の宮内省より御買上げを賜る他、博覧会等でも数々の賞を頂いた佐藤養助の稲庭干饂飩。

明治の半ばに入るまで室内省以外ではあまり一般に食されることの無かったうどんではあるが、完全手づくりのその技と本物の味わいは歴代の養助によって確かに受け継がれ、現在に至るまで連綿と守り続けている。

店主敬白

4        河原田家

武家屋敷 河原田家 仙北市指定史跡

昭和50年8月6日指定

河原田家は初め下野国河原田(現在の栃木県小山市)に住し、源頼朝に加勢した功績により会津の伊南郷を賜った。

会津の豪族として勢力を拡大したが、後に芦名家に仕え重臣として角館に移り、芦名氏の断絶後には佐竹北家の組下として廃藩まで仕えた。

藩政末期には郷校弘道書院の教授を出し、畑駒岳(はたくがく)が始めた私塾 致道館を継承している。

明治以降は地主として資産を形成し、学者や政治家としても活躍した。

河原田家は実業家として広く知られ、河原田水力電気会社を創立、全財産を投げ打って発電所を建設し仙北地域に初めて電気を灯した。

明治期後半には、 当時最新の農業技術を広めるため専修学校を設立した。

河原田家は明治二十四年裏町から現在の東勝楽丁に引っ越しているが、現存する薬医門は旧城下町である神代本町から持ってきた大変古いものと伝えられている。

豪壮な薬医門をくぐると屋敷は独特な品格と重厚さを持っている。

庭にはアカマツが風情を添え、武家屋敷とコケの相対はすばらしく座敷から見て最も美しいように設計されている。

 

5        岩橋家

武家屋敷 岩橋家

武家屋敷 岩橋家(秋田県指定史跡・昭和48年12月11日指定)

岩橋氏は、南奥州の名門会津黒川城主芦名氏の重臣であった。

天正17(1589)年芦名氏が伊達政宗に敗れ、兄である常陸の佐竹氏を頼り常州へ移り、江戸崎において秀吉から4万5千石を与えられると、岩橋氏も芦名氏に随従して江戸崎に移った。

関ヶ原の戦い後、慶長7(1602)年佐竹氏の出羽移封とともに芦名氏も出羽に下り角館1万5千石を与えられた。

岩橋氏は一時江戸崎を立退き津軽氏に3百石で仕官していたが、主君の角館居住とともに再び芦名氏に帰参し角館に居住した。芦名氏が承応2年(1653)三代にして断絶するに及んで、代わって角館所預となった佐竹北家の組下として(86石)、廃藩に至るまで仕えた。

この建物は、江戸時代末期に改造され、屋根も茅葺から木羽葺にかわったが、角館の武士の生活を今に伝えている。

 

6        人力車としだれ桜

観光用に、通りを解説付きで人力車が走っています。

 

7        角館樺細工伝承館

館内は、樺細工を始めとして工芸、文化、歴史資料の展示室がありますが、たまたまお休みでした。

売店は開いていましたが、洒落た内装です。

 

8        青柳家

角館歴史村 青柳家

当家は、天正八年常陸国青柳和泉守より続く角館を代表する武家屋敷です。

三千坪の屋敷は植物園のように草木に覆われ、その中には六つの資料館

武器解体新書記念館

秋田郷土館・武家道具館

ハイカラ館・体験ツアーなどがございます。

万延元年建立の薬医門からご入場され安永二年の建造の母屋を通ってごゆるりと

散策ください。

年中無休

公開時間 午前九時より午後五時まで

武家屋敷青柳家(秋田県指定史跡・昭和48年7月12日指定)

武家屋敷青柳家は、およそ350年前から現在地に屋敷を構え今日に及んでいる。

角館を町割りした芦名氏の断絶後、角館所領となった佐竹北家の組下となり身分は変わったが、石高は45石から江戸末には100石を超えている。

薬医門には万延元年(1860)の矢板があり、主屋もその頃建て替えられたと考えられる。

主屋は茅葺寄棟造の鍵屋で玄関・取次ノ間・座敷・仏間・納戸があり、角館の武家屋敷の中でも豪華である。

青柳家は藩政期には南部境目山役など勤めたが、明治になって地主として発展し、百町歩におよぶ田畑を有した。

そのためか、屋敷は江戸時代の13間3尺から現在のような広大な屋敷地を持つようになった。

屋敷の広さもあるが、樅・枝垂桜・松など200年を越える樹木が景観を形成している。

平成22年4月 仙北市教育委員会

 

 

