松平定信の「海荘(はまやしき)」は、江戸時代後期の老中・松平定信(楽翁)が、隠居後の文政期に築いた下屋敷(別邸)です。
現在の江東区東陽1・2丁目付近、かつての深川洲崎の海岸沿いに位置していました。
「海荘」という名の通り、当時は邸内から品川沖までを一望できる絶景のオーシャンビューを誇っていました。
定信はここで海を眺め、詩歌を詠むなど風流な生活を送ったと伝えられています。
また、近くに「波除碑(なみよけのひ)」がありますが、水害対策で家を建てることが禁じられた「空き地(明地)」の隣接地にこの屋敷があったため、定信は自ら命じた防災政策の成果を日々眺めていたことになります。
「波除碑(なみよけのひ)」については
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現在は住宅街となり、当時の面影を残す遺構はほとんどありませんが、歴史の面影を伝える重要な場所です。

松平定信 海荘跡(はまやしきあと)
牡丹三、古石場二・三付近
松平定信は、陸奥白河(現福島県)藩主で、天明七年(一七八七)に老中となり寛政の改革を実行したことで知られ います
海荘は、隠居後の文化十三年(一八一六)に入手した抱屋敷(かかえやしき)で「深川海荘」とも呼ばれました。
定信は政治家・学者としての側面のほか造園家としても著名で、築地の浴恩園(よくおんえん)、大塚の六園(りくえん)、領地白河の三郭四園(さんかくしえん)、南湖公園(なんここうえん)といった庭を造りました。海荘には、これら四園の趣向を取り入れた庭園を築きました。
園内には東西に二つの池があり、池を掘るときに出た土で二箇所の築山を築き、 それぞれに「松月斎」「青圭閣」と名づけた休息所を建てました。定信は花木を好み、梨園や芍薬(しゃくやく)の花畑を作ったほか、桜や躑躅、松、楓などさまざまな草木を植えました。なかでも普賢象(ふげんぞう)という遲咲きの桜をとくに愛し、桜の季節には浴恩園や六園で花見を楽しみ、
最後に世間の桜が散るころに花盛りを迎える海荘の普賢象を鑑賞したといいます。
この園内の様子は、国立国会図書館に所蔵されている「深川入船町御師松月斎真写之図」に詳しく描かれています。
平成二十年三月
江東区教育委員会



海荘跡は東富橋の南にあります。
大正関東地震(1923年9月1日に発生したマグニチュード7.9の巨大地震)時には木の橋でしたが、鉄製に架け替えられました。
