史跡

三内丸山遺跡2 いよいよ本物の遺跡へ

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三内丸山遺跡1では、室内にある縄文時遊館の展示室のレポートをしましたが、いよいよ外にある遺跡へ出ます。

2        三内丸山遺跡

いよいよ縄文時遊館から時遊トンネルを通って遺跡に向かいます。

遺跡側からトンネルの出口を見るとこんな感じ。

広々とした遺跡に出ました。

向こうに見える建造物群が遺跡の上に建てた復元物です。

三内丸山遺跡へようこそ

特別史跡三内丸山遺跡は縄文時代前期中頃から中期にかけて (紀元前約 3,900 ~ 2,200年)、 長期間継続した大規模な集落跡です。 1992年から大規模な発掘調査が行われ、 竪穴建物跡、 大型竪穴建物跡、 大人と子供の墓、盛土、 大型掘立柱建物跡、 掘立柱建物跡、 貯蔵穴、 粘土採掘穴、道路跡などが見つかり、集落の様子と当時の環境が明らかになりました。

また、 膨大な量の土器、石器、 土偶、 土製品、 石製品、 掘り棒などの木製品、漆器、 縄文ポシェットと編布、 骨角器などが出土し、 他地域から持ち込まれたヒスイや黒曜石なども見つかっています。

2000年11月に国の特別史跡に指定されました。

 

村の航空写真は下記です。

以下地図の番号順に写真と説明をしています。

2.1         環状配石墓と道路跡

集落の東側へ約420mと南側へ約370mと、大規模なお墓です。

なんせ1500年も続いた集落ですから、亡くなった方の数も累計するとかなりの数になるでしょう。

環状配石墓と道路跡

環状配石墓は大人の墓のまわりを石で囲んだもので、大きさは直径約4mです。

南側に延びる道路跡に沿った斜面に並列に作られています。

道路跡は地面を削って作られていて、 幅約7~12mあり、集落の東側へ約420mと南側へ約370m延びています。

現在の園路は道路跡の上に設定されています。

 

2.2         南盛土

簡単に言うと縄文人のゴミ捨て場です。

長年に渡って捨てられたゴミの山が、縄文人の生活様式を知る上で貴重な資料となりました。

掘りの断面が、暦年に渡って堆積された残物の様子を伝えています。

 

盛土は竪穴建物や穴などを掘ったときの土やゴミ、焼けた土や炭、石器や壊れた土器などが同じ場所に長期間継続して棄てられ、小山のように盛り上がつており、 現在、北盛土・南盛土・西盛土の3カ所が確認されています。

北盛土や南盛土では土偶が特に多く見つかっています。

 

2.3         竪穴建物の復元

茅葺き、樹皮葺き、土葺きの3種類で復元されています。

2.3.1    土葺き

2.3.2    茅葺き

 

2.3.3    樹皮葺き

竪穴建物の復元

竪穴建物は地面を掘って床を作り、 柱を立て、 屋根をかけています。

縄文時代中期 (紀元前約3,000年)の竪穴建物を復元しており、屋根は発掘調査の結果や民族例を参考に、茅葺き、樹皮葺き、土葺きの3種類で復元しています。

時代によって、平面形、 柱の配置、炉の位置や構造に違いが見られます。

 

2.4         大型竪穴建物跡

大型竪穴建物跡

長さ10m以上の竪穴建物は大型竪穴建物と呼ばれ、 集落の中央付近から多く見つかっています。

ここは縄文時代前期 (紀元前約 3,500 年)の大型竪穴建物跡が発掘調査で見つかった様子を展示しています。

長さ約15m で、柱の位置が外側へ移動していることから建て替えされた可能性があります。

 

2.5         大人の墓 (土坑墓 )

覗き蓋のビニールには水が半分くらい溜まっていて見にくいです。

大人の墓 (土坑墓 )