四百年の血脈

秀吉の天下統一の頃、 佐竹義宣は水戸に居城しましたが、関が原の戦いのときに西軍に組したとおもわれ、 慶長七年(1602)、秋田に移封されました。

芦名氏の家臣として常陸佐竹氏の国替により角館に入った青柳家は、 芦名断絶後、水戸時代と同様佐竹氏の家臣となります。

以来明治の世を迎えるまで佐竹氏の忠実な家臣として仕え主君の繁栄を支え続けました。

青柳家の象徴でもある薬医門は、 万延元年(1860年)に藩への貢献が認められ佐竹家が特に許可したものです。

門はその家の位や威信を顕すとされていた当時、家老職の屋敷よりも立派な門構えは青柳家の誇りでした。

そして今、 その粛とした姿は角館の象徴となり、人々の営みを見守り続けています。

 

薬医門は小田野家、河原田家にもありますが、河原田家の門は明治になって移築されたものですので藩主から許しを得て造ったのは、小田野家と青柳家という事になります。

8.1         青柳家武器蔵

重い刀でした。

 

青柳家が甲府にて武田の武器作りをしていた当時の鎧兜です。

甲府から水戸、そして秋田と移住する間も家宝として大切にされてきました。

陣羽織や刀も家の誇りとされていました。

五輪塔印は鎌倉時代のものです。

夜着(掛布団)

青柳家で大切に保存していた客用の掛布団

鮑(あわび)を熨(の)したおめでたい熨斗模様(のしもよう)や

角館黄八丈など日本の伝統文化を夜着にあしらった大変珍しい品です。

 

8.2         解体新書記念館

解体新書記念館と小田野直武関連については、別記事にて報告します。

解体新書記念館と小田野直武(おだのなおたけ)

 

8.3         秋田郷土館

秋田郷土館

こちらの古民家は明治期のもので田沢地区から大切に移築されました。

大雪を想定し 10種類以上の木材を使った今では珍しい頑丈な造りの建物です。

中二階 幕末写真展示室

二階   青柳家当主のコレクションと寄贈レコード展示室

どうぞご自由にご覧ください。

 

8.3.1    幕末写真展示室

8.3.2    青柳家当主のコレクションと寄贈レコード展示室

 

 

8.4         武道道具館

当時の武士の生活様式を伝える武家道具が並んでいます。

文献書籍や押絵、焼物、絵皿など武具ではなく生活のなかで使用していた物が展示されています。

 

押絵(おしえ)

角館には江戸時代より数多くのお雛様が伝えられていますが、 庶民の間では手作りの押絵が雛壇を飾りました。

押絵は厚紙に下絵を描いて形を作ったものに裂 (きれ)を貼りその間に綿を入れて立体感をだして仕上げた人形です。

はじめは、女官や奥女中などの高貴な女性のたしなみの一つとして作られていました。

角館でも江戸時代後期にはじまり明治・大正期に隆盛をみました。

製作に当っては、下絵や面相は日本画家 平福穂庵を代表とする郷土画人や祭りの人形師などが担当し、 完成度を高めました。

作品は雛もの、 縁起もの、 童話ものなどがありますが角館では歌舞伎ものが多く作られました。

昔の消火器です。

 

8.5         ハイカラ館

蓄音機や写真機でいっぱいです。

光の力を利用して物の形を描く。

つまり写真術は、銀に含まれている塩類が光によって黒化することを発見したドイツ人の医者によって始められました。

その後1824年にフランスのニエプスが世界初の写真撮影に成功。

この年を写真元年と呼んでいます。

写真元年以後研究が進み、 1839年にフランス人の画家ダーゲルによってカメラが商品化され一般市民の手にわたりました。

しかしこのカメラは野外撮影でも30分以上かかるうえ、写った写真が左向きになるなどさまざまな欠点がありました。

1851年に湿板法が発見されましたが、撮影するためにある程度の技術が必要でした。

ついで乾板が発明されて撮影はさらに簡単になりました。

今のようなロールフィルムやカメラは1888年に「コダック」というブランドネームのもと、イーストマン社から発売されました。

日本にカメラが渡来したのは嘉永元年(1848年) のことです。

長崎の上野俊之丞が最初のカメラマンでした。

上野はこのとき坂本竜馬をはじめ海援隊など当時の志士たちや風景、 風俗などを多数撮影しています。

ここに展示されたカメラは、 明治・大正・昭和にわたる各時代の代表的な高級機と歴史的に価値のあるものです。

時計の歴史は人類の歴史と言っても過言ではありません。

太陽、 星、そして水流を利用した水時計など長い間使用されてきました。

現代のような機械時計は13世紀頃発明され、イタリアで普及しましたが、 指針は時針が一本ついているだけの簡単なものでした。

この時計は一日1000秒から2000秒も遅れ、日時計のほうが正確なほどでした。

しかし、 ゼンマイの発明で時計はより正確にそして小型化されました。

日本に機械時計が渡来したのは室町時代。

その頃の日本は世界唯一の不定時法 (日出 日没を基準として昼と夜を別々に等分する方法)を採用していました。

このため外国の定時法の時計では役に立ちませんでした。

しかし江戸時代の中期には輸入時計を参考に不定時法に合う時計が完成。

有力な大名たちが時計師を召しかかえ、競って華麗な時計を作らせて自慢しあいました。

ここに展示されている和時計は、 明治初期に定時法が採用されるまで作られた世界的にも大変貴重なものです。

 

