史跡

近藤勇と板垣退助が戦った山梨・大善寺前の柏尾(かしお)古戦場と大善寺

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柏尾(かしお)古戦場は戊辰戦争において、板垣退助の官軍と近藤勇の幕府軍との間で行われた戦いです。

場所は甲府盆地の東側に位置する甲州街道沿いの農村地帯です。

鳥羽伏見の戦い後、江戸に移った新選組は、西から進んでくる新政府軍を迎え撃つべく甲陽鎮撫隊と名を改め甲府に向かいました。

「甲府を先に押さえた方に軍配が上がる」という幕閣の忠告を軽視した近藤たちは贅沢に豪遊しながら行軍したため、1日早く板垣退助に甲府城を抑えられてしまいます。

そのためやむなく大善寺の山門前に細長い陣を引き新政府軍を迎え撃ちましたが、近代式の戦闘に慣れた新政府軍に簡単に撃破され、僅か2時間で敗走しました。

 

今回の旅は「近藤勇と新選組の会」の皆さんと一緒にチャーターバスで向かいました。

 

1        柏尾(かしお)古戦場

 

明治元年(一八六八)三月六日

近藤勇が率いる幕府軍と板垣退助が率いる官軍の先鋒隊がこの地で戦った。

勝沼町 教育委員会

柏尾(かしお)の古戦場

明治元年(一八六八)三月六日、近藤勇率いるかつての新撰組 会津潘(藩?)兵からえる幕府軍甲陽鎮撫隊と因幡、土佐、高遠潘(藩?)兵からなる官軍がこの地で戦った。

甲府城占拠を目指す幕府軍は先に甲府入城を果たした官軍を迎え撃つため勝沼宿に二カ所の柵門、柏尾の深沢左岸東神願に砲台を設け備えたが、甲州街道岩崎方面、菱山越の三手に別れ、攻撃を加えた官軍の前に敗れ敢え無く敗走した。

この戦いは、甲州に於ける戊辰戦争唯一の戦いてあり甲州人に江戸幕府の崩壊を伝えた。

町内にはこの戦いで戦死した三人の墓が残されており、このほかに両軍が使用した砲弾が三個伝えられている。

 

近藤勇の像です。

刀が日本刀ではなく大昔の剣なのが気になります。

 

昔あった柏尾橋に繋がっていた道沿いに記念のプレートが並んでいます。

柏尾の戦い

慶応4年(1868) 3月5日、江戸 大久保剛 (近藤勇)率いる幕府軍は、柏尾橋の東詰、鳥居の前に本陣を据え、大砲を二門据えつけ、 宿内三箇所に通りを遮る棚門を設け、日川左岸の岩崎山に日野の春日隊を配した。

夜にはいたる所で篝火がたかれ、柵の警備に宿の人もかりだされていた。

3月5日に甲府城に入城した板垣退助率いる官軍は、6日甲州街道を因幡藩、諏訪、土佐藩の本隊が進軍し、途中岩崎方面に土佐藩隊、菱山から柏尾山を越える因幡藩隊の3手に分け柏尾に迫った。

3月6日午後、最初の銃声は、等々力村と勝沼宿の境に造られた棚門の所で起こった。

幕府軍二人をねらって官軍が撃った銃弾は、宿人足の宇兵衛を即死させてしまった。

柵を破り進軍する官軍は、通りから家の裏まで見通しがきくよう、宿の家々に建具をすべて外させ、 家の者は裏の物陰に隠れ動かないように命令した。

このとき通りに飛び出してしまった女性が一人撃たれてしまったという。

宿通りを進軍する官軍に対し、幕府軍は次第に後退し、柏尾の茶屋に火を放ち、柏尾橋を焼き、橋から鳥居までの坂道に木を切り倒し、官軍の進路を防いだ。

官軍は、五所大神の南のダイホウインの台地に大砲を据え、深沢の渓谷を挟んで、打ち合いが行われた。

岩崎方面では白兵戦が行われ、一進一退を繰り返していたが、官軍の3手目の因幡藩隊が山越えに成功し、深沢川の上流から幕府軍の本陣に攻め入ったため、総崩れとなり、甲州街道を江戸に向かい敗走し、1時間ほどで官軍の勝利に終わった。

 

 

柏尾戦争の痕跡

甲州市勝沼町には柏尾の戦争で亡くなった、幕府側2名、官軍側1名の墓が伝え残され

ている。

幕府側は明治30年代に建立された柴田八郎の墓が勝沼町深沢入り口の畑の中に、池田七三郎の墓が岩崎山の狐原の山中に、官軍の本村武則 の墓が勝沼の護念寺墓地にある。

また、幕府のキャノン砲の砲弾が2点、官軍の鉄球弾が1点、 勝沼宿上町に設けられた柵門の南側にあたる勝沼氏館跡外郭域では、白兵戦のおり使用された鉛玉が葡萄柵の杭跡などから多数発見されている。

