史跡

京都伏見区・寺田屋騒動のあった寺田屋は今

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京都伏見区にある寺田屋は運河に面し江戸時代は、大阪との船運の往来に使われた船宿でした。

この寺田屋は、幕末に起こった2つの事件で、名前を知られるようになりました。

事件は以下の2つです。

文久2年(1862年)に発生した薩摩藩の尊皇派志士の鎮撫事件。

薩摩藩から脱藩した志士の一部を、藩主島津久光の命を受け鎮撫使としてやってきた薩摩藩士が上意討ちと称して殺傷した事件です。

慶応2年(1866年)に発生した伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件。

京都で薩長同盟の会談を斡旋した直後に寺田屋に宿泊していた坂本龍馬と護衛役である長府藩士の三吉慎蔵が、伏見奉行の捕り方に襲撃された事件です。

この事件では、いち早く気付いた龍馬の恋人であるお龍は、風呂から裸のまま裏階段を2階へ駆け上がり龍馬らに危機を知らせたことが有名です。

龍馬は、この襲撃で難をのがれたものの、怪我をしたためお龍と共に薩摩領内に湯治などをしながら潜伏しました。

これが、わが国初の新婚旅行と言われています。

寺田屋は京阪本線の中書島(ちゅうしょじま)駅から歩いて5分ほどのところにあります。

 

中書島の駅前には地図の他に道標が建っていました。

そして龍馬のパネルも。

幕末のまち伏見

寺田屋は三十石船に乗る人々が利用した船宿で、宿のすぐ目の前にある寺田屋浜は大坂八軒家(現・天満橋付近)まで舟運で結ばれていました。

幕末の慶応2年(1866)、薩摩藩の定宿でもあった寺田屋にいた坂本龍馬を伏見奉行所配下の捕り方が襲撃しました。

龍馬を暗殺しようと狙っていたと言われています。

深い傷を負いながらも、命からがら逃げた龍馬は、傷を癒すために妻となったお龍をともない三十石船に乗って、薩摩の霧島へと淀川を下っていったのでした。

これが日本で最初の新婚旅行だといわれています。

 

酒のまち伏見

かつて「伏水」と書かれた伏見は、古来から良質の水が豊富に湧き出る地。

その水から造られる酒は、まろやかで口当たりがよいとされてきました。

天下を統一した豊臣秀吉は、この地に伏見城を築城。

全国から集められた大勢の大工や職人の数と比例するように、消費される酒と酒蔵は増加しました。

江戸時代前期には、伏見の酒造業者数は八十三、一万五千石余の醸造量を誇り、国内有数の産地として栄えます。

いまでは、日本全国はもちろん世界各国でも愛されている伏見の酒。

それは先人たちの絶え間ない努力と酒造りにかける熱い思いの賜物なのです。

 

寺田屋のすぐそばの川は、「宇治川派流」といわれる運河で、豊臣秀吉が伏見城を築いた時に造られ、大阪と京都を結ぶ水運の拠点として利用されました。

江戸時代は、西の大阪から水運を利用して京都に移動して来る人々で栄え、寺田屋は薩摩藩の定宿となっていました。

坂本龍馬のミニ銅像と「薩藩九烈士遺蹟表」は寺田屋で闘死した薩摩藩士9名を、明治維新のさきがけとして顕彰する碑です。

寺田屋騷動址

文久二年(一八六二)四月、尊皇攘夷派の先峰であった薩摩藩士九名が殺傷されるという明治維新史上有名な寺田屋騒動が起こった所である。

当時、薩摩藩には藩主の父、島津久光を中心とする公武合体を奉ずる温和派と、勤王討幕を主張する急進派との二派があった。

久光は急進派の動きを押さえようとして、兵千余名を率いて京都へ入った。

これを知った有馬新七ら三十余名の急進派志士は、関白九条尚忠と京都所司代酒井忠義を殺害するべく、文久二年四月二十三日、薩摩藩の船宿であった寺田屋伊助方に集まった。

これを知った久光は藩士奈良原ら八名を派遣し、新七らの計画を断念させるべく説得に努めたが失敗、遂に乱闘となり新七ら七名が斬られ、二人は重傷を負い、翌日切腹した。

奥の広場にある殉難碑は明治二十七年(一八九四)の建立で、有栖川宮熾仁親王の筆になる篆額を掲げる。

京都市

 

三十石船

三十石船とは、江戸時代に淀川を上下した客船である。

乗客は、まず船宿に入り、 それから乗船していた。

寺田屋も有名な船宿の一つで、この付近には多くの船宿が並んでいた。

淀川は平安時代以来船運が盛んで豊臣秀吉、次いで徳川家康が過書船の制度を定め、運賃や営業に対し税を課すなど取締りを行い、伏見大手筋には、過書船番所を設けていた。

船の大きさは二十石積から三百石積で数百便が運行し、貨物や抹客を運んでいた。

その内三十石船は長さ約十七メートル、中二・五メートル船頭四人定員二十八名の旅客専用船で上りは一日又は一夜、下りは半日又は半夜で伏見と大阪天満の間を運行した。

船質は江戸時代中期で約五十文、途中枚方に立寄る。

そこでは船客に「くらわんか」と声をかけながら、餅を売りにきた。

そうした風俗や船内の様子は、落語や講談浪曲で有名である。

なお三十石船は明治四年(一八七一)に廃船になった。

寺田屋

 

