史跡

成田山新勝寺で初詣

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成田山新勝寺(成田不動)は、千葉県成田市に位置する真言宗智山派の大本山で、940年に寛朝僧正によって開山されたと伝わる古刹です。

初詣の参拝者数は約305万人にのぼり、寺院としては全国1位の賑わいを誇ります。

(全体では明治神宮が全国1位です。)

1       京成成田駅

成田山には京成線で向かいました。

成田駅の様子は以下の写真です。

1/10に行きましたが、まだまだ人が一杯いました。

向かいにはJR東日本の駅があり、両駅が参詣客の輸送を競っています。

これから表参道に沿って成田山新勝寺まで進みます。

事前に駅から寺までは徒歩20分と聞いていますので、参道の店を覗きながらゆっくりと進みたいと思います。

 

2       参道前半

駅前の参道の碑です。

外観を見ると昔からありそうなお店も一杯ありました。

「なごみの米屋」はお土産物屋でした。

房の駅は千葉県に多数の店舗をもつお店です。

 

3       薬師堂

成田山薬師寺は、成田山新勝寺の前の前の前の本堂です。

成田山始まりのお堂で、ここから始まって現在の規模に巨大化して行きました。

現在の本堂の場所にあったものをここに移築したとのことです。

成田山旧本堂

薬師堂

成田市指定有形文化財

昭和四十四年十一月三日指定

御本尊 藥師如来 脇待 日光菩薩 月光菩薩

御祈願 健康長寿 病気平愈

薬師堂は明暦元年(一六五五)に建立された旧本堂で徳川光圀公や初代市川團十郎が参詣した成田山現存最古の御堂です。

元禄十四年(一七〇一)の本堂 「現光明堂」再建の折、この御堂は新本堂の後方に移築され、約一五〇年にわたり伽藍の一端を担いました。

安政二年(一八五五)の本堂「現釈迦堂」建立を機に明暦の旧本堂を薬師堂と改称、この地に移築し現在に至ります。

 

4       三橋鷹女(みつはしたかじょ)の像

三橋鷹女(みつはしたかじょ)の像

一九九八年十二月十九日 建立

制作 丸山智巳

女流俳人鷹女は、明治三十二年(一八九九)に成田町成田(現在の成田市田町)で、父三橋重郎兵衛 母みつの三女として生まれました。

本名はたかです。

成田幼稚園、成田小学校をへて、成田高等女学校(現在の成田高等学校)を卒業しました。

大正五年(一九一六)に上京、同十一年(一九二二)に歯科医師の東謙三(号剣三)と婚姻し、夫と共に俳句にいそしみました。

初めは「鹿火屋(かびや)」、次に「鶏頭陣(けいとうじん)」などに属しましたが、のちには永く結社に拠らず、独自の句境を築きました。

夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり

白露や死んでゆく日も帯締めて

口中一口中一顆(いっか)の雹(ひょう)を啄み火の鳥や

などの句はよく知られています。

昭和四十七年(一九七二)、七十三歳で永眠しましたが、生家に近い田町の、通称白髪毛にある三橋家墓所に葬られました。

千の虫鳴く一匹の狂ひ鳴き(遺作)

このブロンズ像は鷹女の生誕百年を迎えるに際し、市民ならびに多くの賛助者の協力によって、彼女の姿をふるさとの地成田によみがえらせたものです。

鷹女の像をつくる会

門前町「成田」

成田は、江戸庶民からの篤い信仰を受けた成田山新勝寺や宗吾霊堂の門前町として発展しました。 その背景には、 成田山新勝寺による江戸での秘仏公開の出開帳 (布教活動)をはじめ、 初代市川團十郎 (屋号: 成田屋) の深い帰依成田不動尊 (成田山新勝寺)や義民 佐倉惣五郎 (宗吾霊堂) にまつわる歌舞伎の大ヒットがあり、江戸での旅行ブームも相まって、多くの参詣客をもてなす門前町として栄えました。

また、成田の夏の風物詩として300年以上の歴史を誇る伝統行事 「成田祇園祭」(7月上旬の金・土・日)をはじめ、千葉県無形民俗文化財の「おどり花見」 (4月3日) や義民佐倉惣五郎の祭礼「御待夜祭」 などの成田の伝統文化祭礼文化は脈々と受け継がれています。

 

5       うな重の成毛屋

お昼は、ここ。参道から少し外れているので、少し空いています。

「あいのせうな重」は、 4300円

6       参道後半

参道に戻り新勝寺を目指します。

 

7       成田観光館

参道の途中にあった観光館に立ち寄りました。博物館併設です。

成田への乗り物あれこれ

あるく江戸時代の成田詣では、 美しい成田街道を遊山道中しながらの旅です。 街道は楽しみの双六道中です。

船で一利根川などを利用した水運交通も人気がありました。

貸切の屋形船で飲んだり食べたりしての旅は、 現代のサロンカーです。

食堂車で一明治中期を過ぎた頃からは鉄道が出現し、 大正期に入り鉄道網が整備されてきました。 関東で一番早く 「食堂車」 が走ったのは成田への旅だったそうです。 観光鉄道ともいうべき成宗電鉄もできました。

