史跡

家康を苦しめた三河一向一揆の拠点・愛知県安城市の本證寺(ほんしょうじ)

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愛知県安城市の本證寺は、上宮寺(じょうぐうじ)、勝鬘寺(しょうまんじ)と並んで三河触頭(ふれがしら)三ヶ寺として知られています。

触頭とは、江戸時代に江戸幕府や藩の寺社奉行の下で宗派ごとに任命された特定の寺院のことです。

また、戦国時代には三河一向一揆の拠点となりました。

永禄6年(1563)、当時岡崎城主であった松平家康(のちの徳川家康)22歳の秋、現在の岡崎を中心とする西三河で一向一揆が起こりました。

事の発端は、寺の土地で取れた米は年貢として領主に収めなくても良いという守護不入の既得権を家康が破り、年貢の徴収を始めたからです。

一向宗(真宗)の三河三ケ寺といわれる「上宮寺」「本證寺」「勝鬘寺」及び土呂の「本宗寺」が拠点となり始まった三河一向一揆は、収拾までに約半年間かかりました。

「どうする家康」での本證寺の演出

武家が庇護していた浄土宗に対して、一向宗はいわば“大衆を救うための仏教 ” のイメージです。

当時の岡崎は商業がほとんど発達していなかったため、今でいうフリーマーケットのような “市” が開かれることはあまりありませんでした。

そんな中で市を毎日開いている本證寺は、岡崎一にぎやかな繁華街といえます。

「第7回 「わしの家」 で家康たちが潜入した本證寺は、 当時の一帯が沼地だらけだったことをベースにファンタジックに描いています。

霧のたちこめる沼と、蓮の池に囲まれた中に浮かぶ 娯楽施設。

他の世界とは完全に隔離されたユートピアです。

それは一般大衆のためであると同時に、何かしらの理由で自分の故郷に居られなくなった人たちの逃げ場でもあり、そこだけ治外法権のようなところとして描ければいいなと思いました。

またこれまでの大河ドラマでは、一向宗は武装水準が低く、農民一揆のように描かれることが多かったのですが、今回はそういう描き方をしていません。

武器も竹や桑などの農具とかいう表現ではなく刀も鉄砲も持ちます。

一向一揆の際に家康の家臣たちもどちらに付くか迷ってしまうほど、この中で生きている人たちの、非常に人間らしく生き生きとしたさまを表現しています。

実際に多くの家臣が本證寺側に味につくことで家康は大変な苦労をします。

家康の家臣団からも、本田正信や夏目広次が一揆側に加担しました。

門の左右には、寺には珍しい堀があります。

下の写真の中央には櫓があります。

寺の周囲は堀で囲まれていました。

国指定史跡 本證寺境内

證寺略史

本證寺は真宗大谷派の寺院で、山号を雲龍山といいます。

鎌倉時代後期 (13世紀末ころ)に、 慶円によって開かれました。

寺伝によれば、 慶円が新たな布教の土地を求めて矢を放ち、この地に落下したとされます。

15 世紀後半には、 本願寺の蓮如の教化によって浄土真宗の高田派から本願寺派(いわゆる一向宗) に転じました。

このころから、 三河地方における本願寺派寺院の組織化が進み、後に上宮寺、 勝鬘寺 (いずれも岡崎市) とともに三河三か寺と呼ばれます。 そして16世紀の前半になると、二重の堀と土塁が築かれました。

これにより、 城郭寺院とも呼ばれています。

永禄6年(1563) 三河一向一揆では、 本證寺は他の三河三か寺とともに領主の徳川家康と争いました。

いったんは和議が結ばれますが、 家康から一方的に出された改宗命令を拒否したため、 坊主衆は領国から追放となり、建物も破却されたと伝えられます。

本證寺 10代の空誓(くうせい)も、 賀茂郡菅田輪(現豊田市) に逃れました。

「どうする家康」では空誓上人は歌舞伎の市川右團次(いちかわうだんじ)が演じました。

一揆の罪が赦免されたのは、約20年後のことです。

天正13年 (1585) の徳川家康黒印状では、本證寺は施設である 「道場屋敷」 の保証と、寺に属した「家来三十間」 (家来 = 外堀に囲まれた 「寺内」 の住人) の租税の免除が認められています。

江戸時代には、 三河三か寺は本山 中本山 末寺という本末制度のなかで中本山の地位を与えられ、 末寺のとりまとめ役を担いました。

また、 本證寺は領主や寺社奉行と配下の寺院とをつなぐ三河国の触頭(ふれがしら)としての役割をあわせ持ち、幕末には 200 か寺余の末寺を有する大寺となりました。

今日の本證寺の寺観は、 江戸時代を通じて順次整えられています。

現存する建造物のうち最も古く再建されたのは本堂で、以後、鐘楼、裏門、鼓楼、 経蔵、庫裏の順となります。

そして、江戸時代後期には、かつての外堀の位置が掘削され、 再整備が行われました。

また、大名家と関係を持っていたことも特徴です。

近江国水口藩(現滋賀県甲賀市) の加藤家は、 本證寺の檀家であったことから、 宝暦 11 年 (1761) に藩主の加尊を納める宮殿を寄進しています。

明治時代になると、本末制度は廃止されますが、 今日まで多くの寺宝を伝え、 堀や土塁、 建造物群が残されています。

本證寺の建造物群

・本堂 (愛知県指定文化財)

一揆から 100 年後の寛文3年(1663) に再建されました。

地方の真宗寺院本堂としては比較的大型になります。

欄干の擬宝珠(ぎぼし)には、寄進者の名が刻まれています。

・鐘楼 (安城市指定文化財)

大寺院特有の脇柱を持ち、元禄 16 年 (1703) に建立されました。

牛久保 (現豊川市) の堂宮大工棟梁 岡田五左衛門が関わっています。

龍、獅子、麒麟、 虎などの彫刻も秀逸です。 庫裏

・裏門(安城市指定文化財)

裏門は薬医門という形式で、18世紀前半に建立されました。

簡素ですが雄偉で力強く、 風格が備わっています。

・鼓楼 (安城市指定文化財)

宝暦10年 (1760) の建立です。

真宗寺院特有の建築で、上層にある大鼓で時を知らせていました。

屋根の鯱瓦(しゃちがわら)や黒と白の外観、 石積み上に建つ姿は城郭の隅櫓(すみやぐら)を思わせます。

・経蔵(安城市指定文化財)

経蔵は寺宝である経典を収納する蔵で、 文政6年(1823) に建立されました。

腰壁には、耐火性に優れ、 土蔵などに見られる海鼠壁が用いられています。

裏門 (安城市指定文化財)

文政13年 (1830) に、一部を他から移築して再建されました。

大寺院にふさわしい規模と質を備え、 特に表土間と広間の吹き抜け空間からは、 本證寺の風格が感じられます。

郷土の文化財を大切にしましょう 安城市教育委員会

これが本殿。

本殿から眺めた広い境内。

岡崎城の記事は

徳川家康が生まれた岡崎城・岡崎城公園散策 です。

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