博覧強記

君津のシンボル久留里城址と、新井白石が青年期を過ごした市内の自噴井戸

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千葉県君津市にある久留里城は、切り立った山の上に立つ典型的な戦国時代の山城でした。

残念ながら、現在の城は鉄筋コンクリート製で、往年のものとは違いますが、それでも天守閣に立つとその景色のパノラマに圧倒されます。

この城は、戦国時代・里見氏の居城として知られています。

里見氏と言えば、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」ですね。

この物語は完全にフィクションなので、里見一族の史実と被ることは殆ど無いと思っていますが、それでも南房総の里見氏と言えば「八犬伝」です。 馬琴のお墓のレポ-トは 「東京街歩き:滝沢馬琴のお墓」です。

さて里見氏の城は、どんな城だったかレポートします。

 

1        上り坂

久留里城址の駐車場から、まずは二の丸跡に建つ久留里城址資料館を目指して、坂の途中にある看板を読みながら坂道を登ります。

坂の登り口には、杖が準備されていました。

天守閣まで620m、二の丸跡にある資料館までは460mで、程よいウォーキングになると思います。

上総 久留里城

久留里城は「城成就(じょうじゅ)して、3日に一度づゝ雨降ること21度なりしかば」(『久留里記』)と言う説から、別名を「雨城(うじょう)」と言います。

戦国期の16世紀中頃、西上総地方は真里谷(まりやつ)武田氏の勢力下にあり、久留里城もその一族の居城でした。天文年間(1532~55)の後半になると、安房の里見義堯(よしたか)は上総に進出し、本拠地を久留里城に移します。

永禄7年(1564)、下総の国府台(こうのだい)の戦いで、里見氏は北条氏に敗北、久留里城も一時、北条方の手に落ちています。しかし、2年後、里見氏は久留里城を奪還し、上総の大半と下総の一部を制圧します。その後、北条氏の勢力に押され、天正5年(1577)、里見義弘は北条氏と和睦します。義弘の死後、家督を継いだ里見義頼(よしより)は安房の岡本城を本拠とし、久留里城には城番(じょうばん)が置かれています。

天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際、里見氏は勝手な行動を取ったという理由から、上総の所領を没収されました。

以後、関東は徳川氏の支配となり、久留里城には大須賀忠政(ただまさ)が3万石、慶長7年(1602)には、土屋忠直が2万石で入城します。江戸の土屋邸で生まれた後の儒学者新井白石(じゅがくしゃあらいはくせき)は、土屋家二代目の利直(としなお)に仕え、18~21歳までの青年期をこの久留里で過ごしています。3代目の頼直(よりなお)の時、お家騒動が起こり、延宝7年(1679)、領地召し上げ、廃城となります。

約60年後の寛保2年(1742)、黒田直純(なおずみ)が3万石の藩主となり、幕府から5千両を拝領し、3年の歳月をかけ城を再興しています。黒田氏の治世は、初代直純から約130年間続き、9代直養(なおなか)の時、明治維新を迎え、明治5年(1872)、城の建物は解体され、久留里城の幕は閉じられます。

平成13年6月

君津市立久留里城址資料館

 

駐車場の海抜が55mで天守の海抜が145mなので、最終的に登る高さは90m。

2        堀切跡

堀は埋められていますが、残る石垣から赤い線のところに堀切があったことが分かります。

 

3        曲輪

曲輪の下はかなり急な傾斜です。

後の写真に「里見北条古戦史」の碑がありますが、そこに刻印されているように、そりゃあ難攻の城だったことでしょう。

4        二の丸跡(歴史資料館)

4.1         お玉が池

歴史資料館の裏にはお玉が池があります。

お玉が掘った池も、今は枯れて水たまりの跡があるだけでした。

「お玉が池」と書いてありましたが、禿げて良く読めません。

4.2         里見北条古戦史

戦国時代の天文23年(1554)晩秋 北條綱成は2万余騎の軍兵を従えて向郷に陣屋を構え、里見義堯、義弘の守る久留里城を攻撃して来た。

久留里城は知将義堯の戦略によって湯名城主 山本左馬允、一宮城主 須田将監、鳴戸城主 忍足美作守、大多喜城主 正木時茂、間西城主 茂木与茂九郎等 の武将が馳せ参じ小櫃川を挟んで数十日間余の攻防戦を展開し ついに北条軍を撃退した。