大人は、地面に掘られた穴 (土坑墓)に埋葬されました。

土坑墓は道路の両脇に向かい合うように列状に並んでいます。

墓の中からは、 副葬品として石器やヒスイ製のペンダントが出土した例もあります。

 

2.6         掘立柱建物

掘立柱建物

掘立柱建物は地面に柱穴を掘り、 柱を立てたもので、地面に炉や床などの跡が見つからないことから、 高床建物であったと考えられています。

柱は約35cmの倍数で配置されています。

 

掘立柱建物

掘立柱建物は地面に柱穴を掘り、 柱を立てたもので、地面に炉や床などの跡が見つからないことから、 高床建物であったと考えられています。

柱は約35cmの倍数で配置されています。

 

2.7         北の谷(低湿地)

北の谷(低湿地)

北の谷は、縄文時代前期 (紀元前約 3,900 ~ 3,300年)にはおもにゴミ捨て場として利用されていました。

水分が豊富なため、 通常残らない動物や魚の骨、種子、漆器や木製品、 編み物、 寄生虫の卵などの有機質の遺物が良好な状態で出土しており、 当時の環境や食生活などがわかりました。
また、 土留め用の杭列が見つかっています。

 

2.8         北盛土

 

北盛土

盛土は竪穴建物や穴などを掘ったときの土やゴミ、 焼けた土や炭、石器や壊れた土器などが同じ場所に長期間継続して棄てられており、 小山のように盛り上がっています。

ここでは発掘調査された当時のまま展示しています。

一面に敷き詰められたような土器は縄文時代中期 (紀元前約 3,000年)のものです。

展示している部分はほんの一部ですが、盛土ではこのような状態で何層にも重なって広がっています。

 

2.9         子どもの墓

 

子どもの墓

子どもの遺体は、土器に入れて埋葬しました。 棺に使われた土器は、丸い穴があけられたり、口や底が壊されており、煮炊きに使用する土器とは区別されていました。

中からはこぶし大の丸い石が出土した例もあります。

山梨県考古博物館でも亀に入れて埋葬されたとおもわれる子供の墓を見ました。

2.10      大型掘立柱建物

大型掘立柱建物

この復元した大型掘立柱建物は、 発掘調査の成果や柱穴の底の部分にかかっていた土圧の分析結果などから全体の大きさを推定したもので、 柱間と同じ4.2m間隔で床を作り、3層の建物としています。

屋根についてはさまざまな説があることから現在のところ復元していません。

大型掘立柱建物跡

掘立柱建物は柱穴を掘り、 柱を立て、 床や屋根を支えています。 ここからは直径約2m、 深さ約2mの柱穴が3個ずつ2列並んで見つかりました。

これらの間隔はすべて約4.2m で、 規則正しく配置されていました。

柱穴の中からは直径約1m のクリの木柱が見つかりました。

縄文時代中期後半 (紀元前約2,600年) のものと考えられています。

 

大型掘立柱建物跡

掘立柱建物は柱穴を掘り、 柱を立て、 床や屋根を支えています。

ここからは直径約2m、 深さ約2mの柱穴が3個ずつ2列並んで見つかりました。 これらの間隔はすべて約4.2m で、 規則正しく配置されていました。

柱穴の中からは直径約1m のクリの木柱が見つかりました。

縄文時代中期後半 ( 紀元前約2,600年) のものと考えられています。

 

2.11      大型竪穴建物

大型竪穴建物

長さが10m以上の竪穴建物は大型竪穴建物と呼ばれています。

この復元大型竪穴建物は長さ約32m、 幅約9.8m、床面積約250㎡であり、 日本最大のものです。

縄文時代中期後半 (紀元前約 2,800年) のものを復元しました。

住居の他に、集会場や共同作業場などの説があります。

最後の建物は圧巻でした。

当時としては滅茶苦茶大きな建物だったのだろうと思います。

集落の人口もそれなりにあったのでしょう。

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