史跡

武田勝頼によって七里岩の台地に築城された新府城跡

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新府城は、武田家最後の当主・武田勝頼によって七里岩(しちりいわ)の台地に1581年に築城された城郭です。

織田軍を迎え撃つために昼夜兼行で僅か8か月余りで築城されたのですが、外郭の備えは未完成で、兵力の終結もままならず、勝頼入城からわずか68日で火を放ち廃城にしました。

勝頼はその後、小山田信茂の岩殿城に向かいますが、謀反に会い甲府の西の天目山の麓で自害し、400年続いた名門武田氏は滅亡しました。

勝頼自刃の79日後の6月2日には本能寺の変で信長が消えます。

戦国の真っただ中で、一瞬の間あった幻の城と言えるでしょう。

本丸跡に咲く満開の桜の季節(2023-3-27)に、城址を訪れました。

いざ新府城跡へ。長い階段を登ります。

国指定史跡

新府城跡

指定年月日

昭和四十八年七月二十一日

指定面積 二三・八七ヘクタール

 

新府城は、正式には新府中韮崎城といい、天正九(一五八一)年春、武田勝頼が甲斐府中として、城地を七里岩南端韮崎の要害に相し、部将真田昌幸に命じて築かせた平山城である。  勝頼がこの地に築城を決意したのは、織田信長の甲斐侵攻に備え、韮崎に広大な新式の城郭を構えて府中を移し、これに拠って強敵を撃退し、退勢の挽回を期した結果であろう。

築城工事は昼夜兼行で行われ、着工後八ヶ月余りで竣工した。ついで城下町も整ったので、新府韮崎城と名づけ、同年十二月、甲府からここに移り、新体制を布いたのであった。

しかし戦局は日に悪化して翌年三月、勝頼は織田軍の侵入を待たず、みずからこの城に火を放って退去するのやむなきに至り、天目山田野の里に滅亡の日を迎えたのであった。

廃墟と化したこの城も、同年六月本能寺の変で織田信長が亡び、徳川・北条両氏が甲州の覇権を争うと、家康はこの城跡を修築して本陣とし、われに五倍する兵を率いて若神子に布陣する北条氏直を翻弄して有利に導き名城新府の真価を発揮したのである。

この城は八ヶ岳火山の泥流による七里岩の上にあり、その地形をよく生かして築かれたその城地の特色は城外から俯瞰されないことで縄張りの特徴は北方に東西ニ基の出構を築き、鉄砲陣地とした点で、従来の城郭には見ることのできない斬新な工夫である。

現存する主な遺構は、頂上の本丸を中心に西に二の丸、南に三の丸、大手、三ヶ月掘、馬出、北に出構、搦手口、東に稲荷曲輪、帯曲輪があり、北から東に堀が繞らされている。史跡指定区域は約二〇ヘクタールに及ぶ広大なものであるが、この外側には部将らの屋敷跡と伝えられる遺構・遺跡が散在している。

昭和五十九年十二月二十五日

文化庁

山梨県教育委員会

韮崎市

韮崎市教育委員会

韮崎市観光協会

 

鳥居を超えてもまだまだ続きます。

登り切りました。

満開の桜がお出迎えです。

国指定史跡   新府城跡

昭和四十八年七月二十一日指定

新府城は、天正十年三月織田軍の侵攻を前に、武田勝頼自ら火を放って東方郡内領岩殿城を指して落ちていった武田家滅亡の歴史を伝える悲劇の城跡である。

本城は南北六〇〇メートル、東西五五〇メートル、外堀の水準と本丸の標高差八〇メートル。型式は平山城で、近世城郭のような石垣は用いず、高さ約二・五メートルの土塁を巡らしている。

最高所は本丸で、東西九〇メートル、南北一二〇メートル、本丸の西に蔀(しとみ)の構を隔てて二の丸があり馬出しに続く。

本丸の東に稲荷曲輪、二の丸を北方に下れば横矢掛りの防塁があり、その外側に堀を巡らしている。

堀は北西から北、北東へと巡り、北方の高地からの敵襲に備えて十字砲火を浴びせるための堅固なニヵ所の出構が築かれている。

三の丸の南方には大手が開け望楼があり、三日月形の堀とその外側に馬出しの土塁が設けてある。

本丸と東西三の丸、三の丸と大手等の間には、帯曲輪、腰曲輪がある。

搦手にも望楼がある。

蔀の構、出構は新府城の特色で防御のために工夫されたもので、特に出構は鉄砲のような新鋭兵器をもって敵の攻撃に対抗するために工夫された構えといわれる。

昭和六十年三月

文化庁

山梨県教育委員会

韮崎市教育委員会

史跡 新府城跡

昭和四十八年七月二十一日 国指定

中田町中条上野城山四七八七番地外

新府城は武田勝頼によって天正九年(一五八一年)二月に築城着手され、その完成したのは同年十二月であった。

それまで甲府躑躅崎(つつじがさき)の館城にあった勝頼は四囲の情勢から考えてこの天険を利用する以外に方策がなかったのである。

しかし時すでに遅く天正十年三月三日織田軍の侵攻を前に自ら城を焼いて東方、郡内領岩殿城を指して落ちた悲劇の城跡である。

本城は南北六〇〇米、東西五五〇米、外堀の水準と本丸の標高差八〇米。

型式は平山城で、石垣は用いない。

最高所は本丸で、東西九〇米、南北一二〇米。本丸の西に「シトミの構え」を隔てて二之丸があり大手に続く。

堀は北西から北、北東へと巡り北方の高地からの敵襲に備えて、十字砲火を浴びせるための堅固な二ヶ所の「出構え」が築かれている。

「シトミの構え」、「出構え」は新府城の特色で防御のために工夫されたもので特に「出構え」は鉄砲のような新鋭兵器を持って敵の攻撃に対抗するために工夫された構えといわれる。

 

勝頼公を祀る藤武神社です。

能楽堂の雰囲気ですね。

遺構の発掘調査が行われているのかブルーシートが掛けられていました。

石祠・武田勝頼公霊社

城址からの眺望は抜群です。北には八ヶ岳が見えます。

城郭の裾にある出構(でがまえ)の遺構です。

新府城跡出構(でがまえ)

出構は城の外郭の一部を長方形に堀の中へ突出させた大型の土盛構造である。

東西に約百十メートルへだてて平行に二本(東出構・西出構)が築かれている。

城の裾に沿って掘られた堀は幅約七メートル、深さ約二・五メートルの断面逆台形をした箱堀で、その外側には湿地帯が広がり、深い堀と湿地帯を含め防御施設となっている。

出構は新府城跡のみにみられる施設で、鉄砲陣地とも堀の水位を調整するためのダム的な施設ともいわれるが、その機能は解明されていない。

平成二十六年九月

韮崎市教育委員会

以下は山梨県立考古博物館の展示パネルです。

下記の本では、廃城後に、徳川家康が北条との戦で本陣に跡地を使用。

難攻不落の本陣に北条は攻められなかったと書いてあります。

場所は良かったのですが、衰退するという事はこういう事でしょうか。

いくら城が良くても家来が次々と離反し体制が維持できなかったのでしょう。

正に信玄の言った、「人は城、人は石垣、人は堀」ですね。

浮世絵『天目山勝頼討死之図』
天正10年3月11日、 甲斐国天目山で織田軍に攻められ、最期を遂げた。
付き従う家臣はわずかであった。
設楽原歴史資料館所蔵のもの

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