とくに茂木与茂九郎は16才の少年武将であったが敵将 葛西左京介と小櫃川の中で組み打ちとなり討ち果たした。

翌、弘治元年再度北条軍の攻撃を受け激戦となったが 城は陥ることなく難攻不陥の名を坂東に高めた。

4.3         薬師曲輪

眼下に広がる三の丸は、山の裾です。

戦時以外は、三の丸が生活の中心だったことでしょう。

4.4         新井白石像

新井白石は江戸時代中期の学者である。白石は上総国久留里藩土屋家で生まれ育ったが、久留里藩主「直樹」の代に「直樹」の奇行により久留里藩は改易されてしまう。

その後、白石は佐倉藩堀田家に仕官するが堀田家は藩主が江戸城内で刺殺されると諸国を転々と移封される。このため堀田家は疲弊し、白石も自ら堀田家を退いている。

その間も白石は常に「儒学」を独学で学び続けた。その後知人の推挙により甲府藩(徳川一門)に仕官することになった白石だったが、時の将軍「徳川綱吉」の継嗣がいなかったため甲府藩主「徳川綱豊(改め家宣)」が将軍の座に就くことになる。

一躍白石は旗本となり、その後は将軍の幕政へ関与することになる。将軍家宣が没すると、その子「徳川家継」が7代将軍となり白石も引き続き幕政へ参加し続けた。しかし、家継が夭折すると次期将軍「徳川吉宗」の代になりついに失脚してしまう。白石が残した建白書や政策資料、献上書は全て焼却・破棄されたと言われている。

新井白石:幕政に関与した上総国久留里藩出身の儒学者 新井白石【史跡 日本の歴史】

4.5         長屋塀跡

この長屋塀は、二の丸の西側に位置し、眼下に三の丸を望む場所に建てられました。

本来は、多門櫓に近い性格の建物ですが、寛保年間の絵図に「長屋塀」と記されているところから、この名称を使っています。

長屋塀は、細長い形をした長屋風の建物で、用途は主として諸道具を収納する倉庫に用いられていたと思われます。

調査の際確認した礎石は、全体の約二分の一程度でしたが、配列状況から判断して、長屋塀の規模は絵図に記載されている通り、ほぼ十間(十八メートル)x二間半(四・五メートル)であると推定されます。

礎石のつくりは、天守台に比べてかなり粗雑で石質も悪く、ノミによる整形の跡がみられます。これらの礎石は、ほとんどが赤褐色の砂岩で、二の丸から切り出した石を使用しています。

また、礎石からおよそ一尺(三十センチ)程離れたところに、軒に沿って瓦が立てた状態で埋められていますが、これは、軒からの雨だれを受ける「雨落ち溝」の役割を果したものと考えられます。

4.6         「上総掘り」方式 井戸掘り櫓

上総掘りの特徴は,先端に鉄の管をつけ,突き進むにつれて竹ヒゴを継ぎ足していくため深く地中を掘ることができ,また,軽量で弾力性のある竹を利用することにより,わずか数人で深井戸が掘れる点にあります。

材料もほとんど現地調達できるため,上総地方の職人は全国に招かれて活躍しました。天然ガスや石油,また温泉の掘削などにも利用され,近代産業の中で重要な役割を果たしました。

 

4.7         久留里城址資料館

1Fは上総掘りの説明。

黒田直純公肖像画

2Fは撮影禁止のため写真はありません。

君津の歴史が展示されています。

発掘された石器・土器・木製品。

戦国から江戸にかけての武具・刀剣・鉄砲・調度品。

信仰と風習を示す絵馬・神楽道具。

5        天守閣

5.1         男井戸・女井戸

伝説によると、この二つの溜め井戸は、奈良時代の僧 良弁(ろうべん)によって掘られ、「金剛水」「胎蔵水」と呼ばれたそうです。

戦国期、この場所に里見義堯(よしたか)が城を築くと、敵対する北条氏がいく度か来襲しますが、この井戸により籠城にも耐えることができました。

江戸時代、藩主の黒田直亨(なおゆき)の頃から、藩士の結婚式の際に、新郎・新婦がこの水を飲み、夫婦の誓いをかわしたと言われています。

そして天守を目指して更に登る。

5.2         天守閣

本丸・天守台跡

この土壇は、寛保三年(1743)から延享三年(1746)にかけて、黒田直純が城を再築した際築いたと思われる天守の跡です。

礎石群は、昭和五十二年に実施した発掘調査によって検出され、きわめて貴重な遺構であることが確認されました。

礎石の配列は内側と外側の二重に配され、内側は二間(3.6メートル)x二間の正方形、外側は三間(5.4メートル)x五間半(9.9メートル)の長方形を呈し、絵図とほぼ一致しています。

