対馬のほぼ中央に位置する浅茅湾(あそうわん)はリアス式海岸で、海岸線と湾の中に浮かぶ小島群は風光明媚な美しい湾です。
朝鮮半島と九州の間に浮かぶこの島はよく見ないと長細い島でしかありませんが、地図を拡大して、よく見ると複雑に入り組んだ地形となっていることがわかります。
目次
1 浅茅湾クルーズ
出発は長坂浦港からで、東にある万関橋まで浅茅湾を往復して元の場所に戻ります。
パールプリンセス号で出発します。
マグロの養殖場です。
マグロの養殖で有名な近畿大学は、人工ふ化した仔魚を親魚まで育てますが、ここでは対馬海流で育ったクロマグロの稚魚を釣って丸い生け簀に放流しています。
折り返し地点の万関橋の下を通ります。あとで地上からもこの橋の見学がありました。
この辺りが真珠養殖場です。
2 小船越
小船越は、遣隋使や遣唐使(飛鳥時代~平安時代)のルートと考えられています。
昔、日本から中国へ向かう船は、直接、大洋に漕ぎ出さないで、沿岸を伝って進みました。
朝鮮半島の沿岸に至る途中のルート上に対馬がありました。
ここは、むかし船を陸揚げして対岸へ渡った名残のある所で、遣隋使、遣唐使や遣新羅使もそれらの船越を越えて往来したと言われています。
東側に接岸した船は、陸に上げて200mを運び西の浅茅湾に運ばれました。
ながさき旅ネットさんの写真を使わせていただきました。
海岸線に露出した岩は対馬層群と呼ばれるミルフィーユ状の堆積岩です。
3 大船越
小船越同様、昔は船が陸を越していたということです。
対馬3代藩主 宗義真が開削を計画し、延べ3万5千人の労働力を投入して約半年後の1671年(寛文12年)に対馬の西岸と東岸を結ぶ運河を竣工しました。
その後も拡張工事が行われ長さ262m、巾21.8m ~ 49mという規模へ拡大されました。
バスの窓から撮影した大船越橋から北の風景です。
3 万関橋
1900年(明治33年)には約2km北方に旧日本海軍が艦船を通すために掘った人口の水道である万関水道があり、大型船は万関水道をとおり、大船越は主に漁港として用いられています。
橋の東側
橋の西側は浅茅湾。
対馬の石屋根の休憩場です。
4 金田城
唐・新羅の連合軍により攻められた百済を救援する為に送られた倭国の兵は、663年に朝鮮半島西岸の白村江で大敗しました。
倭国は西日本各地に古代山城(朝鮮式山城)を築き、唐・新羅の侵攻に備えました。
667年、浅茅湾南岸に突き出した「城山」(じょうやま)に「金田城」(かなたのき)が築かれ、東国から召集された防人たちが城山山頂から何年もやってこない朝鮮半島からの兵をを睨み続けたといいます。
対馬市の写真を使わせていただいています。
5 対馬の石屋根
対馬の一部では昔は、農家の倉庫の屋根に石(頁岩)を使用していました。
これは、屋根にするのに便利な板状の石が容易に手に入る地理的な要因が大きとのことです。
万関橋近くの公園の休憩場です。
対馬やまねこ空港近くの石屋根です。
ここは昔ながらの倉庫の様子が残されています。