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大井ダムのダム湖が作った景勝地・恵那峡

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恵那峡は、岐阜県恵那市に位置する美しい渓谷で、木曽川をせき止めて作られた人造湖です。

大正時代に「電力王」として知られる福沢桃介が建設した大井ダムによって形成されました。

 

この地域は四季折々の自然美が楽しめることで有名です。春には桜が咲き誇り、夏には新緑、秋には紅葉、冬には雪景色が広がります。

特に、遊覧船に乗って湖上から眺める景色は絶景です。

 

また、恵那峡周辺には温泉や観光施設も充実しており、訪れる人々に癒しと楽しみを提供しています。

例えば、恵那峡温泉や恵那峡ワンダーランドなどがあり、家族連れやカップルにも人気のスポットです。

 

恵那峡の入口には石碑が立っています。

ダム湖の中には、半島のような陸地がありますが、もともとは木曽川の渓谷の中の小高い場所で、周りが水没したため出島のような形状の陸地となりました。

恵那峡の写真の奥には、大井ダムが見えます。

手前には遊覧船の桟橋があります。

観光用の文字。

Yの字だけが、わざと据え付けられていません。

観光客は、製作者の意図通りポーズを取ります。

その昔、この付近は急峻で洪水の多い暴れ川であった。

現在の景観は、大正13年(1924)に大井ダムの開発によって木曽川が堰き止められたことでできたものである。

一般的にダム開発では景観が損なわれてしまうことが多いが、大井ダムの開発では、 人工物と自然が見事に調和し、「恵那峡」という景勝地が誕生した。

現在の穏やかな湖畔からは、遊覧船や散策によって、花崗岩が深く削り込まれた奇岩怪岩を見ることができる。

これらは急峻であった木曽川の名残である。

周辺を散策すると 「さざなみ公園」 「弁天島」「傘岩」 「福澤桃介の銅像」「北原白秋の歌碑」 など、 その歴史や四季折々の自然に触れられる様々なスポットを巡ることができる。

 

1        福沢桃介の像と川上貞奴の碑

福沢桃介と川上貞奴

福沢桃介は福沢諭吉の娘婿である。

諭吉は明治26年に発刊された 「実業論」 の中にこれからの日本には機械化による経済発展が欠かせず、 そのためには電力が必要だが、資源の乏しい日本に於いては水力こそが期待されると書いた。

水は「ホワイトコール (白い石炭)」 だと説いたのも諭吉である。

桃介はその岳父の言葉を具現させた。

木曽川に七ヶ所の発電所を造ったのである。

しかも特筆すべきなのは、 桃介の手による七ヶ所の発電所は今も残り、 産業遺産や重要文化財となっているものが多いということである。

単なる工場ではなく、 ドイツのライン川に立ち並ぶ古城のように発電所を建てたいとの桃介の思いは、 大正7年(1919) に完成した母発電所から始まった。

川上貞奴は日本の女優第一号と言われているが、オッペケペー節で一世を風靡し、新派劇の父と言われた川上音二郎の妻だった。

その音二郎が亡くなったのち、 貞奴は女優を引退し、幼なじみだった桃介のパートナーとして七ヶ所の発電所建設に寄与することとなる。

桃介と貞奴はライン川の古城のような発電所を造る一つのチームだった。

女性が大規模な発電所事業に関わったのも貞奴が初めてだろう。

だからこそ発電所そのもの、窓や意匠にも今では考えられないような美的な感性が溢れている。

男の力と女の力の融合である。

福沢桃介と川上貞奴を描いた小説 「水燃えて火」の作者 神津カンナ著

マダム貞奴と恵那峡

川上貞奴(本名小山貞)は明治4年東京日本橋両替町(現在の人形町)に生まれ、明治27年オッペケペ節の川上音二郎と結婚、日本の女優第1号として舞台への第一歩を踏み出す。

