史跡

徳川慶喜の住んだ駿府(静岡)の旧居跡探訪

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大政奉還後、江戸から駿府(静岡市)に移り住んだ徳川慶喜は、二代将軍・徳川秀忠の母親の菩提寺である宝台院で謹慎生活を送りました。

明治2年(1869年)の9月に謹慎が解けるとその翌月、かつて代官屋敷だった現在の高級料亭・浮月楼のある場所に移り住み、以後20年の歳月を過ごしました。

その間、慶喜は狩猟や油絵、写真撮影、自転車などさまざまな趣味に没頭しました。

町の人々は、かつての将軍を「ケイキさん(さま)」と親しみを込めて呼んだということです。

今回は、浮月楼と宝台院のレポートです。

1        浮月楼

静岡市の浮月楼は、最後の将軍「徳川慶喜」が明治維新後の1869年(明治2年)から1888年(明治21年)までの約20年間居住していた屋敷跡です。

もともとの敷地は、4500坪以上ありましたが、区画整理のため現在は半分以下になっています。

慶喜退去後は戸帳役場として使われましたが、1891年には料亭・浮月亭が開業し、現在に至っています。

将棋のタイトル戦のひとつの名人戦で、名人への挑戦者を決めるA級順位戦最終局は毎年この浮月楼で開催されます。

今年2023年も3月1,2日に藤井 聡太や豊島 将之をはじめとした錚々たるメンバー参加の下、開催されました。

 

浮月楼の正面玄関

浮月楼由緒

この地は、徳川幕府の代官屋敷であった。明治元年八月前将軍徳川慶喜公は、謹慎の御身を水戸からここ駿府に移され、常磐町の宝台院に暫く閑居の後、翌二年十月この地に手を入れて遷居された。

庭園は平安神宮を手がけた小川治兵衛の作庭による池泉回遊式として有数のものである。慶喜公はここに二十年の間住まわれ、自転車、写真撮影、油絵、狩猟などと多彩な趣味を楽しまれたようだ。

明治二十年になると、東海道線がこの近くを通ることになり、その喧騒を避けて同二十一年六月、市内西草深の新邸に転居された。

その後この地は戸帳役場の共有となったが、名蹟保存を条件に市内有力者有志により庭も建物もそのままに料亭「浮月亭」として開業、伊藤博文公など元勲方の御愛顧を辱うした。残念乍ら昭和十五年の静岡大火等で建物は全焼したが、庭園の行いはほぼ元通りに復旧され、「浮月楼」として百年余の歴史を持つ。

春はさくら、夏は青葉、秋の紅葉など、街の只中で野鳥の声を聞き乍ら懐石料理を楽しめる。又、懐石料理での御披露宴にも利用でき、好評を頂いている。

県都静岡市の社交場として益々御愛顧下されたくお願い申し上げます。

こちらは西側にある入り口。

A級順位戦最終局に向けて工事中でした。

お庭です。見学は基本、浮月楼利用者のみです。

 

2        金米山宝台院

浮月楼から200~300m南西にあります。

鉄筋造りの建物で、外観はあまり由緒のある寺には見えません。

1940年(昭和15年)1月15日の静岡大火で旧国宝の本堂が焼失したとのことです。

宝台院

(金米山宝台院)

宝台院は、徳川家康の側室で二代将軍秀忠の生母西郷の局(さいごうのつぼね・お愛の方)の菩提寺である。

西郷の局は、二十七歳で家康に仕え、翌天正七年(一五七九年)四月、家康の第三子秀忠を生んだ。家康三十八歳のときである。

このころ、家康にとっては、浜松城にあって、三方原の合戦、設楽原合戦、小牧長久手の合戦と、戦争に明け暮れた最も苦難な時代であった。

西郷の局は、家康の浜松城時代に仕え、苦しい浜松城の台所を仕切った文字どおり糟糠の妻(そうこうのつま)であったということができる。

天正十四年十二月、西郷の局は、長かった苦難の返松時代を終え、名実共に東海一の実力者となった家康と共に駿府入りした。

家康の陰の立て役者として、献身的に仕えた西郷の局は、駿府入りとともに浜松時代の疲れが出て、天正十七年五月、三十八歳の短い生涯を終った。

後年、将軍職についた秀忠は、母のために盛大な法要を営み、その霊をなぐさめた。

以来、徳川三百年の間、この宝台院は、徳川家の厚い保護を受けたのである。

寺宝 白本尊如来像(重要文化財)ほか多数

 

西郷の局(お愛の方)のお墓

宝台院と徳川慶喜公

明治元年七月、第十五代将軍慶喜公、御近親の身となり、同年十九日水戸を出発して銚子港に到着し、同月二十一日蟠龍艦に乗船し、同月二十三日に清水港に到着しました。

海路にて移動したのは、上野彰義隊の戦いの興奮も冷めない江戸を通ることが極めて危険な事だったからでしょう。

この時目付の中台信太朗(のち駿府藩町奉行)がこれを出迎え、また精鋭隊頭松岡万以下五十名の厳重な護衛がついて駿府に向かいました。

慶喜公が討幕派、旧幕臣の双方から命を狙われる重要人物であった事情に加えて、無政府状態とも言うべき当時の駿府の町の状況がこのような物々しい警戒態勢を必要としていました。

一行は当日夕刻には宝台院に入りましたが、慶喜公の駿河移住は秘密裏に行なはれ町民には一切知らされていませんでした。

慶喜公の駿府入りが町触れで知らされたのは、その五日後の二十八日のことでした。

尚、宝台院を慶喜公謹慎の場所に選んだのは元若年寄大久保一翁でした。

彼は駿府町奉行の経験もあって、この街を熟知しており、徳川第三将軍秀忠公の生母西郷局が葬られた宝台院こそ慶喜公が落ち着いて過ごせる場所と考えたのでしょう。

以来、誠心誠意謹慎をされ翌明治二年九月二十八日、謹慎が解け十月五日紺屋町の元代官屋敷(現在の浮月楼)に移転されるまで、約一年余りを当山で起居されました。

この謹慎の部屋は十畳と六畳の二室で、十畳の間を居間、六畳の間を次の間として使用し、当時渋沢栄一や勝海舟と面会されたのもこの六畳間でした。

明治元年八月十五日、藩主亀之助(家達公)が駿府に到着した時も、先ず宝台院に参上し、御霊屋に参礼の後、対面したという事です。

家達公は七間町三丁目を曲がり、御輿で大手門より入場されましたが、当時まだ十三才というお年でした。

現在の宝台院には、慶喜公の遺品として、キセル、カミソリ箱、急須、火鉢、本人直筆の掛軸、居間安置の観音像が残っております。   静岡市

東京の慶喜邸のレポートはこちら

東京街歩き:徳川慶喜公屋敷跡

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