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東京街歩き:砲術家・高島秋帆の墓 そして肥後藩は なぜ維新の中核となれたのか。

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中山道から本郷通りへの抜け道を探している時に、たまたま高島秋帆のお墓のある大圓寺の前を通りかかりました。

鳥居耀蔵に罪を被せられた後、赦免されたこと迄は、知っていましたが、東京にお墓があるとは正直驚きました。

今回は、この高島秋帆と佐賀藩について書き留めておこうと思います。

高島秋帆の話に行く前に、まずは疑問を解決しましょう。

明治維新の中心となった薩長土肥の四藩の一角に肥前藩(ひぜんはん)があります。

薩長土までは分かりますが、なぜそこに肥があるのでしょうか。

話は文化5年8月(1808年10月)の長崎から始まります。

1        フェートン号事件

8月15日イギリス海軍の軍艦フェートン号は、オランダ国旗を掲げて国籍を偽り、長崎へ入港しました。

これにまんまと騙された出島のオランダ商館は出迎えのために商館員2名を遣ったところ、武装ボートによって2名の商館員が拉致されてしまいました。

そこで奉行は、湾内警備を担当する佐賀藩(肥前藩)と福岡藩にフェートン号の焼き討ちもしくは抑留を命じ、さらに大村藩にも派兵を求めますが、太平に慣れた各藩の対応は遅く、しかも警備担当の佐賀藩では、経費削減のため守備兵を規定よりも大幅に減らしていたことが明らかになりました。

江戸時代、長崎は幕府直轄の天領でしたが、その警護には佐賀藩と福岡藩が1年交代で担当していました。

事件のあった年の当番がたまたま佐賀藩でした。

16日フェートン号は、人質1名を解放して、食糧・水・燃料を要求します。

そして、もし要求が受け入れられなければ、船に装備されていた大砲や銃を使って港内の和船や唐船を焼き払うと恫喝しました。

奉行の松平康英は激高しますが、対抗するだけの人と武器がない以上、要求をのまざるを得ませんでした。

奉行所は水と飲料水を与え、オランダ商館も豚と牛を送ると、17日にフェートン号は残りの人質も釈放して港外に去って行きました。

イギリス船の目的は当時敵対関係にあったオランダ船の拿捕でした。

出島にオランダ商館があったから来たのであって、日本が目的ではありませんでした。

結果的には、大事に至ることは無く平和裏に解決したのですが、幕府の受けた屈辱は相当なものでした。

侵入船の要求にむざむざと応じざるを得なかった長崎奉行の松平康英は、国威を辱めたとして自ら切腹し、勝手に兵力を減らしていた佐賀藩家老等数人も責任を取って切腹しました。

さらに幕府は、佐賀藩が長崎警備の任を怠っていたとして、11月には藩主鍋島斉直に100日の閉門を命じました。

財政が破綻寸前となっていた佐賀藩には莫大な費用が発生する警備は、つらいものだったようです。

そういう事情は当時の長崎奉行も薄々分かっていた筈なので、何もフェートン号事件の時に、警備の簡素化に初めて気が付いたような書き方をしている歴史書には違和感を覚えます。

この事件以降、日本にイギリス船が次々と来航し、日本を軽んじる振る舞いをくり返しました。

これが、1825年に発令された異国船打払令に繋がってゆきます。

2        その後の肥前藩(鍋島藩)

「フェートン号事件で処罰された藩主鍋島斉直は発奮して藩政改革を断行した」となると絵にかいたような筋書きですが、どうやら鍋島斉直という人は、それほど出来の良い藩主ではなかったようです。

文政2年(1819年)に江戸藩邸焼失

文政11年(1828年)のシーボルト台風による死者1万人の大被害

を受け、財政がにっちもさっちも行かなくなったところで

天保元年(1830年)、家督は「佐賀の七賢人」といわれた17歳の鍋島斉正(明治維新以降は「直正」)に引き継がれます。

斉正の改革は以下です

藩財政改革(借金の8割の放棄を認めさせたというのでめちゃくちゃです)

