博覧強記

切支丹屋敷跡と映画「沈黙」の主人公のモデルとなったジュゼッペ・キアラ宣教師の墓碑

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今回は、江戸時代に禁令を犯して入国し、幕府に捕縛された宣教師ジュゼッペ・キアラの足跡を訪ねてみました。

1        切支丹屋敷跡(文京区小日向1-24-8)

切支丹屋敷跡は、江戸時代 改宗した(転んだ)バテレンを収容する施設です。この屋敷には、島原の乱の5年後の寛永20年(1643年)キリシタン禁教令下の日本の九州福岡に潜入したが捕らえられ、江戸に送られて伝馬町の牢に入れられたイタリアの宣教師ジュゼッペ・キアラ、ペトロ・マルクエズら10人が収容されたのが始まりです。

寛政4年(1792)の宗門改役の廃止まで続きました。

捕らえられた宣教師たちには厳しい拷問が行われ、キリスト教を棄教させられました。

棄教と言っても、踏み絵を踏んで、布教活動を一切しない事を誓わされただけですので、心の中のキリスト教信仰はずっと持ち続けていたようです。

スマホのアプリ「大江戸今昔めぐり」で古地図を確認すると、この地図の年代(江戸末期)では既に切支丹屋敷は無くなっています。

ただし、屋敷の東手の坂を下り、現在の地下鉄丸の内線を横切る坂は、切支丹坂の名称が付けられています。

切支丹坂です。坂の先は地下鉄丸ノ内線(この辺りは地上を走っています)をくぐっています。

切支丹屋敷跡です。現在はアパートが建ってます。

記念碑と、拷問にあった信者の八兵衛を生き埋めにして上に置いた石という「夜なき石(八兵衛石)」があります。

2        ジュゼッペ・キアラ宣教師

ジュゼッペ・キアラは遠藤周作の小説「沈黙」の主人公セバスチャン・ロドリゴのモデルになったことでも知られています。

寛永10年(1633年)、イエズス会管区長代行や日本司教代行を兼ねていたポルトガル人フェレイラ神父(1580〜1650)が、長崎で捕縛され穴吊りにかけられて3日後、最初の「転びバテレン」となりました。

このニュースはヨーロッパに伝わり、教会、殊にイエズス会に大衝撃を与えました。

この汚点を洗い、フェレイラを信仰に戻すために10名のイエズス会員が日本へ向かうことになりました。

キアラはその一人でした。

捕縛後、幕命により岡本三右衛門という殉教した下級武士の後家を妻として娶り、そのまま岡本三右衛門の名を受け継ぎました。

彼は43年も屋敷から出ることなく貞享2年(1685年)7月25日に病死し、その遺体が火葬され、小石川無量院に埋葬されました。

2.1         キアラ神父の墓碑(調布市富士見町3-21-12)

キアラの墓地は元々小石川の無量院にありましたが、その後、雑司ヶ谷墓地に移され、更に1943年に練馬のサレジオ神学院に移されました。

1950年サレジオ神学院の移転とともに調布市に移転され現在チマッティ資料館前の庭に安置されています。

墓碑の上部には宣教師の山高帽を模したと思われる笠が設置されています。

墓碑のあるサレジオ神学院です。

事前に電話して確認したところ、構内に入って写真撮影しても良いとのことでした。

チマッティ資料館前の全景です。

2.2         キアラ神父の供養碑 (文京区小石川3-14-6)

無量院と隣接していた小石川伝通院には「ジョセフ岡本三衛門」の名で供養碑が建てられています。

極東の国に、キリスト教を布教するという崇高な志を持って、幾多の試練を乗り越えて入国した日本ですが、待っていたのは厳しい弾圧と、拷問でした。この地で一切のキリスト教の活動を禁止され、狭い敷地に長期間 監禁され死に至った気持ちは忸怩たるものだったでしょう。

そういった故人の気持ちを慰めるために、現在の碑があり、訪れる私たちに弔いの気持ちと歴史を教えてくれています。

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