 

柴田八郎の墓は、古戦場のすぐ近くのブドウ畑の中にありました。

 

2        大善寺

 

柏尾山大善寺

当寺は真言宗智山派に属し、今より一千二百年余年前、元正天皇の養老二年、僧行基の開基にして関東屈指の古刹である。

聖武天皇より柏尾山鎮護国家大善寺の寺号と共に御宸筆の勅額を増り、代々皇室の御祈願所として隆昌を極めた霊場で本尊薬師如来は行基の作と伝えられ弘仁期の作風を感受させる稀有の名作と稱せられて居る。

薬師堂は(鎌倉幕府の建立)国宝に指定されて居り其の他重要文化財、古文書等多数を蔵して居る。

 

2.1         大善寺受付の建物

2.2         庭園

2.3         山門

 

山梨県指定文化財 大善寺山門

平成14年3月4日指定

三間一戸楼門、入母屋造、銅版葺。 棟札により寛政10年(1798年)に、土屋但馬守英直 (茨城県 土浦城主) により再建されたもので、 大工は旧大和村の諏訪神社、 三島神社の本殿を手掛けた土橋文蔵茂祇である。

上下層とも三手先の組物をもらい、当時流行していた彫刻をおさえ重厚さを備えた大建築であり、比較的改変も少なく十八世紀末の甲州建築を知る上で貴重な建造物です。

山梨県教育委員会 甲州市教育委員会 JR鉄道文化財団

 

 

2.4         山門の仁王像

 

旧幕府軍と新撰組は、 1868年(慶応4年) 薩摩藩兵を中心とする新政府軍と鳥羽・伏見の戦いで敗れ、大坂から江戸へ帰還した。

その後、近藤勇を隊長とする 「甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)」として新政府軍の東進を阻止する目的で、 甲府城の接収を命ぜられ、甲州街道を西へ進んだ。

しかし、 板垣退助率いる新政府軍3000 の一隊はわずか一日の差で甲府城に入城する。 近藤は援軍要請のため土方歳三を江戸へ向かわせる一方、 自身は西進し3月5日勝沼に布陣した。

大善寺に本陣を置こうとしたが、大善寺には徳川家縁の寺宝があるという理由から諦め。 大善寺の西側に先頭、 山門前及び、東側の白山平にいたるまで細長く配置されたとされる。 当初300名いた隊員は次々と脱走し、このときわずか121名だったという。 戦闘は3月6日正午頃から始まったが、わずか2時間程で甲陽鎮撫隊は江戸へ敗走することになった。

 

2.5         楽堂

国重要文化財  木造薬師如来及両脇侍像
明治38年4月4日指定
中尊薬師如来像 座高 86.7cm  脇侍日光菩薩像 像高 102.6cm  脇侍月光菩薩像 像高 101.8cm

三体とも桜材の一木造漆箔像で、 密教風を加味した弘仁仏であり、とくに中尊は頭部胴体とも奥行極めて深く、 両肩は肉付き豊かで、 下腹部が突出し、 この緊満した姿態は一木造り特有の量感を示している。

峻鋭な刀法は一段とその姿を引きしめ厳粛の度を加えている。
幅広い豊満な顔面、 切れ長い眉目、鋭く刻まれ締った口唇などに高邁な相好がうかがえる。

刀痕鮮やかな翻波式の衣文は形式化されず、極めて自由な線を表わし、平安初期の雄渾な様風を示している。
両脇侍は中尊と同作であるが、 天衣の衣文はやや規則的に翻波の刀法を反復し、股間にのびやかな渦巻法を施こすなど、 この期の特色を現している。
いずれも台座光背は後補である。
山梨県教育委員会 甲州市教育委員会 JR鉄道文化財団

 