そして音二郎は一座を組み世界巡業に出発。

パリの万国博では、「道成寺」「芸者と武士」に主演女優として活躍。

世界各国の人々の評判も高く、一躍女優マダム貞奴の名声を博した。

明治44年、川上音二郎の没後は再び福沢桃介との交友が始まった。

桃介が名古屋電燈の顧問となり、大正3年社長になると、名古屋に居を構え、南木曽町には別邸を建てた。

大正10年、福沢桃介が、「男伊達ならあの木曽川の流れ来る水止めても見よや」と名調木曽節に謡われた木曽川に日本最初のダム式発電所大井ダムの建設を開始するや、終始その良き協力者として活躍した。

工事が最大の難関に突き当たって人々が動揺した時、人工頭や工事関係者の制止を振り切って桃介と共に索道のモッコに乗り、木曽川の絶壁を降り、二人で工事を督励し、難関を乗り切って工事を完成に導いた逸話は今も世の人の語り草となっている。

川上貞奴が電力王福沢桃介と共にこの恵那峡の地に残したロマンと足跡、大河木曽川の流れを愛し続けたその心と遺徳を永久に偲びレリーフを建立して、その功績をここに讃える。

昭和60年春 建立

恵那峡観光協会

福沢桃介翁顕彰由来記

日本発電事業の大先覚者福沢桃介翁は明治元年埼玉県川越の農家に生まれた

明治十六年当時の著名な教育家福沢諭吉の創設する慶應義塾に入塾「才能を認められて諭吉の婿養子となり米国に留学帰国後論吉の二女ふさと結婚、北海道炭鉱鉄道に入社のち王子製紙の重役等を勤め、明治四十二年「日本を発展させるでっかい事業を」と名古屋電灯(株)に投資顧問を経て大正三年社長となる

その後木曽川電氣製鉄(株)や他の関係会社を合併させ、木曽川水力事業に乗り出し発電所建設の黄金期を迎える

大正十年七月大同電力の大事業である日本最初のダム式(堰堤式)大井発電所建設工事が、社長福沢桃介の大英断によって始まり不屈の精神により実行不可能といわれていた木曽川の激流をせきとめ大堰堤を築き上げ同十三年十一月見事に竣工させた、その副産物として延長三里(十二キロ)の人造湖東海一の名勝「恵那峡」が生まれた恵那峡は奇岩怪石の美しい自然環境に恵まれ四季おりおりの景観は地元民はもとより旅情を求めて訪れる人々の心を和ませてくれる

このように雄大にしてすばらしい観光遺産を授けてくれた電力王福沢桃介翁顕彰会を創立して「恵那峡六十年祭記念事業として翁の銅像を建立し、その遺徳を永遠に称え顕彰するものである

恵那峡観光協会

昭和五十九年五月十三日建之福沃桃介翁顕彰会

 

2        恵那峡の自然

ハナモモと福沢桃介

一本の木に白色、赤色、 桃色の三色の花を咲きわける 「三色桃」と称されるハナモモは、 「電力王」 と呼ばれた福沢桃介が発電所の水車を購入にドイツへ行った際に、見つけて持ち帰ったのが日本での始まりといわれている。

持ち帰られたハナモモは、 関西電力須原発電所に植えられ、職員のボランティアにより育てられ、 多くの人を楽しませている。

この場所のハナモモは桃介が持ち帰った須原発電所のハナモモの子孫で、関西電力東海支社のご好意により寄贈された苗を植樹したものである。

桃介由来のハナモモが恵那峡でたくさんの人を楽しませることを、 桃介も願っているに違いない。

春はサクラやツツジが咲き誇り、夏には新緑と青空のコントラストが湖面に映え、 秋は鮮やかな紅葉が湖畔を彩る。

また、 冬には遊覧船から岩場で休む渡り鳥たちを見ることができる。

恵那峡は訪れる季節によって、 様々な表情を見せてくれる。

 

3        弁天島

 

