名古屋の中村公園に、2026年大河ドラマ館『豊臣兄弟!』を見に行きました。
館自体は一部屋しかなくすぐに終わりましたので、公園内をを散歩してきました。
以下公園内の各施設についてレポートします。
目次
1 中村公園記念館
中村公園とその周辺
(中村公園記念館)
現在の中村公園周辺は19世紀まで、 田畑が広がる一帯であった。明治18年(一八八五)、豊臣秀吉公出生の地と言われる場所の傍らに豊国神社が創建され、明治33年(一九〇一)に神社の周辺に中村公園が創設された。
明治4年(一九一〇)には愛知県が公園の拡張を行い、 迎賓館施設 (現在の中村公園記念館)が建築された。
記念館が建てられた年には、皇太子(後大正天皇)が行啓の際に立ち寄られている。
中村公園記念館は、建築的には格式あ書院造で、豊臣秀吉の馬印であるひょうたん等の意匠を取り入れた唐破風の玄関に特徴があり、現存してい明治期の公共木造建築物として希少性は高い。

2 ひょうたん池
秀吉のシンボルである「千成瓢箪(せんなりびょうたん)」にちなんで名付けられました。
物理的にも、池が中央でくびれた「ひょうたんの形」をしています。


3 八幡社

八幡社
由緒
御祭神 應神天皇
例祭日 体育の日
この神社は加藤清正候出陣にあたり武運長久を祈願せし御社なり慶長十五年名古屋城天守闇建城の際境内の楠の大木を棟木に使ったと言い伝られその後植られた楠で今なを生繁されています。
4 秀吉清正記念館




尾張の戦国大名、 織田信長はしだいに勢力をのばし、永禄11年(1568)に大軍を率いて上洛(都へ上ること)した。 その後も各地の戦国大名や寺院、一揆勢力と戦い続けた。
秀吉は18歳の時に信長に仕えたというが、詳細は不明である。元亀元年(1570)に北近江(現・滋賀県北部)の浅井長政を攻め滅ぼし、その功績で、翌年に長浜城主 (現・滋賀県長浜市)となった。天正5年(1577)からは中国攻めの大将に任じられ、姫路城(現・兵庫県姫路市)を拠点として、力をつけていった。
信長は元亀4年(1573)、 将軍の足利義昭を追放し、室町幕府を滅亡させた。 しかし天正10年(1582) 京都・本能寺で、家臣の明智光秀に討たれた。天下統一を目の前にして倒れたのである。

馬藺後立兜(ばんうしろだてかぶと)
天正15年(1587)の九州攻めで、 蒲生氏郷の配下として戦功を挙げた西村重就に対して、秀吉が与えたものとされる。 馬藺とはアヤメの一種である。 その葉をかたどった細長い板が、 後立として放射状に付けられ、朝日のような印象を与える。
当時の武将たちは、このように目立つ、 ユニークなデザインの兜を着用した。 自身の所在を味方にわからせ、戦場で命令系統を混乱させないために有効であった。
大阪城天守閣葳
桃山時代
豊臣秀吉画像
本能寺の変が起きた時、羽柴(のちの豊臣秀吉(1537~98) は毛利輝元方の備中高松城(現・岡山市)を攻撃中だった。信長の死を知るとすばやく京都に引き返し、山崎の戦いで明智光秀を破った。
翌年、織田家筆頭の重臣であった柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破った。 その後は織田家臣の一員としてではなく、自らが中心となって天下統一を進めていった。
資料:桃山時代
神戸市立博物館蔵
金箔押菊花紋飾瓦(きんぱくおしきくかもんかざりがわら)
大坂城の三の丸、武家屋敷から出土した一部の大名の屋敷には屋根瓦に金箔を押した天皇家由来の菊紋や桐紋を飾ることが許された。金が、集中的に出土する区域もある。
この瓦は火災にあったため、ほとんどの金が失われている。
桃山時代
複製原資料:大阪城天守閣最
秀吉满正記念館藍
豊臣秀長画像
豊臣秀長(1540~91) は、秀吉より3歳年下の異父弟である。 天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いや天正14年(1586)の九州攻めなどで活躍し、大和・紀伊・和泉110万石の大名となった。
諸将からの信頼が厚く、 秀吉とのパイプ役として、重要な役割を果たした。 しかし、九州攻め以後は病気がちになり、 秀吉よりも7年早く死去した。
資料江戸時代 春岳院蔵(奈良県大和郡山市)
狩野貞信重 大和郡山市指定文化財
天正大判
秀吉は国内の主な金山、 銀山を蔵入地 (直轄地)とし金貨、銀貨を鋳造させた。この大判には 「天正 十六 拾両 後藤」の墨書と花押(サイン)が書きこまれている。重さは44匁(約165グラム)で、1枚で10両=米38石 (約7000リットル弱)の価値があった。実際には贈り物、褒美用として使われ、貨幣として使われることはほとんどはなかった。
複製原資料 : 桃山時代 天正16年(1588) 後藤徳乗造
日本銀行金融研究所貨幣博物館蔵
肥前名護屋城跡(ひぜんなごや じょうあと)
肥前名護屋城(現・佐賀県唐津市)は、天正19年(1591) から秀吉が朝鮮出兵の拠点とするために築いた城 5層の天守を中心に広大な城域をもち、当時は大坂城に次ぐ規模の城郭であった。
慶長3年(1598) に秀吉が死去すると、 朝鮮出兵も終結し、廃城となった。
多くの曲輪や石垣、諸大名の陣屋跡が現存し、保存整備が進められている。左奥の水平線上にかすんで見える島は壱岐。 朝鮮半島はその遙か先、直線距離で約180kmである。
加藤清正画像(複製)
加藤清正(1562~1611) は、 秀吉子飼いの武将の筆頭格で、秀吉没後、文治派の側近の石田三成と反目し家康に接近した。 関ヶ原合戦で家康側の東軍につき、戦後小西行長の領地を与えられ、肥後一国の城主となった。慶長16年の家康と秀頼との二条城会見に臨席したが、直後に倒れ、死去した。
資料 本妙寺熊本市 江戸時代前期
秀吉清正記念館蔵