これらの礎石の配列状況から判断して、建物は二階二層であったと推定され、近世初期の天守の様式である望楼風天守に類似していたように思われます。

礎石は、二の丸から切り出した砂岩を使用しており、いずれも赤褐色で鋸引きの跡が残っています。また、砂岩の中に一部白色のシルト岩(砂と粘土との中間の細かさを有する岩)がみられますが、これらは土台石として用いられたと考えられます。

天守台の構造は、上面に厚さ十センチ程度の粘土を敷き詰め、その下に径二~四センチの石を十センチ程並べ、次に若干大きめの石を地山まで詰めているものと推定されます。

また、上部の周囲に回らされている瓦は、土圧から台を守るための措置であると思われます。

 

天守閣から下を見下ろすとこんな感じです。

土塀跡

写真にみられる土塀跡は、再建した天守のほぼ裏側から検出されたものです。

寛保三年(1743)の絵図によれば、本丸の土塀は、前面のみしか図示されていませんが、発掘調査によって後側にも土塀が回っていたことが確認されました。

礎石に使用されている石は、ほとんどがシルト岩(砂と粘土との中間の細かさを有する岩)で、きわめて密に敷き詰められています。

本丸の周囲には小高い帯状の土塁が残っており、表面に漆喰や粘土の塊が認められることから、これらは絵図に示されているように高さ六尺(1.8メートル)、瓦葺き、塗籠の土塀が崩壊したものであると考えられます。

なお、調査の結果、この土塀は写真手前の部分で途切れていることが判明し、この付近に出入口が設けられていたことが推定されています。

現在の天守閣は昭和54年(1979年)に再建された鉄筋コンクリート製です。

6        君津の湧水

久留里地区は古くから良質で豊富な地下水が湧き出る「銘水の里」として知られています。 街のいたるところで上総掘りによる掘り抜き井戸(188 本)から自噴する地下水の様子を見学することができます。

http://www.jagh.jp/content/shimin/images/wakimizu/20151004/text20151004.pdf

 

6.1         新町の井戸

6.2         久留里の大井戸

この「大井戸」は「堀井戸」で、縦2.7m 横1.2m、推進は約7.5mである。

寛永年間(1624-1644)に掘られたと伝えられている。

現在は使用されていないが、歴史的に由緒ある井戸として新町自治会が管理し、大切に保護されている。

掘削当時は城下町久留里の唯一の生活用水源で、一年中枯れることのない「大井戸」には、近郷近在から水を汲みに来る人が絶えなかった。

江戸時代の久留里城主黒田公は、地域の人々にきわめて重要なこの井戸の敷地を免租地(税を免除する土地)とし、井戸の修理や掃除には藩から助成金が与えられたという。

君津市

各戸には自噴水が至る所にあります。

自噴水の出水場所には写真のような円筒形の物があります。

6.3         久留里観光交流センター前 水汲み広場

JR久留里駅を目指します。

駅の隣の久留里観光交流センターには水汲み場が、蛇口もなく水が垂れ流しで流れていました。

7        新井白石住宅跡

新井白石居宅跡

君津市久留里字安住

徳川6代将軍家宣、7代将軍家継の相談役として活躍した儒学者新井白石は、久留里藩主土屋利直に使え、青年気の数年間、久留里の地に赴(おもむ)いています。

白石は、利直の江戸詰めの家臣の子で、幼少期より優秀であり、13歳にして利直の代筆を務めたそうです。

21歳の時、土屋家の内紛のため久留里藩より追放されてしまいますが、その後、江戸へ出て木下順庵の門下生となり、幕閣入りを果たし、6代将軍家宣のもと「正徳の治」を推し進めました。

青年期を過ごした久留里での友好関係は、年月を経でも続いていたようで、白石が55歳の時、久留里の友人伴幽庵に宛てた、山芋の贈答に対する礼状、「新井白石書簡」が地元に残されています。

(市指定文化財・久留里城址資料館保管)。

久留里での白石の住まいは、安住の士屋敷にあったと伝えられ、減債の久留里小学校の土馬とされています。

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