史跡

神田川クルーズ 江戸川、神田川、隅田川をぐる~っと1周

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神田川クルーズは、江戸川、神田川、隅田川をぐるっと周遊する約10km・90分の周回コースです。

日本橋からスタートして、江戸川を遡り、小石川で神田川に合流すると、今度は神田川を隅田川との合流点まで下り、

合流点から隅田川を南下し江戸川との合流点まで到達すると、

そこから再度、江戸川を遡り出発点の日本橋まで戻ります。

 

出発点の日本橋です。

橋の南から階段を降ります。

乗り場は双十郎河岸です。

日本橋架橋100周年を迎えた2011年に船着場が完成し、その完成式に、坂田藤十郎と市川團十郎が参加し、記念碑セレモニーが開催されたことから、2人の十郎という意味で双十郎の名前が付けられたとのことです。

記念碑の左右にお二人の名前も刻まれていますね。

インターネットで事前予約をしましたが、乗り込み順は受付順です。

乗船の1時間前には受付を済ませたのですが、既に整理券の番号は31番でした。

皆さんどれだけ早く来たのでしょう。

最前列に座りたかったのですが、絶望的な数字でした。

 

これがチケットです。

整理券を持って、乗船時間を待ちます。

桟橋は、全長20メートル、幅6メートルの浮桟橋型で固定する柱上部は、木製だったころの「日本橋」の欄干を参考にデザインしたものです。

 

目次

1        日本橋

いよいよ出発です。

まずは日本橋を潜ります。

この橋は江戸時代、陸上交通の要所であり、水陸交通運輸の接点ともなっていました。

家康が江戸に来たときは、日本橋から350m下流は海でした。

江戸時代には幾度もの火災に見舞われ、再建と改築を繰り返しました。

19回作り替えられ、現在の日本橋は1911年(明治44年)に御影石で造られた20代目です。

石の間は接着剤やセメントは使われていません。

獅子のマークのある石はキーストーン、すなわち要石(かなめいし)で、この石を取ると崩れ落ちるそうです。

江戸時代はこの辺りから道三掘と呼ばれた堀が開削され、江戸城和田倉門までの水運が確立されていました。

 

2        一石橋

一石橋を潜り、大手町に出ます。

左手に212mの常盤橋タワーを見上げます。

現在、常盤橋地区は再開発中です。

右手には日本銀行1896年に造られました。材料は御影石で設計は辰野金吾です。

日本銀行の場所は、江戸時代金貨の製造を行った金座と呼ばれたところでした。

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3        常盤橋(盤のつくりの下が皿)

常盤橋です。関東大震災の復興道路として「常磐橋」の下流に架橋されました。

左手に渋沢栄一の銅像があります。

これが常盤橋門の石垣です。

4        常磐橋(磐のつくりの下が石)

こちらが歩行者専用の東京最古の橋「常磐橋」です。

江戸時代の1590年に日本橋川に架けられた木造の橋がそのルーツとなります。

石橋になったのは1877年(明治10年)のことです。

2011年(平成23年)3月11日の東日本震災で亀裂が生じて通行禁止になっていましたが、2021年(令和3年)5月、修復して通行が可能となりました。

もともとこちらが常盤橋でしたが、下流に常盤橋ができたため潰そうと考えていたようですが、渋沢栄一記念財団のったに待ったにより残されたとの事。

 

5        新幹線と在来線の鉄橋

 

新幹線と在来線の鉄橋を潜ります。

在来線の橋は大正3年につくられた東京駅に中央線をつなげるために大正7年に架けられた橋です。

 

6        鎌倉橋

震災復興橋です。かつてここに鎌倉河岸がありました。

神奈川県の鎌倉から移り住んだ人たちがこの辺りに住んでいました。

7        神田橋

左手にはかつて神田橋御門がありました。

水上バイクが走ります。

 