8.6         青柳家邸内社

御祭神

八幡大神

稲荷大神

春目大神

中古武将が最も景仰(けいこう)した神々である。

稲荷の大神を勧請合したのは家職産業の発展を記念したものであろう。

藩政期には内玄関前庭に杞られていたが、維新以降内庭に遷され現今に至る。

御例祭神

四月八日(旧歴)

 

 

8.7         角館のお祭りと山車

角館のお祭りと山車

角館のお祭りは毎年、九月の七日から九日の三日間にわたって、執り行われます。

祭典中は、各町内からこのような山車が繰り出され町内を曳き回します。

もともとは、角館にある神明社と薬師堂の祭典が重なったことから全国的に見ても珍しいお祭りになったと言われております。

山車の上では、秋田おばこ(年頃の女性)の手踊りが披露され、人形は、主に歌舞伎の題材や武者物が飾られます。

9        石黒家

武家屋敷「石黒家」

藩政時代、角館の財政管理などを担った侍の家です。

角館に現存する武家屋敷の中、 格式が最も高いと言われています。

母屋の築年数は、この町の中では最も古く築210年程度です。

また唯一、直系の子孫家族が生活し続けているため、古くから残っている部分を公開しています。

公開している部屋の中で係員が案内いたします。

 

石黑家

角館の武士は、旧芦名氏の家臣と佐竹氏に付き従った家臣が入り混じっています。

石黒家は佐竹氏の家臣で、明暦二年(一六五六)この地の祈預として、芦名氏断絶の後をうけて入った義隣に従って移住してきました。

もともとは、越中(富山県)の出とされています。

藩政期の大半は武家屋敷地の西側にあたる川原町に住居があって、役職は財政を担当する納戸役や勘定役をしていました。

この地に住居を移したのは嘉永六年(一八五三)のことで、蓮沼七左衛門から買い受けています。

角館の武士は陪臣、つまり家臣のさらに家臣という立場でしたから、禄というのは極く低く押さえられていましたが、幕末近くになりますと、絹、菅笠、樺細工などの殖産に積極的に取り組み、このような家屋を維持出来るほどの財力を持ったのです。

また、学者や文人の出た家としても知られ特に穀堂と号した石黒隼人祐は、漢学者として明治期まで活動しましたし、町で最初の種を行った医師、高橋直庵も一族の出です。

昭和五十年八月六日町指定

昭和五十一年九月一日

国選定重要伝統的建造物群保存地区

角館町教育委員会

茅葺き屋根について

<茅(かや) 材料>

・この場所は、山間部に位置し、 「石黒家」に使用している茅 (かや)は、芒 (ススキ) である。

※材料は、それぞれの地域で手に入りやすいものを使用する。

例えば、海辺・河辺など葦 (アシ・ヨシ)が手に入りやすい地域は、それを使うこともある。

<骨組み材料>

・秋田県内陸部は、積雪が多く、丈夫な竹が自生しにくいため、「石黒家」 の骨組みは、 雑木を使用している。

※全国的には、 竹を使用している地域が多い。

<現状>

・秋田県など日本海側では、 「総葺き替え(屋根の茅を素地から全て取り替える)」のではなく、「差し茅(屋根の茅の素地は残して、 表面のみ取り替える)」 手法で、 維持管理 (メンテナンス)することが多い。

また、建物の数は、 近年の生活スタイルの変化、 材料の入手が困難、職人 (技術者)の不足などの理由により、 年々減少の一途をたどっている。

明治時代から昭和時代初期(およそ1870年から1950年頃)、石黒家の仕事は、地主でした。 地主だった時、ここは、作業場でした。

ここで、 米の品質検査をしたり重さを量ったりしていました。

江戸時代には、 ここに蔵がありました。

雪国では、蔵を母屋の近くに建てます。

なぜなら、 冬の間、 除雪をしないで物を出し入れ出来るようにするためです。

以上で表通りの武家屋敷巡りは終わりですが、道筋の違うところに「松本家」があることをこのブログを書いている時に見つけました。

この「松本家」は、真田広之 主演映画「たそがれ清兵衛」の撮影場所となった場所だったとのことです。

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