美術館/博物館

世田谷にある「静嘉堂文庫美術館」引っ越し前の展示会 前期報告

スポンサーリンク

世田谷にある静嘉堂文庫美術館は、岩﨑彌之助(1851~1908 彌太郎の弟、三菱第二代社長)と岩﨑小彌太(​1879~1945 三菱第四代社長)の父子二代によって設立された美術館で、来年(2022)丸の内の明治生命館1Fに移転します。

そのため、今回の「旅立ちの美術」と銘打った展覧会が、世田谷で開催される最後の展示会となります。

前期と後期がありますが、今回は最後なのでどちらにも行く予定にしています。

まずは、前期の展示会に行って来ました。

特に、前期は美術館が所蔵する国宝7点すべてが展示されています。

私立の美術館として国宝7点は国内でもトップの多さだと思います。

都内では南青山の根津美術館も国宝7点を所有しています。

美術館の最大の目玉は曜変天目茶碗ですが、今回は茶器の付藻(つくも)茄子を目当てに見学しました。

 

1        玄関

静嘉堂美術館の玄関です。

玄関から正面の池を撮影したものです。

車はこの池の周りで約20台駐車できます。

休日でもこの駐車場が一杯になることはありませんでした。

ただし、今回は学芸員さんのお話の時間に合わせて訪れましたので、1時間前でしたが、ほぼ満車でした。

2        展示品

パンフレットを参考にしてください。

2.1         付藻茄子(くつもなすび)・茶入れ

今村 翔吾の「じんかん」を読んで知りました。

松永久秀が信長上洛の際、信長の献上したもので、本能寺の変のあと、豊臣秀吉→豊臣秀頼と渡り、大坂夏の陣で城とともに壊れます。

大坂城焼け跡から探し出し、粉々に割れていた破片を漆で継ぎ合わせて修復を行ったのが奈良の塗師・藤重藤元(ふじしげとうげん)/藤重藤厳(ふじしげとうげん)親子です。

余りにみごとな復元振りに、「付藻茄子」は徳川家康から藤元に下賜されたということです。

その後、明治時代に岩崎彌之助の手に渡り静嘉堂所蔵となりました。

X線調査の結果がこのサイトで見られます。

こお茶入れについては、実物の価値云々よりも、様々な権力者の手から手に渡ったその事実が、価値を高めています。

2.2         曜変天目

最初見たときは驚きました。

焼き物で、このような模様が付くのが分かりません。

完全なものは日本にある3個だけだそうで、数多の失敗作の中で偶然できた一品と言うことになります。

2.3         邯鄲の夢蒔絵螺鈿印籠と緑釉絞胎枕

「邯鄲夢の枕」とは、昔「盧生」という若者が、趙の都の邯鄲に行きます。

盧生はそこで呂翁という道士(日本でいう仙人)に出会い、自らの身の不平を語りました。

するとその道士は栄華が思いのままになるという不思議な枕を盧生に授けます。

盧生がその枕を使ってみると、50余年の富貴を極めた一生の夢をみることができましたが、夢から覚めてみると、宿の亭主が先ほどから炊いていた黄粱(こうりゃん)がまだできあがっていなかった、という『枕中記(ちんちゅうき)』の故事です。

人の栄枯盛衰はしょせん夢に過ぎないということを物語っています。

3        周辺

3.1         美術館裏手

美術館は二子多摩川の街が望める高台にあります。

3.2         静嘉堂文庫

静嘉堂文庫は、三菱の第4代社長の岩崎小彌太が、父親の彌之助が蒐集した日本や中国の古典を永久に保存し、更に研究者に公開することを目的に建設したものです。

3.3         甕(かめ)

駐車場の端に無造作に置いてありますが、雨風に打たれても良いものなのでしょうか。

「金時代『十二世紀』ものと思われる。(木の梢等から見て素朴な手法からこの時代のものと判断できる)道教に関係ある甕で道教の寺の水甕として使用されたものと想像できる。(牛に乗っている仙人から推察)類品が余り無く珍らしいものである。縁の青色は翠青釉を使用したものと思われる。」

3.4         岩崎家廟

明治43年12月、我が国西洋建築の始祖ともいうべきジョサイア・コンドルによって建てられました。

岩崎彌之助以下代々の廟となっています。

廟の入口

これが廟です。

3.5         岩崎彌之助の碑

4        静嘉堂文庫美術館の引っ越し

現在の美術館の場所は、交通の不便なところなので、人がそんなには集まりませんが、丸の内に移動したら、沢山の人が訪れることでしょう。

今のうちの、この静けさを十分味わっておきたいと思います。

後期展示の報告は”世田谷にある「静嘉堂文庫美術館」引っ越し前の展示会 後期報告です。

スポンサーリンク

-美術館/博物館