博覧強記

大地震発生時、東京湾に津波の可能性--木場の「津波警告の碑」で歴史検証

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東京湾は地震が発生した時に、「津波は大丈夫なのだろうか」、というのが長年の疑問でした。

もし、過去の地震で被害を被った所があれば、何等かの痕跡が残っているはずです。

しかし、関東では過去に何回も大地震に見舞われているにもかかわらず、津波の被害は報告されていません。

東京湾は外洋からの入り口が狭く、中で広がっている形状であることから、外からの津波が湾内に進むにつれて増幅するような現象は起こりにくいと言われているようです。

また、東京湾及び河川流域において、高潮対策として防潮堤や水門、陸こうなどが整備されていることから、大きな津波が押し寄せて来る可能性は極めて低いと考えられています。

(江東区HP 防災情報を元に記載)

 しかし、色々探した結果、江東区木場の洲崎神社(江東区木場6-13-13)に津波警告の碑を見つけました。

どういう災害の碑なのでしょうか。現地に行って確認してきました。 

1        洲崎神社

江戸時代後期の古地図を見ると、この神社は海岸線に建っています。

今は、海岸線は随分南に移動しています。

州崎神社神社由緒

当州崎神社神社は元弁天社と称し厳島神社の御分霊を祭神市杵島比売命を斎祀しております。創立は徳川五大将軍綱吉公の生母桂昌院の守り神として崇敬するところとなり、元禄13年、江戸城中紅葉山より此の地に遷して宮居を建立してより代々徳川家の守護神となっていた。当時は海岸にして絶景、珠に弥生の潮時には城下の貴賎袖を連ねて真砂の蛤を捜り楼船を浮べて妓婦の絃歌に興を催すとあり、文人墨客杖を引くという絶佳な所であったという。浮弁天の名の如く海中の島に祀られてありました。

明治5年御由緒により村社に列せられ世間より崇敬厚かった。大正の震災、昭和の戦災に社殿は焼失されたが弘法大師作の御神体は幸にして難を免れ、当時は仮社殿に奉斎して居りましたが昭和43年現在の社殿を造営し斎祀して現在に至っております。

(境内掲示より)

 

歌川広重「東都名所洲崎弁財天境内全図 同海浜汐干之図」(国立国会図書館蔵)では、洲崎弁財天社のそばには長い堤防があるのが分かります。

2        津波警告の碑

さて、本題の「津波警告の碑」は、洲崎神社内にあります。

波除碑

寛政3年(1791)9月、深川洲崎一帯に襲来した高潮により、付近の家屋がことごとく流されて多数の死者、行方不明者が出た。

幕府はこの災害を重視して洲崎弁天社から西方一帯を買い上げて空地とした。

その広さは東西285間余、南北30余間、総坪数5467坪余(約1万8千平方メートル)に及んだ。

そして空地の両端の北側地点に、波除碑を2基建立した。

建設は寛政6年頃で、当時の碑は地上6尺、角1尺であったという。

現在は2基ともかなり破損しており、特に特に平久橋碑は上部約3分の2を失っている。

碑文は屋代弘賢と言われているが、2基ともほとんど判読不能である。

「東京市史稿」によれば、「葛飾郡永代浦築地 此所寛政3年波あれの時家流れ人死するもの少からす此後高なみの変はかりかたく流死の難なしといふへからす是によりて西は入船町を限り 東ハ吉祥寺前にいたるまて 凡長二百八十五間余の所 家屋とり払ひあき地になしをかるヽもの也 寛政申寅十二月日」と記されていたという。

材質は砂岩で、総高は平久橋碑が130.8cm、洲崎神社碑が160.1cm。

現在の位置は、旧地点を若干移動しているものと思われる。

江戸時代の人々と災害の関係を考える上で重要な資料である。

平成23年3月建設  東京都教育委員会

掲示板をよく読むと高潮によって被害が発生したと書いてあります。

海面すれすれの場所でしたので、それは予想がつきます。

ここから読み取れることは、「東京湾では地震の津波は過去起こってない」ということです。

下が神社内に建っている当時からの碑文で、掲示板に書かれているように殆ど判読不能です。

広重の浮世絵に描かれている波除碑部分を見ると、当時の碑は、周囲の人物と比べると、かなりの大きさです。

掲示板には160.1cmと書かれていましたので、上部は無くなってしまったようです。

3        名人竿忠之碑

竿師・初代竿忠(1864年 - 1930年)の碑です。徳富蘇峰の書。

4        玉の輿たまちゃん

五代表軍・徳川綱吉公の生母桂昌院(幼名=お玉)は八百屋の娘から武士の養女・公家出身の尼僧の侍女へそして将軍家光の側室にまで上り、立身出世しました。

行ったのが遅かったため、扉は閉じられていますが、屋代の中には、玉ちゃんが鎮座しているはずです。

「由来」

五代表軍・徳川綱吉公の生母桂昌院(幼名=お玉)は八百屋の娘から武士の養女・公家出身の尼僧の侍女へそして将軍家光の側室にまで上り、立身出世した事から、桂昌院が「玉の輿」の語源・代名詞となったことが頷けます。

当社は一七○○年に桂昌院が建立したのが始まりです。

須崎神社々務所

東京湾は江戸城の東側、銀座あたりから湾岸までは殆ど埋め立て地です。

時代を経て埋め立てがどんどん進んでいきましたが、江戸時代の分はこの洲崎神社迄だったということになります。

それにしても驚くほど土地が増えましたね。

東側の土地にも随分高層マンションが立ち並びましたが、地震による津波が発生する心配はなさそうです。

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