史跡

壱岐⑤名勝地 小島神社・左京鼻・はらほげ地蔵・砲台跡・猿岩・岳の辻

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壱岐島は低い丘陵性の地形をもち、その地質は大部分が火成岩の玄武岩類によって構成されています。

海岸線は陥没や浸食でできた名勝地も多く、ここに壱岐名勝地の 小島神社・左京鼻・はらほげ地蔵・砲台跡・猿岩・岳の辻を一挙公開します。

ツアーに使ったバスはこれです。

1        小島神社

小島神社は日本のモンサンミッシェルと呼ばれているそうです。

盛り過ぎ感はありますが、干潮時のみ島にある神社に徒歩で渡ることができます。

陸繋砂州(トンボロ)というやつですね。

訪れた時は、丁度道が隠れた時間帯でした。

干潮の時間は分かっているので、その時間に合わせて欲しかったです。

島に渡れない参拝者用に手前に小さな小さな鳥居が置いてあります。

江戸時代末期の地図では、小島と前小島がありましたが、小島は陸地に飲み込まれ、現在は昔の前小島と呼ばれていた島が小島と呼ばれています。

内海湾(うちめわん)

長崎県壱岐市芦辺町

内海湾は、「一支国」の王都・原の辻を訪れる古代船が往来した玄関口です。

内海湾に入港した古代船は、小舟に荷物を積み替えて、 幡鉾川を通って原の辻へと向かったものと思われます。

江戸時代末期の1861 (文久元)年に書かれた 「壱岐名勝図誌」にも内海湾の様子が挿絵で描かれており、内海湾に多くの船が往来していたことが記録として残っています。

また、湾内には、神が宿る島として崇められてきた小島があり、満潮時には参道が海中に沈み、干潮になると海が割れて参道が海中から姿を現します。 島のほぼ中央に小島神社があり、恋愛成就、 商売繁盛、五穀豊穣、 航海安全などの願い事が叶う御祭神が祀られています。

限られた時間にしか参詣ができない神社として人を魅了するパワースポットとなっています。

干潮時の様子は下記の写真の通りとなります。

2        左京鼻

左京鼻の由来

江戸時代の初頃 大旱魃(かんばつ)に襲われ田畑の作物は枯死に瀕し人々は生活に苦しんだ。

陰陽師の後藤左京と龍蔵寺五世日峰和尚の二人は農民の要望にこたえて、雨乞いの祈祷を受託し身命を賭して人々の救済を誓った。

雲一つない毎日であるが一心不乱に天に祈り地に伏した。

だが雨は降らず満願の日がきた。

座禅をしている和尚の周りに積まれた干把の麦わらに火が点じられた紅蓮の炎の姿を包み又左京は岬の断崖から身を投じようと席を立って構えるや否や車軸を流すような豪雨となって山野を潤した。

左京鼻のいわれは切り立った石があるので「石橋(しゃっきょう)」から出た言葉ともされるが雨乞いをした後藤左京の名であるとも伝えられている。
壱岐市教育委員会

 

石橋(しゃっきょう)は能の作品の一つで、文殊菩薩のいる浄土へ向かう細く長く人が容易に渡ることのできない石橋にかかわる作品です。

観音柱と呼ばれる柱状節理の岩礁です。

左京鼻龍神神社

3        はらほげ地蔵

日本遺産

日本遺産 国境の島 壱岐・対馬・五島 -古代からの架け橋-

内海湾 はらほげ地蔵

地蔵のお腹の部分にまるい穴があいてるので、「はらほげ地蔵」と呼ばれている。

干潮時には、近くで地蔵を拝むことができるが満潮時には、地蔵の胸の部分まで海中に隠れるので、 陸上からしか拝むことができない。

何時、誰によって安置されたかは不明であるが、干潮時にお腹の部分にお供え物を入れ、再び干潮になる時、お腹に入れたお供え物が海中に運ばれる際に祈りを捧げたのが始まりと云われている。

遭難した海女の冥福を祈るため、 又は捕獲したクジラを供養するため、あるいは、体内の病気を洗い流すためなど信仰の対象は様々であるが、現在でも春秋彼岸明けとお盆の8月15日には各戸が参詣し、又、旧暦の10月24日に浦中行事として八幡浦全体の安泰、海上安全、 大漁満足を祈願して地元の人々によって供養が行われ、大切に守られている。

令和2年11月30日

壱岐市教育委員会

4        塞神社(さえのかみしゃ)

郷ノ浦港の近くにあります。

入口に建てられた一物を見るだけで、何の神様か分かってしまいますね。

塞神社由来

生まれ、生き、そして土への回帰。

永却の輪廻の中で人間はなお、生への執着から性に祈る。

神代の昔、天の石屋戸の裸踊りで知られる女神・天宇受売命(あめのうずめのみこと)は、後に異形の男神・猿田毘古神(さるたひこ)と結ばれ、猿女君(さるめのきみ)として以来一体の神となった。

元来猿田彦が庚神様となり、防寒(疫神の防障道路主護)の神として信仰されたが、この地の神はいついつ頃より祀られたか定かではない。

はっきりしているのは現在田河深江字下ルに奉られていた塞神を、天保年間この地下ル町に奉遷宮して町の氏神としたことである。

本殿には女石が祀られているが、 これは女神猿女命をあらわし、昔から本町元居浦の八坂神社の男神は毎年祇園祭典に必らず来興し神楽も奉納される。

女神であることから良縁、安産、夫婦和合、性の病、子供の守護、に霊験あらたかと言われているが本来道の神であるため交通安全を祈る人も多く明治末期までは壱岐島に上陸した男達は男根を女神に見せないと怪我をするといってこの塞神社に一物の御照覧を願ったもので、近年は島以外の間でもとみに知られ、何を祈るか丑満に女性の詣りが多い。