8        昔の桜の標本木2146

旧気象(前身の中央気象台)庁脇を通ります。

現在は、KKRホテル東京【国家公務員共済組合連合会東京共済会館】)です。

気象庁が東京で行っている桜の観測は、昭和41年(1966年)以降、靖国神社のソメイヨシノで行っています。

それ以前は、旧気象庁構内に植えられたソメイヨシノを標本木として使っていました。

川沿いに見える桜の一本が、昔の標本木です。

9        錦橋

1927年(昭和2年)に架設された震災復興橋です。

「錦」は昔近くに一色という武家屋敷が二軒あったので、二色から錦と転化したのだといわれています。

 

10     石垣

一ツ橋手前から雉子橋あたり。

石垣は3代将軍・徳川家光の頃の物です。

ここから神田川の合流点までは江戸時代の初期に流れていた平川の名残部分で、流れが神田川に変えられた後は、江戸城迄の水運用として使われました。

 

石の表面の刻印は、普請を行った各藩が付けたものです。

刻印は石垣工事をした大名を見分けるためです。

命ぜられた大名は石の切り出しから運搬迄すべて自分たちで行わなければなりませんでした。

そんな大変な工事を自分たちがやったことを示す証拠を残したということです。

 

現在、刻印が隣接してあるのは、震災の時に崩れた石垣をあちこちから寄せ集めて作ったためです。

 

 

11     一ツ橋

手前の石が一段高くなったところに「一橋御門」がありました。

「復興局建造」のプレートがあります。

震災の復興を担った部署です。

 

12     平川が流れていたところ

かつて、この場所かr平川と呼ばれ川が、日比谷入り江(現在の日比谷公園あたり)と呼ばれる江戸湾に直接流れ込んでいました。

この川は、江戸城に船で攻め込まれる可能性がったため徳川家康は、この平川を止めてしまいます。

しかしながら、単純に止めてしまうと川は溢れてしまいますので、現在の江戸川下流を堀って川の付け替えをしました。

その結果、現在の日本橋川の流れになります。

 

13     雉子橋

当時の平川から江戸城まで一番近いのが雉橋のため、家康はこの辺りから防衛を固めたということです。

 

14     宝田橋

 

左手に大隈重信が造った屋敷があったとのこと。

その処分を渋沢栄一が行ったとのことです。

初代のフランス大使館は大隈重信退去跡であったとのことです。

15     まな板橋

上を通るのが靖国通りです。

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16     堀留橋

昔は、神田川と江戸川の間は防衛のため埋められてしまいます。

この辺りが埋められたところで、堀が止められたので堀留橋と呼ばれました。

繋がったのは明治にからの事です。

1895(明治28) 中央線が韮崎から飯田橋まで繋がり貨物駅ができました。

その貨物を運ぶのに水路が必要となり神田川と江戸川が再び繋げられました。

現在のアイガーデンエアの場所は飯田橋の貨物駅でした。3555

川沿いにはソメイヨシノが38本植えられ、春先は綺麗に咲きます。

アイガーデンエアの工事をしたときに、地下から江戸の痕跡が出てきました。

讃岐高松藩上屋敷の柱を支えていた基礎石と、平川の石垣です。

基礎石は桜並木の中に保存され、平川の石垣はアイガーデンエアの中に平川の道として保存されています。

 

17     JR中央線の橋と三崎橋

JRの橋は、鉄筋コンクリード製と、レンガ製があります。

レンガ聖(明治37)のもの設計はドイツのメーカによって設計され、使用されたレンガは、埼玉県深谷市で造られたものです。

18     神田川の流路変更

 

江戸時代になると神田川は江戸城の外堀として機能するように神田台地を掘り下げ現在の飯田橋付近から東流するように流路を改めました。

これで現在の川筋とほぼ同じものが出来上がります。

ところで、この土木工事を命じられたのは仙台藩の伊達政宗で、関東以北で最も攻撃を仕掛ける可能性のある大名自身に普請を命じたということです。

 

開削した神田川の南は、駿河から来た旗本(駿河衆(するがしゅう))たちの多くが、屋敷を構えたことから駿河台と呼ばれました。

 

