宮沢賢治と坪内逍遥の旧居跡を訪れてみました。
どちらも本郷4丁目にありますが、賢治が、三畳の寒風吹きさらす下宿であるのに対し、逍遥は高台の見晴らしの良い住宅です。
年代的にも何ら関係のない両者ですが、残した作品が後世に大きな影響を与えたという意味では作品を通して人々の中で交錯します。
旧居跡からは、暮らしていた当時の経済力の格差が見て取れます。
ただ東京の賢治は貧乏でしたが、生涯を通しては父親が経済的に恵まれていたため裕福な暮らしをしていました。
目次
1 宮沢賢治旧居
37歳で亡くなった宮沢賢治は一生の殆どを故郷岩手の花巻、盛岡の地でその童話の素となる自然とともに過ごしましたが、大正10年(1921年)の1月~8月までの7ヶ月間 鶯谷にある国柱会で法華経の信仰を深めるため家を飛び出して東京本郷菊坂で生活したことがありました。
本郷に決めた理由は東京帝国大学の近くで、新刊本や古本の売りさばき店が多く、小さな印刷所も多いため書籍に触れる機会がどこよりも得られやすいと言うことでした。
僅かな期間です。通常であれば、歴史の記録にも残らないところですが、文京区さんは、さすがです。
場所を調べて立て札も立ててくれていました。
さすがに記録に残っている風が吹けば鳴くような建物とは違いますが、建て替えられた建物と同じ場所にあった建物の2階中央の3畳間が賢治の部屋だったとのことです。
賢治はここから、菊坂を東に上って赤門の近くにある文信社という出版社で校正係の職に就きます。
しかし、出版物の内容は帝大生が持ち込んだ講義ノートを薄い本にして安く売ると言った内容で、ノートを取らず買って済ませようという不真面目な帝大生向けの商売でした。
しかし、下宿先では後に出版されることになる童話を次々と書きました。
下の写真は菊坂の1本南にある脇道です。
昔の風情が現在もそのまま残っています。
1.1 本郷菊坂というところ
この地域は、非常に狭い範囲に、石川啄木、樋口一葉、金田一京助、坪内逍遥と明治から大正にかけての文豪の旧宅がひしめいています。
場所は東京大学の近くで、災害時の避難場所も東大が指定されていました。
また、反対方向には東京ドームがあり、東京の中心地です。
しかしながら、写真で見るように、現在でも細い路地は車一台がやっと通れるくらいの幅しかなく、時代が止まったようで、歩いていても楽しい所です。
1 坪内逍遥旧居
坪内逍遥の旧居跡は菊坂からさらに炭団坂を登ったところにあります。
炭団坂(たどんさか)
本郷台地から菊坂の谷へ下る急な坂である。
名前の由来は「ここは炭団などを商売にする者が多かった」 とか 「切り立った急な坂で転び
落ちた者がいた」 ということからつけられたといわれている。
台地の北側の斜面を下る坂のためにじめじめしていた。今のように階段や手すりがないころは、特に雨上がりには炭団のように転び落ち泥だらけになってしまったことであろう。
この坂を上りつめた右側の崖の上に、坪内逍遙が明治17年 (1884) か20年(1887) まで住み、「小説神髄」や「当世書生気質」を発表した。
坂の上は見晴らしが良く、下の菊坂と比べても高級感があります。
実際に、逍遥が困窮していたという話は聞きませんので、当時も高級住宅街だったのでしょう。
坪内逍遥旧居・常盤会跡
本郷4-10-13|
坪内逍遥 (1859~1935) は、 本名雄蔵、 号は逍遥、または春廼舎(はるのや)おぼろで、 小説家 評論家、教育家である。明治17年 (1884) この地 (旧真砂町18番地) に住み、 『小説神随』(明治18年~19年) を発表して勧善懲悪主義を排し写実主義を提唱、 文学は芸術であると主張した。
その理論書『当世書生気質』 は、 それを具体化したものである。
門下生・嵯峨の舎御室は「逍遥宅(春廼舎) は東京第一の急な炭団坂の角屋敷、崖渕上にあったのだ」と回想している。
逍遥が旧真砂町25番地に移転後、 明治20年には旧伊予藩主久松氏の育英事業として、 「常盤会」 という寄宿舎になった。 俳人正岡子規は、明治21年から3年余りここに入り、河東碧梧桐
(俳人) も寄宿した。また舎監には内藤鳴雪(俳人・ないとうめいせつ)がいた。
ガラス戸の外面に夜の森見えて漬けき月に鳴くほととぎす
(常盤会寄宿舎から菊坂をのぞむ)
正岡子規
松本清張の小説「文豪」によると
逍遥にとって、根津の遊郭の娼妓おセンさんを細君にしたことが一生のコンプレックスとなったとのこと。全体的に逍遥の文章は空疎な美文調で面白くない。一方、逍遥が不義で攻撃した山田美妙は実感の自然的文章で、それを見て自分の才能の無さを自覚したが故、作家を辞めたとのこと。