弁財天

「弁財天」は七福神の紅一点で、水に関連している女神であり、水に囲まれた場所で多く祀られている。

また今日では、幅広いご利益を授かれる万能な神様としてあがめられている。

大井ダムは福沢桃介の尽力により建設されたが、困難を極めた建設の際の犠牲者は3名。

その犠牲者の慰霊のため、昭和六年奈良県生駒山の修行僧「福崎日精氏」により建立された。

弁財天 Benzaiten

大井ダムができる前、 この弁天島は木曽川中心部に向かう小高い山だったとされる。

弁財天はこの山に江戸時代中期頃に祭祀されたといわれる。

その後、 大井ダムの開発に伴い現在のような小島の形になり、幾多の護岸工事によって守られ現在に至っている。

現在も河川の治水や音楽、 弁財 福智、 延寿、 除災、 得勝を司られているといわれる。

 

4        さざなみ広場

北原白秋と恵那峡 (Ena Valley)

北原白秋は恵那峡を題材とした歌を3首詠んでいる。

昭和2年には日本新八景選定の委嘱を受け、旧暦の盂蘭盆8月25日に恵那峡を訪問し、 『日本八景-十六大家執筆』 の 「木曽川」の中で当時の恵那峡の景観をありありと表現している。

北原白秋と恵那の縁は、 長島町永田の歌人、 牧野暮葉との交流に始まる。

薄のにしろくかぼそく 立つ煙 あはれなれども 消すよしもなし

白秋は何度も恵那地方に遊したが、この歌は大正七年秋、 鳥屋遊びに興じた折に書き記した歌である。

恵那峡が現在のダム湖となる以前に詠まれた歌であり、当時の景観が覗える。

ダム湖百選

「ダム湖百選」とは、地域にとってかけがえのないダム湖を選定・顕彰することによって、より一層地域に親しまれ、地域の活性化に役立つことを願って認定されたものです。

恵那峡(大井ダム) は大正13年日本で最初のダム式発電所として完成し、桜、緑、紅葉、雪景色と四季折々の美しさで楽しませてくれ、また、遊覧船巡りでは両岸の奇岩怪石がそびえ立ち自然の造形美を楽しめ、冬に訪れる渡り鳥のバードウオッチングも楽しめます。

周辺には、 天然温泉に入れるホテルをはじめ多くの宿泊施設が有り、景色を眺めながらゆっくり滞在することができます。

周囲を取り囲む自然と湖によって創られた水辺空間は、年間を通じて多くの人々の憩いの場所となっていることにより 「ダム湖百選」に認定されました。

恵那峡(大井ダム)

平成17年3月

5        ビジターセンター

木曽川の両岸に点在する奇岩群は、ダム建設によって半分近く水没したが、水面からそびえ立つ大岩がダム湖に映り込み、新たな風情が生み出されました。

ダムによってできた景勝地

「恵那峡」 は大正9年に地理学者・志賀重昂によって景勝地として命名されました。

両岸には、 巨大な奇岩が立ち並び、春には桜をはじめツツジも美しく咲きます。

夏には木々の濃緑に包まれ、秋には、 モミジなどの紅葉が辺り一面を彩ります。

冬にはオシドリなど水鳥が飛来し、 バードウォッチングもできるなど、 四季を通じて楽しめるのが恵那峡の魅力です。

 

工事に先立って地質学者の巨智部忠承に委嘱して地質調査を実施し、ダム建設候補地である大井町字奥戸、 その上流奥戸渡船場、 さらに上流の屏風岩付近の3か所の候補地を精査、ダム建設に最も適するとして最下流の大井町奥戸付近を選定した。

この地点は花崗岩や石英斑岩などからなり、岩質が堅牢であり、水の摩擦によく抵抗し、漏水のおそれも無く、地すべり断層などの地質上の弱点が全くないことが明らかになったことや、堰堤の築造には好適の地形を示し、 理想的な場所であるとの結論に達した。

木曽川は、木曽節の中でも「男伊達ならこの木曽川の流れくる水止めて見ろ」と歌われるほど激流で水量が豊富な為、水力発電としては、絶好の適地だった。

その木曽川は電力王 「福沢桃介」によって堰き止められた。

大正10年、 大井ダムの建設が始まり、 大正13年、我が国初の本格的高堰堤(こうえんてい)式発電ダムは完成し、 日本土木史に残る金字塔となった。

 

6        木曽川になぜ関西電力の発電所?

