史跡

地下から出てきた秀吉の大阪城の遺構「豊臣石垣館」

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豊臣秀吉が築いた大坂城(初代)は、織田信長と争った石山本願寺の跡地に、天下統一の拠点として1583年から15年かけて築かれ、「三国無双」「日本一堅固」と称されるほど壮麗で広大でしたが、大坂夏の陣で焼失後、徳川幕府が豊臣の権威を消すために、その上に巨大な盛り土と石垣を築いて再建したため、現在の大阪城は徳川時代に再建されたものであり、秀吉時代の遺構は地下に埋まっているのが現状です。

現在秀吉の城は発掘調査を経て2025年4月1日「大阪城 豊臣石垣館」がオープンしました。

1       大阪城 豊臣石垣館

現在、地上で目にする大阪城の石垣や堀は、長らく豊臣秀吉が築いたものと信じられてきた。

ところが昭和34年(1959)に実施された「大坂城総合学術調査」をきっかけとして、豊臣期の石垣は地下に眠っていることが明らかになった。

天下統一の拠点として秀吉が築いた大坂城は、当時、織田信長の安土城を圧倒する壮麗な城と評判をとり、「日本一堅固」とも評価された。

しかし、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で落城。

その後、徳川幕府は豊臣期の石垣を大量の盛り土でおおい隠すように埋めて、大坂城を再築したのだ。

昭和30年代の初頭、西外堀や南外堀の水がほとんど干上がってしまった。

これを機として、歴史学や考古学、地質学、建築工学など、さまざまな面から大阪城の謎を解明するため、昭和34年(1959)に「大坂城総合学術調査」が実施されることとなった。

そのなかで5月、本丸の地質をさぐるため、天守台石垣から南へ4mの地点でボーリング調査をおこなったところ、まったく思いがけず、地下10m前後の深さに石垣らしきものが埋まっていることが明らかになった。

ボーリング調査の成果をうけて、昭和34年(1959)2月に同地点で発掘調査がおこなわれた。

その結果、地下1mから下方へ2m以上続く石垣が発見された。

石垣の上部は焼土層におおわれ、石垣の表面にも火災の痕跡が残っていた。

当時この石垣は豊臣期の大坂城、あるいはその前の時代の大坂(石山本願寺のものである可能性が指摘され、「ナゾの石垣」と呼ばれた。

この大発見をきっかけとして、本丸地下の石垣を確認するためのボーリング調査が次々と実施されていくことになる。

「ナゾの石垣」発掘の翌昭和35年(1960)、徳川幕府の京都大工頭をつとめていた家で、豊臣期の大坂城本丸のものとみられる平面図が発見された。

現在の本丸の石垣が堀底の根石から天端まで一気に積み上げられているのに対して、平面図ではひな壇状に2段の平面をはさんで最上段までのぼっていく。

また平面図では西側の水堀が内側に深く食い込んでいる点も、現在の本丸との大きな相違点だった。

ボーリング調査の成果とあわせ検討した結果、この平面図がたしかに豊臣大坂城の本丸図であること、また「ナゾの石垣」も豊臣大坂城のものであることが明らかになっていった。

昭和59年(1984)10月18日、天守閣東にある配水池の配水管入れ替えにともなう事前調査によって、地下約1mの深さで東西に整然とならんだ石列が見つかった。

調査担当者は、直感的に豊臣期の石垣だと確信したと調査日誌に書いている。

調査の結果、石列は予想どおり豊臣期のもので、詰ノ丸南東の隅櫓をささえる石垣の一部だった。石垣の高さは6mにおよんだ。

それがこの公開施設の石垣だ。

|豊臣期|

豊臣期の本丸は、北部の山里丸を除き、中央部は3段に築かれていた。

最下段の区画を下ノ段、2段目を中ノ段、最上段を詰ノ丸と呼ぶ。

下ノ段は堀に沿ってめぐる細長い帯曲輪だった。

|徳川期|

徳川期の本丸では、天守や本丸御殿の建つ中央部が広い平坦面となっている。

豊臣期の詰ノ丸の高さに合わせて、中ノ段と下段、さらには 本丸の内側深くに食い込んでいた西側の堀を埋めたものだ。中ノ段では約6m、下ノ段では10m以上におよぶ盛り土だった。

詰ノ丸南東の隅櫓(すみやぐら)をささえる石垣の一部

詰ノ丸は秀吉・おね夫妻や淀殿・秀頼母子が生活した プライベート空間で、本丸のなかでも最重要の中心部でした。

石垣のピンクっぽいところは、火災の跡とのことです。

このような昔の大阪城の石垣が現在の大阪城公園の下にすっぽり埋まっているようです。

2       金蔵を囲む塀(石列)と石組溝

秀吉の大阪城の発掘時に出土したと思われる江戸時代の遺構です。

 

 

 

 

 

 

 

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