加藤清正関連の品
5 初代 中村勘三郎生誕記念像
初代 中村勘三郎生誕記念像建立の由来
豊臣秀吉公・加藤清正公の生誕地として知られる当地、名古屋中村が生んだもう一人の偉人が初代中村勘三郎である。
初代中村勘三郎は慶長三年(一五九八)頃から万治元年(一六五八)頃までを生きたとされる歌舞伎役者。京都で大蔵流狂言を学び、創作した舞踊は後に「若舞」と呼ばれ、当時大変な人気を集めたと伝わっている。それにちなみ、京から江戸に下ってのちは若勘三郎と名乗り、寛永元年(一六二四)頃、中橋南地(現在の日本橋付近)で「猿若座」を開設。江戸で初めての常設の芝居小屋であり、初代中村勘三郎が江戸歌舞伎の開祖といわれる由縁である。以後、明治まで幕府の認可を受けた江戸三座のうちにあり続けた。
慶安四年(一六五一)頃に堺町に移転。その際、中村勘三郎を名乗り、この時猿若座の名前も中村座と改められたと言われている。
この中村姓の発祥は生地中村であると中村屋一門にも公認されており、平成十八年(二〇〇六)には区内同朋高等学校で十八代目中村勘三郎の襲名披露公演も行われている。
出自には諸説あるが「甲子夜話」(江戸後期)にも「生國尾州愛智郡中村」と記され、祖父右近の兄にあたる中村式部少輔一氏は豊臣三中老の一人であり、秀吉公が織田信長公の臣下にあるうちから仕えていたとの説もあり、当地との浅からぬ縁が伺える。
かかる経緯により、中村勘三郎家、中村屋一門と当地の関わりを嘉して、平成二十八年(二〇一六) 地元団体が「初代中村勘三郎生誕像を中村公園に建立する会」を結成、篤志家の協力を得てここに初代の銅像を建立し、その遺徳を顕彰する運びとなった。区民がこの銅像を仰いでは郷土の生んだ偉人と歴史文化を誇り、輝かしい未来を築かんとする礎となることを願う。
豊國神社 宮司 近藤一夫
6 常泉寺
中村公園に隣接しています。
秀吉誕生の地とされていますが、真偽の程は定かではありません。
太閤山と号し、日蓮宗
慶長年中(一五九六~一六一五)円住院日誦上人の創建という。
この地は、織田信長に仕え、足軽から身を起して、後に天下を統一した豊臣秀吉誕生の地と伝える。
境内に伝承として、秀吉手植の柊((ヒイラギ)基木より五代目という)と秀吉産湯の井戸がある。
なお、誕生地については、中中村(現中村中町あたり)とする説もある。
名古屋市教育委員会


豐臣秀吉公·銅像
豊臣秀吉公没・三百年記念事業として太閤秀吉公像を明治31年(1898)に建立。昭和19年(1944) 戦争による金属強制徴収となり、台座石のみとなる。
昭和58年(1983) 放火により本堂全焼となるも、 篤信者の支援、檀信徒一丸となり、同62年(1987)に本堂落慶を迎える。続いてこの台座石に心をとめた方の寄進によりその翌年5月、秀吉銅像が再建された。
パワースポット
開運
豊臣秀吉公産湯の井戸
この井戸は秀吉公誕生当時、産傷に使われたと伝えられ、近郷に類のない清水溢れる井戸と伝承される。
このところに秀吉公の命により寺を創建した時、「常に清泉湧き出る」意味から、寺号を宮泉寺と定める。 昭和40年代、市の発展にともない地下水が変動し、井戸も枯れるに至ったが、無事再現成り、甦った。

これが秀吉お手植えの柊(ヒイラギ)の5代目。大河ドラマ館は下記に記載。