バスで一昭和に入ると、 バス路線も開通し、 いよいよ成田への交通は充実してきました。 同時に新勝寺参詣客もその数を増してきました。

空から昭和53年5月の成田空港開港が、 また一つ新しい空からの交通機関として加わりました。

成田は観光交通博物誌 このように成田の交通機関の歴史はまさに観光交通博物誌ともいうべきものです。

これからどのような交通機関が成田と結ばれるかが楽しみです。

江戸時代は足と船

  • あるくしかなかったときでも成田山には20万人の参詣客がありま

した。 道すがら同行の人と話をしたり、 道筋の茶屋に寄ったり楽

しんで参詣したようです。

  • 舟は一層楽しいものでした。 深川から行徳までは船、 あとは歩く

というのが一般的でしたが、 女性連れで屋形船仕立てでの絵馬奉

納は、現代のサロンカーの雰囲気だったでしょう。

明治は車時代の夜明け

  • 明治16年頃、 成田詣での馬車便ができました。 8時間かかったそうですが、歩くより大いに楽だったことでしょう。
  • 明治30年我孫子経由で成田-東京は鉄道で結ばれました。 このとき関東では初めて 「食堂車」 が連結したそうですから当時としてはハイカラなものだったでしょう。
  • 成田と宗吾霊堂を結んだ成宗電車は観光鉄道のハシリです。
  • 大正15年京成電車が押上と成田を結び 「成田の鉄道網」はほぼ骨格が出来ました。

昭和はバスから空へ

    • 道路の整備が進みバスがもてはやされだしたのは昭和に入ってからです。
    • 成田山境内では大都市なみに客を待つタクシーが見られました。
    • 昭和53年には成田空港開設。 「空からの成田詣で」もはじまりました。

成田への道 今、昔

江戸時代、 神社・仏閣めぐりは町人の楽しみの1つでありました。

その中でも江戸からわずか16里と近く、 しかも平坦で危険も少ない遊山道中ということから、 成田詣では人気がありました。

当時、 成田への交通は徒歩が多く、次が駕籠・馬といった程度で、街道は成田詣でをする人々で賑わいました。

また、 深川から行徳、 江戸川を遡行して関宿から安食へと船を利用したりしました。

この上もなく楽しい遊山道中であった当時の風景と、 現代の同じルートの風景を見比べてみて下さい。

道中姿さまざま

江戸時代の成田詣は、いろいろな方法がありました。

成田街道を歩く、 駕や馬に乗る、 船で行く。

いまは飛行機もあります。

ここでは、そんな成田詣道中のさまざまな姿を再現してみました。

人形の様子から、 その雰囲気を想像してみてください。

山車・だし (成田山交道会所有)

大正4年に製作されたこの山車は、江戸山車の系統を引くものです。

正面の囃子台上部には、 金箔の鶴が彫られ、 上中高欄には、竜、下高欄には唐獅子がくっきりと表わされています。

捲上軸車付、小田原巻といわれる上げ下げをする装置がつけられています。

一段の戸帳の前面には日輪と三本足の八咫烏(やたがらす)が織りこまれています。

 

形は 「日本武尊(やまとたけるのみこと)」で、作者は浅草の造花師花枡(はなます)の傑作です。

本地垂跡説(ほんちすいじゃくせつ)によると、 日本武尊は不動明王の化身といわれており、成田山のご本尊が不動明王であることからこの人形を飾ったものと思われます。

また前面に掲げられた額の 「剛毅」 の文字は、 成田山中興第十五世石川照勤大僧正の筆によるものです。 なお山車にのる囃子方は、都築連中の皆様方です。

 

この人形は成田山新勝寺とゆかりの深い朱雀天皇(第61代)のお姿です。

平安時代の天慶2年(939年) 平将が関東の地で乱を起しました。

これを天慶(てんぎょう)の乱と云います。

その時 朱雀天皇は従兄にあたる京都広沢遍照寺の寛朝大僧正(成田山の開祖)に天皇がつねおそばに置かれた「天国の宝剣」を授けられ 朝敵降伏の護摩の修法をお命じになりました。

寛朝大僧正、直ちに京都高雄山神護寺の護摩堂に安置されていた弘法大師謹刻による不動明王の尊像と恩賜の宝剣を宝持して戦乱の下総に下られました。

そして現在の成田市成木新田に当る「公津ヶ原」において勅命による秘法を修行されました。

この霊験はたちまち現われ、護摩の満願の日、天慶3年2月14日将門は軍門に降り、関東は再び平穏になりました。

天皇も大変お喜びになられ不動明尊像のご尊像を永くこの地にとどめ東国の守護神として安置するため堂宇を建立、成田山明王院神護新勝寺の寺号を賜りました。

この山車人形は毎年7月7日より3日間、成田山祇園会に町内の引廻しが行われます。

このときは全町内より10台の山車と御輿の渡御(とぎょ)、稚児行列等があって関東における祭のなかでもその豪華絢爛さは有名であります。

 

さて、参道の散歩を楽しんだところで、いよいよ新勝寺に向かいます。

 

8       おまけ、電車道

京成成田駅から新勝寺に向かう近道に電車道があります。

この道は盛り土をした上にかつて走っていた路面電車、成宗電気軌道(せいそうでんききどう)の名残です。

この電車は1910年に開業します。

一方、1925年に京成電鉄が現在の成田駅の西400mに、成田花咲町駅(仮設駅)を開業します。

京成は、成宗電気軌道の軌道を使い、一気に新勝寺まで、路線を伸ばそうと画策しますが、表参道商店街や新勝寺の反対にあい断念。

結局今の京成成田駅の場所に落ち着きました。

その後、戦争の激化で遊覧的要素が強いことを理由に1944年(昭和19年)に廃止されます。

 

 

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