山梨県韮崎市は、その地名の由来通り、ニラの葉状の台地の先端にあります。
地図の中心にあるのが七里岩と呼び、八ヶ岳の噴火による岩屑流(がんせつりゅう)が、西と東に流れる釜無川と塩川によって浸食されてできた台地です。
韮崎市内の見どころをぐるっと回ってみました。
目次
1 七里岩の先端の平和観音
七里岩の先端に立っているのが平和観音です。
高崎白衣観音、大船観音の観音像と合わせ、関東三観音のひとつと言われているようです。
七里岩の末端の部分なのですが、それでも高低差はかなりあります。
2 窟観音
平和観音の下には窟観音堂があります。
何もわざわざ困難な場所に観音堂を造らなくても良いものを、と思いますが、世の中には同じような造りの観音堂がありますね。
宗教的には何か意味があるのでしょうね。
観音堂の横には、七里岩の反対側に抜けるトンネルがありました。
そして、下(平地部)にも上と同じようなトンネルがあります。
トンネルの側面に露出しているのは火山灰や岩片などから形成された凝灰角礫岩(ぎょうかいかくれきがん)と思われます。
トンネルを抜けると反対側にも階段があり、上のトンネルへ行くことができます。
3 小林一三生家跡
小林一茶と勘違いしていました。
小林一三(こばやし いちぞう)は阪急電鉄をはじめとする阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の創業者で、松岡修三の曽祖父さんにあたる人だということです。
4 市役所前の武田信義の銅像
韮山市役所前にあります。
武田信義は鎌倉幕府創設時、頼朝と共に平家追討で活躍しましたが、その後、同じ源氏の血筋の一族が力を持つことを快く思わない頼朝から遠ざけられ所領地の甲斐でひっそりとすごし、亡くなりました。
系図は下記の通りです。
信義から武田を名乗ったということで、甲斐武田氏の始祖と呼ばれています。
5 一橋家陣屋跡
一橋家は八代将軍徳川吉宗の第四子宗尹がおこしており、延亨三年(一七四六) 九月に本県の治領地 三百四四石余が与えられた。
陣屋は頭双葉町宇津谷(村)に構えていたが、宝暦三年(一七五三)にこの地に陣屋を移した。
その後寛政六年(一七九四)に静岡県榛原郡相良町に ところがえ になったので陣屋は廃され、再び幕府領となった。
この時河原都村では陣屋の存続を願い出たとのことである。
陣屋では租税 ・断獄などの民政を行っており、その屋敷は東西が約三十三m.北が約五十二"の広さで、この中に本屋・土歳・長屋・同心役宅の建物があった。
平成九年十二月二十二日
韮崎布
他にも 武田勝頼が築いた新府城跡をレポートしています。