藩校弘道館を拡充し優秀な人材を育成し登用するなどの教育改革

小作料の支払免除などによる農村復興などの諸改革

また、長崎警備の名目の元、国防のための兵器の必要性を感じ、鉄製大砲鋳造のための反射炉を築き、理化学研究所「精煉方」や海軍伝習所を設置し、国産初の蒸気機関の開発なども行いました。

その結果、後にアームストロング砲など最新式の西洋式大砲や鉄砲の自藩製造に成功しています。

幕末佐賀藩の技術力は日本の最先端を走っていました。

明治維新において、鳥羽・伏見の戦い以降に新政府軍に参加した佐賀藩でしたが、最新式の兵器を装備した佐賀軍の活躍は大きいものでした。

フェートン号事件が1808年、鍋島斉正が家督を継いだのが1830年で、22年経っていますので、一般に言われているフェートン号事件があって、西洋の軍事技術をいち早く導入したというのとは少し違う気がしています。

しかし外様大名が、関ケ原の屈辱を幕末まで持っていたくらいですから、その屈辱が僅か22年で消えることは思えません。

屈辱は原動力となったでしょう。

他の要因としては、佐賀藩が長崎を警護していたため、西洋の情報がいち早くはいってきていたのと、藩主鍋島斉正の先見性も見逃すことはできません。

3        高島秋帆(しゅうはん)

いよいよ高島秋帆の登場です。

『ウィキペディア(Wikipedia)』高島秋帆 2020年9月6日 (日) 11:50

高島家は代々、長崎の町年寄を務め、長崎警備の一環として出島台場(砲台)を受け持った関係から、砲術を学ぶ必要がありました。

高島秋帆は、日本の砲術が西洋砲術に及ばないことを知って愕然とします。

そこで、町年寄の特権を利用して出島のオランダ商館に出入りし、洋式砲術を学び、高島流砲術を確立して、西洋砲術の第一人者となりました。

佐賀藩武雄領主鍋島茂義は、天保3年(1832年)、家臣平山醇左衛門を秋帆に入門させ、彼を取次役として高島流砲術を学びました。2年後の1834年には、茂義自身も入門しています。

佐賀藩主の鍋島斉正も高島秋帆の西洋砲術に多大な関心を寄せますが、守旧派重臣の反対や幕府に睨まれるといった懸念があったため、義兄である鍋島茂義を使って砲術の技術を藩に導入しました。

天保12年(1841年)、清はアヘン戦争でイギリスに敗れます。

その年、幕府は海防等の急を説く秋帆の進言を入れ、江戸近郊の徳丸原(現在の東京都板橋区高島平)で西洋式調練を行わせました。幕府が西洋砲術を導入するきっかけとなった演習です。

この演習には佐賀藩からも、平山醇左衛門をはじめ3人が参加しています。

尚、高島平は秋帆によってこの場所で初めて洋式砲術と洋式銃陣の公開演習が行われたことにちなんで昭和44年(1964年)に名づけられた名前で、僅か50年そこそこの歴史しかありません。

しかし、この命名で、後世の人たちに高島秋帆の名が知れ渡りました。

秋帆は幕府からは砲術の専門家として重用されましたが、翌天保13年(1842年)に長崎会所の長年にわたる杜撰な運営の責任者として逮捕・投獄され、岡部藩(現埼玉県深谷市)に幽閉されてしまいます。

下の写真が、埼玉県深谷市にある高島秋帆幽囚の地の碑です。

幽閉とはいうものの、岡部藩では秋帆を客分扱いとして、藩士の兵学指導を見てもらったとのことです。

嘉永6年(1853年)、ペリー来航による社会情勢の変化により赦免されて出獄し、幕府の砲術訓練の指導に尽力しました。

晩年については全体像が明らかになっていませんが、ともかくも墓は大圓寺の墓地にあります。

参考文献

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』フェートン号事件 2020年6月21日 (日) 18:22

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』高島秋帆  2020年9月6日 (日) 11:50

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』鍋島斉直 2020年8月10日 (月) 02:30

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』鍋島直正  2020年11月22日 (日) 07:56

武雄市歴史資料館 ふるさとの先人たち 資料

高島平の歴史と高島秋帆-令和元年度特別展- 板橋区立郷土資料館/編集 2020.2出版

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