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壱岐④ 魏志倭人伝に関連する壱岐の遺物を保存する壱岐市立一支国博物館

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壱岐島には、原の辻遺跡をはじめ多くの歴史遺産があります。

これらの遺産と、遺産から出た遺物を総合的に保全、研究し、かつ地域振興の拠点として原の辻遺跡を南西に望む丘陵地に平成22年3月(2010年)壱岐市立一支国博物館が開館されました。

建物は、中銀カプセルタワービルや国立新美術館を手掛けた建築家・黒川紀章 最後の作品になります。

国立新美術館のように全体に曲線を使った外観が目を引きます。

ガウディっぽさが感じられます。建築会社の人たちも苦労したことでしょう。

展望台の南西方向からは、原の辻遺跡が一望できます。

原の辻遺跡から見た一支国博物館は こちらのブログ

北東方向は、海(内海湾・うちめわん)が見えます。

内海湾は、原の辻を往来する古代船が往来した交易港でした。

エントランスには、壱岐伝統の絵凧・壱州鬼凧(いしゅうおんだこ)が飾られていました。

入場して正面の階段を登ると映像コーナーに。

壁面には魏志倭人伝の壱岐に関するくだりがハイライトされています。

該当部分は、

【原文】

又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。

 

【現代語訳】

(対馬国を出発して)また南に一海を渡ること千余里で一大国に到着する。この海は瀚海と名付けられている。この国の大官もまた卑狗(ひこ)、次官を卑奴母離(ひなもり)という。広さ三百里平方ばかり、竹木、叢林が多く、三千ばかりの家がある。ここはやや田地があるが、水田を耕しても食料とするには足らず、やはり南や北と交易して暮らしている。

※一支国(いきこく、魏志倭人伝では「一大国」と記載)

 

鉄素材を入手し、鍛冶によって新たな鉄製品を作り出していた痕跡です。

カラカミ遺跡には鍛冶工房があったと考えられています。

原の辻遺跡と共に栄えた弥生時代 〔今から約2000年前〕 の環濠集落跡で、 遺跡内からは、国内最古の事例となる鉄製品を生産・加工するための地上につくられた炉跡やイエネコの骨が発見されています。

カラカミ遺跡では、 交易を通じて様々な鉄製品や鉄素材を入手し、国内各地に鉄製品を供給する中継基地としてだけでなく、弥生時代を代表する鉄器生産の鍛冶工房 (かじこうぼう) と技術者を有し、東アジア交易において重要な役割を果たしていた当時の様相をうかがい知ることができます。

 

天ヶ原遺跡出土の中広銅矛

祭祀(まつり)に使われた武器型祭器

実用品の武器類の中には、 大型化して祭器となったものもあります。 この中広形

銅矛は、矛が大型化したもので、棒の先端に矛を取り付けることはできるものの、矛が重いため実用品としては使うことができません。 この矛は祭祀の時に武器形祭器の象徴として用いられたものと考えられます。

 

祖霊信仰の「鬼道」(鬼道崇拝)を物語る人面石

魏志倭人伝によると、邪馬台国の卑弥呼は、鬼道によって人心を掌握していたとされています。

「国内唯一! 原の辻遺跡出土 人面石 弥生時代後期(約2000-1700年前)

人の顔を模した石製の人面石は、国内唯一の発見例で、凝灰岩で製作されており、両眼は彫り込んで表現し、口は裏まで貫通させ、眼の間には鼻が、眼の上には眉が彫られ、頬は凹みで表現しています。

宗教が存在しない弥生社会において、先祖の霊や陸や海を司る霊などが信仰の対象だったものと思われます。 人面石は、 祖霊を祀(まつ)る儀式や豊作・豊漁を祈願する祭祀(さいし)などの場において、シンボル的な祭器として用いられた可能性が考えられています。

