京都三条通りにある居酒屋「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」は、江戸時代末期に池田屋騒動のあった、旅籠・池田屋の跡地に建つ池田屋騒動をテーマにしたお店です。
13人の尊王攘夷派志士、1人の一般人、1人の新選組隊士が死亡した場所として神霊スポットになりそうな感じがしますが、そこは街のど真ん中。
逆に、歴史的事件のあった場所として人が集まる場所になっています。
外観はこんな感じです。
入口の左に碑と掲示板、2階部分に新選組のパネルが展示されています。
池田谷騒動顛末記
文久三年(一八六三)嵐のように吹き荒れた尊攘派の倒幕運動も沈静化の兆しを見せ始め、幕府は市中の治安維持に向け、なお一層の取り締まりを行っていた。
その先鋒を努めたのが、京都守護職直属の新選組でした。
元治元年(一八六四)六月五日 (祇園祭宵宮 現七月十五日)早朝、新選組は、かねてより探索していた、四条小橋西で商を営む枡屋喜右衛門こと、古高俊太郎を捕らえた。
実は古高は、倒幕派の近江郷士で土蔵から武器や具足が発見された。
古高を壬生屯所に連行し、土方が厳しく取調べた結果、御所を焼き討ちしの松平容保を襲う計画が発覚する。
近藤は、直ちに守護職、所司代、奉行所、会津藩に通報し、夜五つ刻(九時頃)に祇園会所で会津藩兵と待ち合わせる。
しかし、会津藩は約束の五つになってもこない。
痺れを切らし新選組は、浪士狩りを一刻の猶予も出来ないと近藤隊は鴨川西側木屋町を北へ、土方隊は鴨川東側縄手を北へと二手に別れて潜伏場所の茶屋、商家、旅籠等を御用改めて行った。
一方、古高が連行されたことを知った倒幕派は、新選組の屯所を襲撃し、古高を奪還すべしと主張し潜伏中の倒幕派に、三条小橋西の旅「池田屋」に集合するよう回状が送られ、長州藩士桂小五郎も池田屋に来たが早く来すぎて、池田屋裏の対馬藩邸に寄っていたので難を逃れたという。
近藤隊が三条小橋付近についたのが十時頃、一軒の宿屋「池田屋」に明かりが漏れていることに不信を抱き十名のうち、六名で表口、裏口をかため、近藤、沖田、水倉、藤堂の四名で屋内へ。
近藤は、宿の者に「御用改め」であると告げると主人池田屋惣兵衛が慌てて二階に駆け上がり、後を追って近藤が二階に上がると、そこには集会中の諸藩の討幕派二十数名がいた。
沖田が立ち向かってきた男を斬り、すぐに乱闘になった。
屋内で闘う者、二階から外に飛び降りる者、階段を駆け下りる者、これを隊士が迎え撃つ。
途中から土方隊らが加わった。
闘いは三時間ほど続き、近藤隊からは一名死亡、藤堂、永倉が負傷し、倒幕派は肥後藩士宮部鼎蔵他六名が斬死した。
一方、 予定時間を大幅に遅れて会津藩兵五百名が到着したころには、すでに戦いは終わっていました。
この事件で倒幕が一年遅れたといわれるほど尊攘派は大きな痛手を被りました。
一方、この事件によって新選組の勇名は世に轟くことになったのです。
池田屋騷動址
元治元年(一八六四)旧暦六月五日「祇園祭宵々山」、四条小橋の古高俊太郎を捕らえ厳しく取り調べた結果、倒幕派がクーデターを起こす計画を知った新選組は、三条小橋西詰北側の旅篭「池田屋」で密議中の長州、土佐、肥後各藩の尊王攘夷派志士約二十名を、近藤勇率いる新選組十名で襲撃し、多くの死傷者を出しました。
この事件で倒幕が一年遅れたといわれるほど、尊攘派は大きな痛手を被りました。
一方、新選組はこの事件の手柄を機に、一躍名をあげました。
文久三年二月(一八六三)早朝、浪士組(後に新選組)は東海道五十三次の終点であるここ三条大橋、小橋を渡り、池田屋の前を通り壬生屯所に向かっていました。
まさか、その一年三ヶ月後にそこで死闘が繰り広げられるなど、誰も予想していなかったことでしょう。
三条小橋商店街振興組合
外から見えた2階のパネルは内側から見るとこんな感じ。
京都の建物は入口が狭く、奥行きがあるので階段をつけるとこんな感じになりますね。
ただし、事件のあった池田屋は2階建てで、階段も2か所あったようです。
さて、料理のお値段ですが、池田屋の名前に引かれて観光客が集まることが無いのでしょうか。
至って普通の居酒屋の値段でした。
京都観光のついでに寄るのも悪くないですよ。