史跡

日本橋界隈・魚河岸跡・日本橋三越・日本国道路元標

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日本橋界隈の街歩きをしました。

現在の日本橋は、高速道路が上を横切っていて風情のあるものではありませんが、江戸時代は五街道の起点、交通網の中心となっていました。

現在でもこの道は交通量が多く人々の往来は盛んですが、気をつけないと日本橋だと気が付かないで通り過ぎてしまいそうです。

1        日本橋魚河岸跡

天正8年(1590)徳川家康が江戸に入府した後、摂津(大阪)の国佃村の漁師34人が徳川家康によって江戸に召し出され、寛政年間に181m四方の干潟を拝領し、埋め立てて島にしました。佃島です。

東京街歩き:桜の佃島住吉神社、石川島灯台、造船所跡」に記事あり。

 

漁師たちは、江戸近辺で漁業を営む許しを得て、徳川家にも魚介類を献上しました。

上納して余った魚介類を幕府の許しを得た上で一般にも売り始めたのが、日本橋魚河岸の起源です。

日本橋魚河岸は、関東大震災(1923)までありましたが、その後、築地に移動したため現在は記念碑が残るだけとなりました。

広重の浮世絵に残された、日本橋と魚河岸の様子。

1.1         乙姫広場

その記念碑がこの乙女広場にあります。

「龍宮城の住人である海の魚が、ことごとく日本橋に集まった」という意味を込めて、乙姫をイメージした像が置かれています。

日本橋魚河岸跡

所在地 中央区日本橋室町一丁目八番地域

日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」がありました。

ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まります。

この魚市は、日本橋川沿いの魚河岸を中心として、本船町・小田原町・安針町(現在の室町一丁目・本町一丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変なにぎわいをみせていました。

なかでも、日本橋川沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、一日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つでした。

江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用して運搬された魚介類を、河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、納屋の店先に板(板舟)を並べた売場を開いて売買を行ってきました。

この魚河岸は、大正十二年(一九二三)の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。

現在、魚河岸のあったこの場所には、昭和二十九年(一九五四)に日本橋魚市場関係者が建立した記念碑があり、碑文には、右に記したような魚河岸の発祥から移転に至るまでの三百余年の歴史が刻まれ、往時の繁栄ぶりをうかがうことができます。

平成十九年三月

日本橋から見た震災前の魚河岸 (左端)と日本橋川の様子、 奥は江戸橋

 

 

2        日本橋

お江戸日本橋の現在は、江戸川の上を走る高速道路の下にある状態です。

高速道路は1964年の東京オリンピック直前に建設され、半世紀以上経過しましたので、現在高速道路を地下に走らせ、日本橋の上を青空にする工事が着々と進んでいます。

完成は2035年の予定です。

ちなみに「日本橋」の書は徳川慶喜です。

昔の日本橋はこんな感じでした。

日本橋は徳川家康が江戸に幕府を開いた慶長8年(1603)に南北の交通路として木橋が架けられたことに始まります。

 

3        日本橋三越

三越の前身である呉服商の「越後屋」は、1673年(延宝元年)に、ここ江戸本町にて創業しました。

当時、一流の呉服店では、前もって得意先の注文を聞き、後から品物を持参する見世物商いと、直接商品を得意先に持参して売る屋敷売りが一般的であり、支払いは、盆・暮の二節季払い、または12月のみの極月払いの掛売りが慣習でした。

しかし、この商いの方法は金利がかさむので、商品の値が高く、資金の回転よくありませんでした。

このデメリットを打破したのが、「店前たなさき売り」と「現銀(金)掛値なし」です。

いってみれば、今日、日常でお店に行って洋服を買うのと同じなのですが、こと呉服に関しては前例のないものでした。

現金売りによる収入は資金の回転を早め、相当な儲けがありました。

 

現在の日本橋三越本店ビルの場所は当時の越後屋の場所とほぼ同じ所にあります。

古地図では日本橋を北へ進むと西側に「越後屋」を見つけられます。

 

浮世絵で描かれた越後屋を見ると、その大きさが分かります。

ちなみに三越の入口にあるライオン像が誕生したのは大正3年(1914)、ここ日本橋の三越本店がルネッサンス式鉄筋5階建ての新店舗を建設したときに、ロンドンのトラファルガー広場のライオン像をモデルに、外国人の彫刻家と鋳造師を起用して製作されました。

支配人の日比翁助氏が大変なライオン好きだったのと、三越が商売の王者たらんとする決意を込めたものだということです。

ライオンも季節にあわせてハロウィンの装いをしていました。

4         道路元標(Kilometer Zero)

道路元標(どうろげんぴょう)は、道路の起終点を示す標識です。

 

4.1         日本国道路元標(Kilometer Zero)

江戸時代の日本橋は、五街道の起点となっていましたが、明治維新後も日本の道路の中心地のシンボルとして、日本国道路元標が日本橋の中央に設置されています。

しかしながら交通量の多い道路のため、危なくて歩いて近寄れないので橋の近くにレプリカが設置されています。

 

日本国道路元標

日本橋は1603年に創業され、江戸幕府により五街道の起点として定められました。

現在の日本橋は1911年に架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、四隅の親柱の銘柄に刻まれた「日本橋」及び「にほんばし」の文字は最後の将軍・徳川慶書公の揮毫(きごう)【毫 ( ふで ) を 揮 ( ふる ) う】によるものです。

1972年、日本橋中央の「東京市道路元標」がこの広場に移設・保存されました。

その据えられていた跡には、内閣鉄理大臣佐藤栄作氏(後にノーベル平和賞受賞)の揮毫による「日本国道路元標」が埋標されました。この複製も同時に制作・設置されたものです。

東京市道路元標は、1999年に米寿を祝う日本橋とともに国の重要文化財に指定されています。

 

4.2         東京市道路元標

道路元標のレプリカの隣にあります。

1923年(大正12年)の関東大震災後から復興後の1928年(昭和3年)のときに、日本橋の中央部、往復する市電の2本の線路間に建てられたものです。

太平洋戦争後の1972年(昭和47年)になって、市電から改称されていた都電の撤去改修工事に伴って、この地に移設されました。

場所は日本橋三越のすぐ南の日本橋の手前です。

本物の日本国道路元標の直上を通る首都高速都心環状線の高架橋上にも、東京市道路元標に似せたモニュメント(道路元標地点碑)が設置されています。

 

4.3         里程標

 

道路元標の左右には主要地点までの距離を示す里程標が設置されています。

 

西日本方面の里程標

東日本方面の里程標

 

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