人面石は壱岐のキャラクターとして、活躍しています。

何か事を起こしたり旅行をしたりする際に行った骨占いの「卜骨」

鹿の肩胛骨を焼きそのひび割れを見て吉凶を占う卜占(ぼくせん)という古代における一種の科学を含んだ日本神道は、壱岐・対馬から始まっています。

動物の骨を焼く占は、古代の北アジアの諸民族の一般の習慣で、それが朝鮮からやって来ました。

卜部は対馬・壱岐人でないとだめだという時期が日本の上代、相当長い間に渡って続いていました。

この時代は本土に対して最も華やかな位置を占めた時代でした。

卜占という技術によって天の意思を知り、地上の王者以下に対してその運命を教えることができます。

優れた者は京都に招き神祇官の役人に登用しています。

 

 

鏡は墓の副葬品として埋められたものと考えられます。

銅鏃は、戦いの武器としてだけでなく、日常生活の中で使用したり、 祭祀の場で祭器として用いていました。

当時の舟を復元したものです。

これで、大洋に出ていたのかしら? だとしたら相当やばい。

古代集落のジオラマ詳細は下記に掲載

壱岐③『魏志倭人伝』に登場する「一支国」(いきこく)の王都・原の辻遺跡

 

オープン収蔵庫

ここから見えるオープン収蔵庫には、長崎県内から発掘された多くの出土品が保管されています。

収蔵庫の壁一面をガラス張りにしたこのエリアを利用して、 長崎県内の出土品や資料を展示紹介しています。

バックヤードツアーは参加してみたかったです。

ここから先は、郷ノ浦ターミナルの展示パネルです。

「魏志』倭人伝の内容と一支国の歴史を比較してみよう

一支国の戦い・守り

~兵器には、 矛・楯・木弓を用い、 竹の先の先には、鉄鏃や骨を用いる〜

原の辻集落では、低地を中心に数多くの武器や防具が発見されています。

短甲と呼ばれる組み合わせ式の防具の表面には、黒漆が塗られています。 また、身を守る循は赤色顔料が塗られ、 等間隔に紐を通す孔が穿(あ)けられています。

他にも弓や矢の先に装着する鏃(やじり)もたくさん発見されています。

原の辻集落では、たくさんの武器や防具が発見されていますが、 これまでの発掘調査において、 "戦い (実戦)”を示す痕跡は確認されていません。

しかし、万が一の有事に備え、一支国を守る準備だけは整えていたものと思われます。

中国の史書には、後漢の桓帝 霊帝時代 (147~189年間)に倭国大乱(倭国内で争いが起き、 国内が乱れている) の記載があることから、 弥生時代後期 (今から約2000年前~1700年前] における国内の主権争いの中で、一支国もその主権争いに巻き込まれていたことを物語っているのかもしれません。

このことを裏付ける資料として、1つの遺跡では国内最多の本数を誇る銅鏃(どうぞく:青銅製の鏃)があります。

その銅鏃は原の辻集落だけで160本を超えています。

鋼は石鏃や骨などと比べ鋭利な仕上がりとなるため、殺傷能力が高いことから、武器として重宝されたものと思われます。

160本を超える銅鏃の中には紐が巻き付いたものや埋納土坑に銅が並べられた状態で発見されている例もあることから、戦いの武器としてだけでなく、日常生活の中で使用したり、 祭祀の場で祭器として鋼を用いていたことがわかっています。

 

一支国のファッション

~男子は頭に冠をかぶらず、 木綿の布を頭に巻き、衣は幅広い布をただ結び束ねて身に付けている。

婦人はお下げや髷を結ったりして、衣は単衣のようにし、真中に穴を穿け、 頭を通して着ている〜

原の辻集落では、衣類をつくるために必要な道具が発見されています。

原の辻遺跡で発見された機具は、長さが62センチしかなく、両側に10センチ程度の機織機に固定するための凸状の突起部が両側に設けられているため、この機具を使ってできる織物は最大で幅30センチ程度だったと思われます。