「塞神の由来と霊験」

遥か昔、天と地の力から生物が生じ雄と雌、男と女があるように、太陽と月を含め陰と陽の定まりが存在しています。

日本の神話では、天照大神が天の岩屋に隠れられた時に、天宇受売命(あめのうずめのみこと)が胸乳と陰部をあらわに踊ったことは「古事記」にも残っています。

その命が天孫降臨の際に、猿田毘古命(さるたひこのみこと)を性的魅力で誘い猿女命(さるめのみこと)として一対一の神となりいつしか道祖神または塞の神(性神)として崇拝されるようになったのです。

ここの社の石像の御神体は、おかめ(又はお福)の姿として猿女命をあらわしています。

左手で松茸(陰陽の陽を示し、右手の拇指(おやゆび)でほのかに、陰をあらわし人の幸福と健康への霊力を示しています。

また縁結び、子宝、安産、そして夫婦和合、性の病、子供の守護神(まもりしん)、交通安全等霊験あらたかな神様です。

お身体の具合の悪い所と、ご神体の同じ所を手でなぞらへて早くよくなるよう、また御家族の無病息祈願下さい。

※尚 落書きをしたり、傷つけたりしないことお咎めを受け神罰があたり大変なことになります。

 

本堂の中も金色の??が。

5        鬼凧(おんだこ)

鬼凧(おんだこ) の由来

---昭和橋親柱---

むかし、壱岐の島は 「鬼ヶ島」とよばれ、たくさんの鬼が住んでいたと言い伝えられています。

今でも 「鬼の岩屋」、 「鬼の足跡」など鬼のついた名所旧跡が残っています。

壱岐の代表的伝統民芸品「鬼凧」は、上部に鬼の顔を、下部に兜をつけた武者を描いた凧です。

壱岐に鬼退治に来た 「百合若大臣」(ゆりわかだいじん)が、鬼の首領の首をはねたところ首が舞い上がり落下して百合若大臣の兜にかみついて、息絶えたということです。

壱岐では、例年旧暦の3月3日の「節句」の頃に「花ちらし」といって、家族で小高い丘にのぼり 「鬼凧とばし」をし、 ごちそうを食べて楽しむ習慣があります。

特に、子供を出産した家庭では、 無事に成長することを祈って、 必ず鬼凧とばしに参加しました。

玄界灘の大空にたくさんの鬼凧が飛び交い、目をいからし、尻尾をふってうなりあっている光景は実に壮観です。

 

 

鬼退治と「百合若大臣」の像です。

6        黒崎園地

6.1         砲台跡

昭和3年8月から5年間の歳月をかけて、長門型戦艦・土佐の主砲2門(日径41センチ・全長18.8メートル)を、この黒崎半島先端に築きました。

以後試験・訓練射撃は行われてきましたが敗戦まで一度も実戦に使われることなく、昭和25年8月、米軍の指令により、 解体撤去・ 鉄屑として製鉄所入りしました。

概要

この要さいは、戦艦土佐の40センチ主砲を取りつけて造られた。

砲身の全長      18m

砲身1本の重さ150 th

砲の口径       40cm

弾丸の直径     40cm

弾丸の重量   1000kg

射程距離       35km

 

下から砲台跡に向かいます。

入口を潜ります。

光の差しているところが砲台の真下となります。

崩落の危険があるためここから先は立ち入り禁止です。

上から見るとこんな感じ。

 

6.2         猿岩

この方向から見ると、キングコングに見えますね。

しかし、少し回り込むと、単なる岩になります。

猿岩は自然が作り出した偶然です。

そして、その偶然を観光の目玉にしたのは人の必然です。

7        岳の辻(たけのつじ)

壱岐島最高峰 (212.8メートル)の山です。

岳の辻(たけのつじ)

長崎県壱岐市郷ノ浦町

壱岐島最高峰 (212.8メートル)の山で、山頂からは島全体を見渡せ、天気がいい日には九州本土や対馬島を眺望することができます。

岳の辻は古代より烽火台や遠見番所が設置され、国防の要衝として重要な役割を果たしてきたことが文献史料に記されています。

山頂には、 1889(明治22) 年5月に海軍水路部によって設置された 「緯度測定標」 があります。

当時設置された緯度測定標のうち現存するのは、岳の辻にある石標とここから眺望できる馬渡島(まだらじま) [佐賀県唐津市〕 の番所の辻にある石標の2箇所だけであり、石標に刻まれた設置年の銘から岳の辻の石標が国内で最も古い事例であることがわかります。

 

664(天智 3)年に唐・新羅の来襲に備えて防人(さきもり)と烽(とぶひ)が設置され、岳ノ辻山頂に「のろし台」が置かれ、対馬と九州本土との緊急連絡の山として利用されました。

復元された「のろし台」が下の写真です。

 

山頂の展望台です。

展望台から、郷ノ浦を見たパノラマです。

8        麦焼酎

壱岐は「麦焼酎発祥の地」と言われています。

帰りには、何本か焼酎を買ってかえりましたが、どれも美味しかったです。

下の写真は対馬で買った分も入ってますが、今回の旅行で買ったお土産です。

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