19     小石川橋

ここで神田川に出ました。

ここから隅田川まで下りますが、ここからはほぼ一直線の川筋です。

 

20     東京都清掃局

船を使ってごみを搬送しています。

21     後楽橋

 

第二次世界大戦時に落とされた焼夷弾の貫通穴が橋の下側から確認できます。

また、護岸には何かがぶつかった跡があります。

23     水道橋

 

江戸時代神田川の水を江戸の町に引くために架けられたのが水道橋です。

水は、小石川後楽園を通ってこの橋に流れてきていました。

 

広重が描いた水道橋です。

神田上水が橋の上を流れ江戸城に給水していました。

広重の「お茶の水」

 

24     水道橋の碑

東京街歩き:神田川に架かっていた神田上水の水道橋跡

25     御茶ノ水分水路

増水時にはここから1kmほど下流まで別水路で水を流します。

26     御茶ノ水橋

左手には本郷台地の先端部分が切り裂かれた部分です。

4年かけて水が流れるようになり、40年かけて船で行き来できる幅に広げたということです。

 

27     御茶ノ水駅工事のための桟橋

現在御茶ノ水駅の工事を10年かけて行っています。

重機を置く場所がないため、この桟橋に置いています。

中央線御茶ノ水駅から桟橋の上を見たところです。

28     聖橋

このアーチ橋は、昭和2年に造られました。

震災復興橋です。

 

29     地下鉄丸ノ内線の橋梁

神田川のこの場所は台地が削られた場所で、地下を走っている丸ノ内線はこの部分だけ外に出ています。

船は、地下鉄の下を潜ります。

 

30     JR中央線の橋梁

 

31     昌平橋駅跡

1908年(明治41年)から、万世橋駅のできる1912年(明治45年)まで4年間だけ使用されました。1911年から1912年までは、名古屋に至る中央線の始発駅でした。

32     昌平橋

 

33     御茶ノ水分水路出口

分水路の出口です。

34     万世橋駅

 

1912年(明治45年)4月1日に開業しましたが、上野 ― 神田間 ― 東京間で鉄道が開通し、近隣で秋葉原駅が旅客営業を始めたことにより、ターミナル駅としての地位を失い、1943年(昭和18年)11月1日、駅は休止となりました。

設計は辰野金吾です。

現在は、ホームや高架下のレンガの構造がそのまま残され「マーチエキュート神田万世橋」という商業ビルになっています。

 

35     万世橋

 

36     山手線の橋梁

万世橋を渡るとすぐにJRの橋梁があります。

手前の橋梁は大正10年のものです。

37     柳森神社

室町時代、太田道灌公が江戸城の鬼門除けとして建立した神社です。

柳を森のように植えたことからこの名前が付けられました。

 

38     柳原堤跡

土地の高さは左側が低く、右が高くなっています。

神田川が増水した時、江戸城側に水が付かない様に城側を高くしています。

 

39     和泉橋と美倉橋

 

40     左衛門橋

41     船宿

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42     浅草橋

43     柳橋

44     隅田川と合流、蔵前橋、スカイツリー

 

45     蔵前橋

黄色い色は、黄金色の稲穂をイメージしたもので、江戸時代は94棟もの大米蔵があったところです。

1924年(大正13年)9月に着工し、1927年(昭和2年)11月に竣工します。

 

46     両国橋

橋の途中に半円形のテラスがあります。

ここは、橋の上に行くと実寸大の土俵が描いてあり、ちゃんと仕切り線も引いてあります。

江戸時代は防備の面から隅田川の橋は、上流の千住大橋しかありませんでした。

しかし1657年(明暦3年)の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、多くの死傷者を出してしまったため、防災の観点と、街を大きくするために両国橋が架けられました。

 

厩橋(うまやばし)方面(蔵前橋の上流)からみた両国橋。

蔵前橋はこの当時はありません。

47     首都高7号

 