この機織具を使って貫頭衣を製作する場合、機織機を使って編んだ布状の織物2枚を縫い併せて、 1着の貫頭衣に仕上げたことが想定されます。

他にも糸を防ぐための防車もたくさん発見されています。

原の辻遺跡で発見された石製だけでなく、 土製や骨製などさまざま素材を加工して製作されているのが特徴です。

階層を区別する1つの威信材として、体に身に付ける装身具 (アクセサリー) があります。 ガラス製の蜻蛉玉(とんぼだま)をはじめ、 勾玉や管玉、ガラス製の大玉や小玉などを用いた首飾り [ネックレス]や有鈎銅釧(ゆうこうどうくろ) と呼ばれる青銅製の腕輪[ブレスレット]などが発見されています。

これらの装身具(アクセサリー) は、甕棺墓や石棺墓といったお墓に副葬品として納められていました。

 

「魏志』倭人伝の内容と一支国の歴史を比較してみよう

一支国の漁撈(ぎょろう: 事業として水産物をとること)文化

~倭の水人は海中に潜って魚や蛤を捕え、体には入れ墨を施し、 大魚や水鳥から身を守る~

原の辻集落で生活する弥生人は、 農耕を行い、 森の産物を採集するだけでなく、その立地的環境を活かし、漁撈も行い、 海の幸も積極的に獲っていました。

「魏志倭人伝」には、 対馬国では 「海産物を食べて自活し、足りない分は交易によって補っている」 という記載があり、末盧國(まつらこく)国では「魚や鰻を獲るのが得意で、海の深さに関係なく潜って漁を行っている」 といった"優の水人"」に関する情報が記されています。 また、倭の水人の特徴とも云える 「鯨面文身」の4文字が示すとおり、顔や体に入れ墨を施していたことも 「魏志 倭人伝から読み取ることができます。 しかし、 本来は大魚や水鳥から身を守るために水人が入れていた入れ墨も時間の経過とともに本来の目的を失い、 ファッションとして体の一部に入れ墨をしたり、階層の差を示す1つのボディサインとして入れ墨をするようになっていたと書いてあります。

原の辻遺跡からはつり竿に取り付ける釣針、魚を突くための銛、網に重りとして取り付ける石錘(せきすい)、アワビを取るためのアワビおこしなどの漁撈具類や海で獲ったアワビやサザエなどの貝類、 クジラやマグロなどの骨が発見されていることから、 積極的に海に出て漁撈を行っていた一支国の水人の姿を窺い知ることができます。

また、 アワビおこしや銛などの漁撈具だけでなく祭器として使用された骨剣や生産具として使われた骨製紡錘車などにもクジラの骨が用いられている点も壱岐の漁撈文化の特徴と云えます。 漁撈以外でも海を知り尽くした一支国の水人は、 朝鮮半島と日本本土の橋渡し役として重要な役割を果たし、 対外交流の場でも活躍したものと思われます。

 

一支国の農耕文化

~田地を耕し、 耕作を行っているが、 みんなが食べるだけの量に足りない~

原の辻集落が広がる平野 深江田原は、 長崎県では諫早平野に続き、2番目に広い平野です。 現在でも、 原の辻遺跡周辺には圃場整備された水田が広がっており、弥生時代の一支国の面影を窺い知ることができます。

一支国の様子が書き記された 「魏志倭人伝」にも 「一支国内には、 稲作に適した田地があり、 田地を耕し、 耕作を行っているが、 みんなが食べるだけの量に足りない。」 という情報が記載されています。

この記載から、 当時の一支国には、収穫した量よりも多くのコメを一支国内で消費していた、 もしくは収穫したコメも物々交換の対象として市〔バザール) に出荷していた可能性が考えられます。

原の辻集落では、居住域のある丘陵の西側低地から水田跡が確認され、 水田を区切る畦畔(けいはん)や土留めに用いられた矢板などが発見されています。

また、一支国の農耕文化の特徴として、 コメ以外にムギの種子も発見されていることから、 ムギも積極的に耕作していたことがわかります。

そのことを裏付ける資料として、 石庖丁と同じくらいの数の石鏃や鉄鎌が発見されています。

ムギは竪穴住居の屋根に葺かれた茅が抜けた場合の簡易補修に利用できるため、 石鎌や鉄鎌を使って根元から収穫していたものと思われます。

他にも臼、縦杵、横槌、エブリ、鋤、鍬などの木製農耕具も多数発見されています。

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