史跡

修善寺の旅② 伊豆修善寺に幽閉された源頼家にまつわる痕跡探訪

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源頼家は父・頼朝の死により18歳で家督を相続し鎌倉幕府の第2代将軍となります。

しかしながら比企氏と、北条氏との対立の中で将軍職を剥奪され、伊豆国修禅寺に幽閉された後、暗殺されました。

大河「鎌倉殿の13人」では、重い病気で寝込んでいるうちに、近しい親族の比企が北条に滅ぼされてしまい、怒った頼家が打倒北条を叫びますが、呼応する御家人が無く幽閉されることになります。

そんな訳で、修善寺には頼家にまつわる痕跡が数多くあります。

地図はこちらを参考ください。

1        源頼家の墓

まずは、不幸にして暗殺された頼家のお墓をお参りします。

 源頼家の墓

正治元年(1199年)に父頼朝の後を継いで18歳で鎌倉幕府の二代将軍となった頼家は、父の没後に専横になった北条氏を押さえて幕府の基礎作りに懸命であったが、大きく揺れ動く時流と、醜い駆け引きに終始する政争に破れ、 在位わずか6年でこの修善寺に流され、 元久元年(1204年)祖父北条時政の手で入浴中に暗殺された(享年23歳)。

「修禅寺物語」はこうした政治的背景の上に配所の若き将軍頼家と、面作り師夜叉王(やしゃおう)を中心に、それにまつわるロマンスを綴ったものである。

この碑は、元禄16年 (1704年) 頼家の500周忌にあたって、 時の修禅寺住職筏山智船(はっさんちえん)和尚が建てた供養塔であり、墓はその裏側にある2基の小さな五輪石塔である。

 

2        源頼家 家臣 十三士の墓

源頼家殺害後に幕府に反旗を翻そうとした頼家の家臣のお墓です。

残念ながら、行動を起こす前に発覚し殺されました。

十三士は具体的な名前が分かってないようです。

源頼家 家臣 十三士の墓

北条氏との確執で、病気を理由に修善寺に配流された頼家は、元久元年(1204年) 7月18日、入浴中に暗殺された。

吾妻鏡 (鎌倉時代史書) によると、この6日後、頼家の家臣らは謀反を企てたが、挙兵以前に発覚して、相州金窪太郎行親(そうしゅうかなくぼたろうゆきちか)らに殺されたことが記されている。

この墓はその頼家の家臣13名の墓と伝えられている。

頼家と運命を共にしたこれら家臣の名前は判っていないが、全国的にある十三塚の一例との説もある。

この墓は元々ここより東200m程の麓にあったが、 台風被害により平成17年(2005年)7月17日にこの地に移築された。

 

3        指月殿(しげつでん)

北条政子が息子の頼家の弔いのために建てた寺院です。

 

指月殿(しげつでん)

この地で非業の死を遂げた鎌倉幕府二代将軍頼家の冥福を祈り、母北条政子が建立したもので、伊豆最古の木造建築といわれている。

指月とは経典を意味し、禅家が愛用している不立文字を解く言葉である。建立の際、政子が寄進した宋版大蔵経は、大半が散失し僅か8巻しか残っていない。そのうち「放光般若波羅蜜多経」の第23巻が静岡県指定文化財となっている。

本尊の釈迦如来坐像は、寄木造りで高さは203センチ、持ち物のないはずの釈迦像が右手に蓮の花を持っているのが特徴である。「指月殿」の扁額の実物は、宋の名僧一寧一山の書といわれ、修善寺本堂に安置されている。

 

4        瑞宝蔵の面

修禅寺境内に修禅寺の宝物を保管している瑞宝蔵があります。

せっかく、修禅寺を訪れたのであれば、是非この面を見てから帰りましょう。

https://shuzenji-temple.com/jihou20.html

上の写真の古面は、真偽の程は明らかではありませんが、2代将軍・源頼家の仮面と言われています。

建仁3(1203)年、頼家は、祖父の北条時政によって鎌倉を追放され、修善寺に軟禁状態となります。

元久元(1204)年北条氏の刺客によって、殺害されますが、暗殺される前にも、漆がたっぷり入った湯舟に入れられて、全身が腫れ上がってしまう暗殺未遂に遭っていました。

その時に、腫れ上がった顔を掘らせた面が展示されたものと言われています。

岡本綺堂が新歌舞伎の傑作「修禅寺物語」を書くきっかけとなった面です。

 

5        筥湯(はこゆ)

源頼家が、北条時政により入浴中に襲われて亡くなったと言われている温泉がここであったと伝えられています。

桂川を挟んで修禅寺のお寺の向かい側にあります。

高さ12mの仰空楼(望楼)を併設する外湯です。

そんな訳で、筥湯の入口には心情的にどうよ、と思いますが刺客の北条時政のパネルが設置されています。

筥湯の由来

伊豆最古の温泉場として栄えてきた修善寺には、かつて川原沿いに九つの外湯がありそれぞれ浴客で賑わっておりました。

しかし昭和二十年代には「獨鈷の湯」だけが残って往時を偲ばせるのみとなってしまい、再び外湯巡りを楽しんでいただくため、平成十二年二月に再建したのが筥湯です。

鎌倉幕府の公的な史書である「吾妻鏡」などによりますと、元久元年七月十八日のこと、修禅寺へ幽閉中の源氏二代将軍頼家は北条氏の刺客に襲われますが、記述内容から入浴中であったとの定説になっておりますかつてこの付近にあった旧「筥湯」跡を旅館新築の基礎工事のため掘ったところ、古い湯殿跡が発見され頼家入浴の温泉ではないかといわれております。

筥湯の語源はわかっておりませんが、筥とは竹などで編んだ丸い米盛り器のことで「箱湯」との記載例もあります。

また修禅寺宝物館所蔵の江戸時代の古絵図によりますと、虎渓橋のたもとに「中の湯」があり「此處頼家公御入浴之地也」と書かれてあるところから、筥湯の旧名であり先に発掘された湯殿である可能性もあります。

筥湯

かつて修善寺川沿いにあった七つの外湯のひとつで、元久元年(1204年)7月18日に当地に幽閉されていた鎌倉幕府二代将軍源頼家が、入浴中に北条氏の刺客に襲撃された温泉であったと伝えられている。

昭和初期まで続いていた外湯巡りを復活させるため、平成12年2月12日にこの地に再建された。

併設する高さ12メートルの「仰空楼」は、かつて修善寺を愛した文豪「夏目漱石」の漢詩にちなんで名付けられた。

 

若くして亡くなった頼家の生涯を、史跡を訪ねて追ってゆくと、鎌倉の御家人の争いに翻弄された不幸な一生が見えてきます。

頼朝の子供として生まれ、若くして世継ぎとして将来を嘱望されたのでしょうが、頼朝の死があまりにも早く、不安定な政権のかじ取りができずに失脚してしまいました。

初代がどれだけ地盤固めをするかが、その後の永続する政権の鍵を握ることになりますね。

その点、北条はうまくやったと思います。

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