48     新大橋

江戸時代千住大橋、両国橋に続いて3番目に架けられた橋です。

「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられました。

橋が完成していく様子を、当時東岸の深川に芭蕉庵を構えていた松尾芭蕉が句に詠んでいます。

 

「初雪やかけかかりたる橋の上」

 

「ありがたやいただいて踏むはしの霜」

歌川広重『名所江戸百景』に描かれた 新大橋

 

49     芭蕉庵史跡

芭蕉の門人の杉風(さんぷう・鯉屋藤左衛門)は江戸切っての大きな魚問屋の主人で、芭蕉の経済的な後援者のひとりでした。
この杉風の深川にあった生けすの番小屋に芭蕉が住み、やがて門人が植物の芭蕉を一株もってきて植えました。
風が吹けば芭蕉の葉が荒々しい音をたてました。
その芭蕉にちなみ、門人たちがその家を芭蕉庵と呼ぶようになり、やがては芭蕉自身も戯れに自らの俳号を芭蕉と号するようにもなりました。

「奥の細道」で同行した曽良もこの近くに住み芭蕉の身辺の面倒を見ていたようです。

松尾芭蕉の銅像は日中、隅田川上流を向いていますが、17時になると銅像が90°回転し、清洲橋を眺める位置になります。

 

50     万年橋

芭蕉庵から隅田川の支流、小名木川に入ります。

小名木川は千葉の塩田・行徳から安全に塩を運ぶ水路として掘られたものです。

小名木川は塩だけでなく、北関東や東北からの物資輸送のための重要な水路で、幕府は当初、出入りする船を取り締まる「船番所」をここに設置しました。

葛飾北斎の「深川万年橋」

51     清州橋

清州橋は震災の復興橋として、

ドイツ・ケルンにあった「ヒンデンブルク橋(大吊橋)」をモデルとして造られました。

ケルンの橋は第二次世界大戦時に破壊されました。

 

東京スカイツリーとの組み合わせが綺麗です。

 

52     隅田川大橋(首都高)

2階建てです。

53     永代橋

江戸時代は今よりも上流に掛けられていました。

文化4年(1807)深川富岡神社の祭礼を見物する群衆の重みで崩落し、1000人あまりの死者を出しました。

関東大震災(1913)では炎上し、1926年に現在の永代橋が再建された復興橋です。

 

永代橋の向こうに見える東京ベイエリアは石川島に建てられた高層ビルです。

先頭のマンションから綺麗な三角形の形に並んでいます。

隅田川上流から見られることを意識して設計されました。

 

54     豊海橋

再び江戸川に戻ります。右手は箱崎、左手は新川です。

徳川家康が入府した時は、左手は海でした。

新川、茅場町、兜町が、埋め立てられたのは江戸時代の初期です。

55     ミツカン東京支店

明治以降、新川には一般人は立ち入り禁止でした。

お酒、醸造業者が立ち並びました。

ミツカンは江戸時代、愛知県で赤酢を作り始め、江戸に持ち込んで商売を始めると爆発的に売れました。

赤酢が江戸前握り寿司の発展に力を貸したとも言われています。

 

56     湊橋

57     茅場橋

58     東京証券取引所

59     鎧橋

鎧橋が架けられたのは明治初期で、それまでは小網町と茅場町をつなぐ「鎧の渡し」と呼ばれる渡し場がありました。左手前から奥へと連なる白壁の蔵は廻船問屋の蔵屋敷です。

60     渋沢栄一邸宅跡地「日証館」

現在は無いですが、邸宅は、辰野金吾が設計しました。

 

61     再び日本橋

橋の浦側の黒く焦げて凸凹しているところは関東大震災の火傷の痕跡です。

日本橋は何度も改修工事を行っていますが、石を取り換えるわけにはいかないので、そのまま残されています。

日本橋の麒麟は道路の起点となる日本橋から飛び立つというイメージで造られています。

獅子像もありますが、上流側に16、下流側に16 合計32あるとのことです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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