2.6         薬師堂

国宝の薬師堂です。ここにお薬師さまが祀られています、

国宝 大善寺本堂 一棟 付 厨子 一基
昭和30年6月22日指定
真言宗智山派の名刹大善寺の本堂は、 薬師三尊像 (弘仁仏、鎌倉時代、日光、
月光、十二神将 国重要文化財)を安置するので薬師堂とも呼ばれる。
方五間 ( 桁行18.02m 梁間 17.40m) の堂字で、正面は中の三間を両開き桟唐戸、両端を連子窓とし、両側面の前寄り一間と背面中央一間の出入口以外はすべて板壁で、四周に切目縁を回らす。 太い円柱上に豪放な、実肘木つき和様二手先の斗棋を組み、中備に間斗束を置き、軒支輪を付け、二重繁極によって雄大な寄棟造桧皮葺きの屋根を支える。
内部は前から二間通りを外陣、つぎの二間通りの中央三間を内陣とし、その後方と入側の一間通りをそれぞれ後陣及び脇陣とする。内陣には須弥壇を設け、 厨子を置き、本尊を納め、その左右に日光、月光菩薩、 十二神将を配する。
内陣・外陣とも、長大な虹梁を架す技法で中央三間通りの柱を抜き、堂内を広く使えるように配慮されている。 虹梁の上には特色ある繰形付きの花肘木をのせて上部に天井を受ける。 内・外陣の境界は五間とも格子戸 菱組吹寄欄間によって厳しく仕切られるなど、古い密教建築の様風がよく遺されている。
この建物は、執権北条貞時が勅命を奉じ 「弘安九参月十六日」 (内陣背面両隅柱の刻銘) 甲信二か国の棟別銭の喜捨を得て再興した、 中世和様建築の典型を示すものであり、関東最古の遺構でもある。 昭和29年12月解体復元修補が竣工した。
山梨県教育委員会 甲州市教育委員会 JR鉄道文化財団

ここで、「逃げ恥」の撮影が行われたそうです。

 

2.7         見晴らし台からの眺め

武田勝頼主従 投宿の地(大善寺)

全国統一を競った武田信玄亡き後の勝頼は、 織田徳川連合軍の近代装備と物量の前に敗退し、天正十年 (1582) 3月3日、郡内の岩殿城で再興を図ろうと韮崎の新府城を出発し、途中この柏尾山大善寺で戦勝祈願をして、 一夜を明かしました。

しかし、 武田家再興がかなわないと見た家臣の大半は夜半に離散し、 また、 岩殿城主小山田信茂の裏切りに合い、勝頼主従は天目山を目指しましたが、 織田徳川の連合軍に行く手をはばまれ、ついに3月11日、勝頼以下一族と家臣は自決し、新羅三郎義光以来500年続いた甲斐源氏も、ここに滅亡したのであります。

その一部始終を見聞した理慶尼が記した理慶尼記は別に武田滅亡記ともいわれ、尼の住んでいた大善寺に今なお大切に保管されています。

山梨県教育委員会 甲州市教育委員会 JR鉄道文化財団

甲州ぶどう発祥の地 大善寺伝説

養老二年(718) 僧行基が甲斐国を訪れたとき、 勝沼の柏尾にいたり、 日川の渓谷の大岩の上で修行したところ、 満願の日、 夢の中に、 右手にぶどうを持った薬師如来があらわれたといわれています。

行基はその夢を喜び、早速夢の中にあらわれたお姿と同じ薬師如来像を刻んで安置し寺を開山したのが、 今日の柏尾山大善寺であります。

以来、行基は薬園をつくって民衆を救い、 法薬のぶどうのつくり方を村人に教えたので、この地にぶどうが栽培されるようになり、これが甲州ぶどうの始まりだと伝えられています。

大善寺伝説は、仏教渡来とともに大陸から我が国にもたらされたぶどうが、 薬師信仰と結びついて、この地に伝えられたことを指すものとして理解されます。

山梨県教育委員会 甲州市教育委員会 JR鉄道文化財団

 

芭蕉の句碑(でも本当は芭蕉ではないらしい)

勝沼や馬子も葡萄を喰いながら

 

2.8         宝珠石

宝珠石

この石は地下でマグマが石を抱き込みながらできたものです。

小抱き石として多くの方に幸せが訪れます様、椅子の形に作りあげました。

どうぞお座りになって御利益をいただいて下さい。

 

2.9         稚児堂

 

2.10         理慶尼墓

理慶尼墓

桂樹庵理慶尼は、勝沼氏の娘で名は松葉。

永禄三年(一五六〇)兄、勝沼信元が武田信玄により滅ぼされたとき嫁先から離縁され、従者四人をつれ、大善寺の慶紹をたより尼となり千鳥堂の横に庵を結び住し、慶長十六年(一六一一)に没したという。

尼は、天正十年(一五八二)三月新府から逃落ちてきた武田勝頼一行を大善寺に泊め、後にその最後の有り様を情愛を込めまとめた「理慶尼記」が、今も大善寺に、晩年の厄の画像、墓所と共に伝え残されている。

甲州市教育委員会

新選組に係る他の記事は以下

東京街歩き:新選組局長・近藤勇の足跡を訪ねて

東京街歩き:浪士隊結成の場所 伝通院と清川八郎の墓

 

3        マンズワイン

帰りがけにマンズワインに寄りました。

以前は試飲のし放題だったようですが、今回はグラスで購入となって、少々お金がかかりました。

 

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