場所的に、中部電力の地域なのに、関西電力の水力発電所があるのは不思議でした。

木曽川は大正時代から大規模開発が始まり、昭和にかけてもはやダムを造る場所がないといわれるほどダムが密集した。

国土交通省木曽川上流河川事務(岐阜市)によると、 木曽川筋のダムは18カ所で、うち12カ所を関西電力のダムが占めている。

地元・岐阜をはじめ東海圏は中部電力のエリアなのに、なぜ関西電力なのだろう。

電力会社や自治体の資料から振り返ってみた。(三田村泰和)

 

なぜ関電か。

答えは福沢桃介(一八六八~一九三八年)にさかのぼる。

大正時代に木曽川で水力発電を始め、ついには「電力王」とまで呼ばれた実業家だ。

桃介が率いたのが電気卸売会社「大同電力」で、これが関西電力の前身なのだ。

桃介は「一河川一会社」を唱え、故に木曽川の主な水力発電は大同電力・関西電力が一手に進めてきた。

現在、木曽川には関西電力の水力発電所が三十三カ所ある。

三十五年前に木曽川だけおよそ原子力発電所一基分の百万超の発電を可能にした。

三十四カ所目を長野県南木曽町に新設工事中だ。

桃介は埼玉県出身で福沢諭吉の娘婿となる。

株売買で頭角を現し、将来性を見込んで「名古屋電灯」社の株主になった。

水力発電に関心があった桃介は名古屋に乗り込んで水量、流速が発電にうってつけの川と出合う。 木曽川だ。

「福沢桃介翁伝」(一九三九年、福沢桃介翁伝記編纂所発行)の筆者は「蓋(けだ)しこの木曽川こそは、水力電気に関する総ての要素を具備する河川中の王座を占むるものである。彼(桃介)が名古屋から目睫(もくしょう)の間に、木曽川を発見したことは、偶然の天佑として勿体な過ぎる程の幸運と云はざるを得ない」と力説した。

電源開発以前の木曽川は、舟運と運材の川だった。

下流から塩などの物資が帆掛け舟で八百津町辺りの港までさかのぼり、上流からは木曽の材木が流れに乗せて送られた。

木曽式伐木運材法という。

八百津町には大正時代まで「錦織綱場」があり、綱を川に張り渡して一本ずつ流れて来た材木を受け止め、いかだに組んで下流ヘリレーした。

水力発電施設を建設した桃介は一九二三(大正十二)年、電力不足だった関西へ送電を始め、現在に引き継がれている。

二百余りの送電線で木曽川と大阪府門真市の大同電力大阪変電所を結ぶという大プロジェクトで、桃介は変電所の正面高く毛筆を浮き彫りにした額で飾った。

「曽水一条電浪華萬燭春」 「木曽川の一条の水が電気となり、浪速のまちを明々と照らす、まるで春のようだ」の意。

翌二四年には国内初の水力発電ダム「大井ダム」(恵那市・中津川市)を完成させた。

桃介は約十年間に七つの水力発電所を完成させ、このうち読書、大井は当時、国内最大出力を誇った。

木曽川は水力発電のルーツなのだ。

木曽川には発電用だけではなく、水道用のダムも並ぶ。

人間生活への貢献は大だが、河川開発には影もある。

中流域の愛知県犬山市辺りでは玉石(濃飛流紋岩)が激減した。

濃飛流紋岩は飛騨・木曽の両河川を流れ下って、中流域に豊かな河原をかたちづくっていたが、河原や砂浜は衰え、生き物が消えた。

「アユは石に付く。石がないもんでアユがおらん。 十五~二十年前から他の魚もどういうわけかいなくなった」。かつて友釣りで一日にアユ七十匹を釣った七十代の男性は深く嘆いた。

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