雄島(おしま)は、松島湾に浮かぶ霊場の島で、中世には「奥州の高野」と呼ばれた死者供養の地です。朱塗りの渡月橋を渡ると、かつて108あった岩窟の跡が点在し、仏像や五輪塔が安置されています。
見佛上人が12年間修行した「見佛堂跡」や、僧頼賢を讃える国重要文化財「頼賢の碑」が残り、松尾芭蕉や曾良の句碑も建てられています。
俗世との縁を断つ橋や静寂の景観が、今も幽玄な雰囲気を伝えています
雄島(御島)について
この島は諸国から松島に集まった僧侶、巡礼の人々が修業したところで、 その代表とも言える見佛上人(けんぶつしょうにん)が法華経6万部を読誦(どくじゅ)した 「見佛堂跡」があり、鳥羽天皇からその高徳を讃え、松の苗木本尊(なえぎほんぞん)を下賜(かし)されたので御島と呼ばれました。
島内に点在する岩窟(がんくつ)はその昔、 108箇所あったといわれており (現在は50あり) 岩窟の中には卒塔婆(そとば)、 仏像、 五輪塔、法名などが彫れたり安置されたりしており、全島が霊場だったと言うことが知られています。
島の南端に建つ奥州三古碑の一つ「頼賢の碑(らいけんのひ)」 (1307年建立・昭和30年 国指定重要文化財)はその様子を伝えています。
又、雄島 (御島) は古くから歌枕として和歌に詠まれました。 1689年、江戸時代の俳人、 松尾芭蕉も瑞巌寺に詣でた後、 この島を訪れており、弟子の曽良による『松島や鶴に身をかれほととぎす』 の句碑があります。
このように雄島 (御島)は古代から松島を代表する島なので『松島』 という地名 発祥の地 と伝えられ、島内から眺める五大堂(ごだいどう)、福浦島(ふくうらじま)、 双子島(ふたこじま)などはひとしお、風情があります。
雄島
雄島(御島)は、「立ち帰り またも来てみん 松島や 雄島のとまや 浪にあらすな」(藤原俊成 『新古今和歌集』)
「心ある 雄島のあまの 袂(たもと)かな 月やどれとは ぬれぬものから」
(後鳥羽院の官女源師光の女『前同』)と、歌枕として詠まれている。
元禄二年五月九日(一六八九、陽暦六月二十五日)、芭蕉は、塩釜から船で松島海岸に着き、瑞巌寺に詣でた後、雄島を訪れた。
芭蕉に同行した曽良の『旅日記』には、「御島、雲居ノ坐禅堂有。
ソノ南二寧一山ノ碑之文有。北二庵有。 道心者住ス」とある。
『おくのほそ道』には、雄島の印象を雄島が磯は地つづきて海に出たる嶋也。雲居禅師(うんこぜんし)の別室の跡、座禅石など有。
将(はた)、松の木陰に世をいとふ人も稀々(まれまれ)見え待りて、落穂、松笠など打けぶりたる草の庵閑に住なし、いかなる人とはしられずながら、先なつかしく立寄ほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。
としている。「地つづきて」は誤りであろう。
雄島は瑞巌寺とゆかりが深く、島内には岩窟が数多くあり、卒塔婆、仏像が安置され、昔より諸国から集まってきた僧侶や巡礼の人々が修行した場所で、全島が霊場といった雰囲気である。
島の南端に建長寺一山一寧(寧一山)の撰文による国指定重要文化財 『頼賢碑』(徳治二年、一三〇七)があり、島の歴史は碑文に詳しい。
すなわち、十二世紀のはじめ見仏上人が妙覚庵を建立し、十二年間法華経読誦に過ごし、十三世紀末には、頼賢がこれを嗣ぎ二十二年間島に籠り、見仏の再来と仰がれたことなどである。
「草の庵」は頼賢の妙覚庵址に万治二年(一六六〇)建立された「松吟庵」(大正十一年焼失、のち再建)である。
見仏の堂は島の北側にあったという。
雲居の坐禅堂である「把不住軒(はふじゅうけん)」は、島の中央に形だけが残っている。
松島町
松島観光協会
目次
1 雄島の入口
松島離宮の前の道を奥へ進むと雄島への入口があります。

島に渡る前にすでに岩を削った遺跡が何点もあります。







渡月橋を渡ると雄島です。
昔の人が考えた現世とあの世の境という事になるのでしょうか。

島の入口には「奥の細道」の碑。

2 頼賢碑
碑はこのお堂の中に保存されています。
雄島の妙覚庵の主であった頼賢の徳行を後世に伝えるため、頼賢の弟子たちが造立したものです。
瑞巌寺の博物館にはレプリカが展示されていました。
ブラタモリではこの辺りに昔 埋葬された人の骨がぽろっと落ちていたので、探してみましたがそれらしいものはありませんでした。


奥州御島賴賢碑 (重要文化財)
この石碑は、鎌倉時代末期にあたる徳治2年(1307)、 松島・ 雄島の妙覚庵の主であった頼賢の徳行を後世に伝えるため、頼賢の弟子たちが雄島の南端に造立したものです。
頼賢は22年間島で修行を続けたことから、同じくこの地で長きにわたって修行を積んだ平安時代の高僧・見仏の再来と讃えられました。
高さ3メートル以上ある板状の粘板岩で、碑の周囲には雷文・唐草文が配され、上下の区画の間に陽刻された双龍を確認することができます。
石碑の上欄中央には胎蔵界大日如来種子 (阿) が刻まれ、 その右側に「奥州御島」、左側に「頼賢」の文字を見つけることができます。
下欄には、中国元朝の渡来僧・一山一寧(1247~1317)による撰と書が草書体で刻まれています。
また石碑を保護する鞘堂は、明治44年(1911) から大正4年(1915)にかけて実施された松島公園整備事業において、宮城県が建てたものです。



3 座禅堂


4 芭蕉の碑・曽良の碑
5 松吟庵跡


6 雄島最古の板碑

7 薬師堂跡

8 妙覚庵跡
十二世紀のはじめ見仏上人が建立した妙覚庵の跡地です。



9 見仏堂跡





雄島
「みせばやな 雄島のあまの袖だにも濡れにぞぬれし 色はかはらず」など多くの歌に詠まれた歌枕の地です。
伝説的な修行者の見仏上人を慕った西行法師が訪れ、 北条政子が松を千本送ったとも伝わります。
鎌倉時代には、頼賢碑や供養塔(板碑) が林立する景観が作られました。
多島海から登る朝日に、 浄土を連想し、霊場として神聖視されていたと言われています。
松尾芭蕉が訪れたことで、俳人達が多く訪れるようになりました。
松島では、まず初めに五大堂に行くのが定番ですが、実はこの雄島が、精神的に松島の原型を成す島なのです。
少し足を延ばしてここに立つと、昔の人たちが極楽浄土を求めて参拝した気分を味わえると思います。




