史跡

暗渠となった文京区・小石川の跡探索

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文京区・小石川は、地名と地形から昔は川が流れていたと容易に想像が付きますが、どこにあったのか。

その跡形はあるのか街歩きで証拠集めをしてきました。

小石川植物園前の交差点には最近共同印刷の本社社屋が建ちましたが、ここが今回の探索の起点です。

共同印刷の前の舗道のベンチにはこんな銘板が。

最近できたばかりの建物ですが、粋ですね。

本郷台と豊島台の間を流れる川は礫川とも書き、小石の多い川であったことが小石川の由来。

小石川は昭和9年(1934)に埋め立てられ暗渠になりました。

埋め立てられた小石川の上を通っている道路が、現在の千川通りです。

小石川の河道は下記地図の赤い線です。

JR大塚駅の北側から千川通り沿いに南下し、最後は神田川に合流します。

同じ場所の古地図は以下です。

 

神田川との合流地点を古地図と並べると以下です。

東京ドームの東側を暗渠が通っているようです。

共同印刷に戻り反対側(北側)に進みます。

 

小石川植物園の北側に簸川(ひかわ)神社があります。

簸川神社(氷川明神)

御祭神

大巳貴命(オホナムヂノミコト)<大国主神>

素盞嗚命(スサノヲノミコト)<主祭神>

稲田姫命(イナダヒメノミコト)<妃神>

御祭神は武勇の神として崇められ、病患邪悪を取り除き、平和と繁栄の世を開き、福徳円満、商売繁盛、縁結び、文芸の神として信仰されています。

祭礼日 九月九日、十日(交通事情により前後の土・日曜日に斎行)

簸川神社の歴史

創建は第五代孝昭天皇 の御宇三年と伝えられる古社です。もとは小石川植物園 の地、御殿坂周辺の貝塚の上に鎮座し、八幡太郎源義家 公(1039〜1106)が奥州平定 の祈願に参籠した社とされています。元禄十二年(1699)に現在の高台に移転し、巣鴨の鎮守として定められ、江戸名所のひとつに数えられていました。明治二十三年十一月、大正天皇 陛下(当時東宮)が植物園に御成の折、御臨拝賜りました。

もとは社号に氷川を用いていましたが、大正時代、神主毛利昌教 が神社の由緒を出雲の国、簸川にあるとし、氏子中に諮り簸川と改めました。

(1)本殿

社殿は関東大震災、昭和二十年の空襲と、二度にわたり焼失し、再興されました。その歴史から、火災に強い神社を願い、昭和三十三年に再建された現在の本殿には、当時神社としては珍しかったコンクリートが使用されています。

(2)神楽殿(水谷殿)

(3)参集殿

(4)五社神社

(5)五社神社狛犬

(6)千川改修碑

(7)一の鳥居

(8)合格階段(五十段)

(9)二の鳥居

(10)本殿狛犬

(11)庚申塔

(12)取水舎

(13)水神社

(14)白宝稲荷

(イ)枝垂桜(復興祈願植樹)

(ロ)東宮殿下御来臨碑

 

 

簸川(ひかわ)神社・氷川坂(簸川坂) 千石2-10-10

・簸川神社

社伝によれば、当神社の創建は古く、第五代孝昭天皇のころと伝えられ祭神は素戔嗚命(すさのおのみこと)である。 源義家(1039~1106)が奥州平定の祈願をした社といわれ、小石川、巣鴨の総社として江戸名所の一つであった。 もとは現在の小石川植物園の地にあったが白山御殿造営のため、元禄12年(1699)この地に移された。社殿は、さきの空襲にあい全焼失したが、昭和33年(1958)に再建された。

境内の幟建一対は江戸時代、善仁寺門前町氏子中により奉納された貴重な石像物である。なお、1基は平成12年久堅町民会の尽力で修復されたものである。

 

・氷川坂(簸川坂)

簸川神社に接した坂ということでこの名がつけられた。氷川神社の現在の呼称は簸川神社である。坂下一帯は明治末頃まで「氷川たんぼ」といわれ、千川(小石川)が流れていた。洪水が多く、昭和9年(1934)暗渠が完成し、「千川通り」となった。神社石段下には千川改修記念碑がある。

-郷土愛をはぐくむ文化財-

文京区教育委員会

平成13年3月

 

氷川坂を下ると小石川が流れていたとのことです。

古地図と現代地図の比較

更に千川通りを北に進むと、不忍通りとの交差点あたりに猫又橋 親柱の袖石(そでいし)があります。

小石川にかかっていた猫又橋の名残ということですが、親柱と袖石の構成が想像できません。

猫又橋 親柱の袖石

この坂下にもと千川(小石川とも)が流れていた。むかし、木の根っ子の股で橋をかけたので、根子股橋と呼ばれた。

江戸の古い橋で、伝説的に有名であった。このあたりに、狸がいて、夜な夜な赤手ぬぐいをかぶって踊るという話があった。ある夕暮れ時、大塚辺の道心者(少年僧)がこの橋の近くに来ると、草の茂みの中を白い獣が追ってくるので、すわ狸かとあわてて逃げて千川にはまった。それから、この橋は、猫貍(ねこまた)橋・(猫又橋)といわれるようになった。猫貍は妖怪の一種である。

昭和のはじめまでは、この川でどじょうを取り、ホタルを追って稲田(千川たんぼ)に落ちたなど、古老がのどかな田園風景を語っている。

大正7年3月、この橋は立派な石を用いたコンクリート造りとなった。ところが千川はたびたび増水して大きな水害をおこした。それで昭和9年千川は暗渠 になり道路の下を通るようになった。

石造りの猫又橋は撤去されたが、地元の故市川虎之助氏(改修工事相談役)はその親柱と袖石を東京市と交渉して自宅に移した。

ここにあるのは、袖石の内2基で、千川名残りの猫又橋を伝える記念すべきものである。なお、袖石に刻まれた歌は故市川虎之助氏の作で、同氏が刻んだものである。

騒がしき蛙は土に埋もれぬ 人にしあれば 如何に恨まん

郷土愛をはぐくむ 文化財

文京区教育委員会

 

 

猫又坂です。

猫又坂(猫貍坂、猫股坂)

千石二丁目と三丁目の間

不忍通りが千川谷に下る(氷川下交差点)長く広い坂である。現在通りには大正11年(1992)頃開通したが、昔の坂は、東側の崖のふちを通り、千川にかかる猫又橋につながっていた。この今はない猫又橋にちなむ坂名である。

また、『続江戸砂子』には次のような話がのっている。

むかし、この辺に狸がいて、夜な夜な赤手拭をかぶって踊っているという話があった。ある時、若い僧が食事に招かれての帰り、夕暮れの時、すすきの茂る中を白い獣が追ってくるので、すわっ、狸かと、あわてて逃げて千川にハマった。そこから、狸橋、猫貍橋、猫又橋と呼ばれるようになった。猫貍とは妖怪の一種である。

-郷土愛を育む文化財-

文京区教育委員会 平成11年3月

 

境港市水木しげるロードに設置された猫又のブロンズ像です。

最後は大塚駅に向かって、文京区千川通りの七夕飾り

大塚駅周辺の地図はこちら

昔は氾濫していた小石川ですが、暗渠になれば氾濫は収まるものなのでしょうか。

道路の下をこんこんと流れている川があると思うと不思議です。

河川改修で自然を抑え込んだと思った場所で、想像を上回るエネルギーが人工物を破壊してしまうことがあります。

なんかの拍子に隠れた川が牙をむいて地上に現れてこないことを祈ります。

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