表の階段です。

2階の部屋は通常ここから出入りしました。

 

2階の部屋です。

解 說

龍馬が三好慎厳に共に京都伏見の寺田屋で危難に遭ったのが慶応二年一月二十三日これは薩長盟約が成立した年のことでしたが、その前年慶応元年(一八六年)には龍馬にその下準備と土台固めに東奔西走席の温まる間なく土佐藩士中岡慎太郎と薩長盟約運動を通じて肝胆相照らす仲となり、この熱き友情は死に到るまで続きました。

しかし。薩長盟約の実現は並大抵のものではなく幾度か辛酸をなめてこれら両人の血と汗の努力の中に築きあげられていったことは歴史にあきらかであります

この書は、その年慶応元年に竜馬と慎太郎の血盟の記念ともいうべき寄せ書きでありここ寺田屋で書かれたものでその艱難辛苦のありさまが七言律詩の中に悲愴な迫力を以てうたい込まれ薩長連合の完成を目ざして再度の奮起を誓い合った両雄の不退転の決意が書画を透して見る人の心に迫ります

又末尾の署名は龍馬が口を開けば「また坂本の大風呂か」と罵られながらも俗論に構うことなく四面楚歌の中にあってもその高き志を翻さずあらゆる力と戦いながらも龍馬の歌にある

「世の中の人は何も言はば言へ、我がなすことは我のみぞ知る」

との心境がこの土州狂生龍馬の表現となったものともみられ、その辛苦の深さが想像されるものであります

なお達磨像は迂山道人(中岡慎太郎)の筆になる画であります

京都高知県人会

会長 川本 直水

 

 

こちらも2階の角部屋。

 

渡辺篤は京都見廻組に所属し、

近江屋事件において、坂本龍馬・中岡慎太郎の暗殺に加担したと述べていたとのこと。

 

龍馬が放った弾痕ということですが・・・・・・。

明治維新の頃の刀痮(とうこん)ということでしょうが・・・・・。

お龍さんの写真。

 

武市半平太(左)吉村 虎太郎(右)は幕末の土佐勤王党の浪士です。

 

そして裏階段を下っていくと、

お龍さんが龍馬の危機に際して裸のまま飛び出した風呂がありました。

寺田屋お登勢

当時、寺田屋は薩摩藩の定宿で討幕志士たちはここを溜場としており龍馬もそのなかの一人であった。

お登勢は、龍馬のために献身的な働きをし、またお竜を養女として引きうけるなど陰に陽に協力を惜しまなかった。

ちなみに、勝海舟はお登勢を評し、龍馬の人と志を「もっともよく理解した」女だと述べている。

さてさて、2階をぐるっと回って1階の最後の展示を見ていると、何と、何と、

「幕末の寺田屋」は鳥羽伏見の戦いで焼失していたという事ではないですか。

ではあの、弾痕と刀痕はいったいなんだったのでしょうか?

「幕末の寺田屋」焼失確認

幕末の「寺田屋騒動」などの舞台として伏見観光の人気スポットとなっている京都市伏見

区南浜町の旅館「寺田屋」について、市は二十五日、「(建物は)一八六八年の鳥羽伏見の戦いで焼失した」と、して幕末から残る建物ではないとの調査結果を公表した。

現在の寺田屋では柱の刀傷や弾痕などを一八六二年の寺田屋騒動で残った実物として展

示しているが、当時の建物ではないとの一部報道があり、市が今月に入って調べていた。

市歴史資料館が、書物や石碑など九つの資J料を点検した。

鳥羽伏見の戦いがあった一八六八年一月二十七日直後に出た瓦版の地図で性焼失範囲に寺田屋が含まれており、一九〇六年に記された「寺田屋伊助申立書」にも戦いで焼失したとの文言があった。

現在の寺田屋東側に立つ薩摩藩士の顕彰碑(一八九四年建立)にも壊された建築物を意味する「遺址」の言葉が刻まれている。

同館では「以前から当時の建物ではないと言われていたが、あらためて一つずつ資料を点検した結果、焼失したことが確認された」としている。

市は寺田屋に対して展示の改善を要請し、市観光協会などには各観光施設で展示に誤解を与えないよう周知することを求める文書を送った。

寺田屋は「あくまで市の見解であり、今までの旅館の取り組みがすべて否定されるものではない」と反論しているが、今後については「明確で分かりやすい展示を考えたい」としている。

 

在りし日の寺田の立体図です。

最後の新聞の記事を読まなかったら、事件のあった当時の寺田屋だと勘違いするところでした。

鳥羽伏見の戦い後再建されたとしても、100年以上は経っているので建物自体は十分に古いので、それらしく見えます。

建物は本物ではなかったですが、その場所に行けたのは歴史を知る上で貴重な体験となりました。

 

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