釈迦堂遺跡博物館は、山梨県甲府市に位置する歴史と文化の展示を行っています。
この博物館は、縄文時代から平安時代にかけての遺跡を展示しており、訪れる人々に古代日本の生活や文化を垣間見せてくれます。
特に、釈迦堂遺跡から出土した土器や石器、装飾品などは、当時の人々の生活様式や技術の高さを物語っています。
この博物館は釈迦堂PA(下り線)から山側に徒歩約1分で行くことができます。
行楽のついでにふらっと立ち寄ることができるのも便利です。
目次
1 外観
山の中にしては、なかなかオシャレな外観です。
高速道路からも良く見えますよ。
玄関に置かれた、巨大縄文土器からは、遙か下の街並が見えます。
釈迦堂遺跡博物館のご案内
釈迦堂遺跡博物館は縄文時代中期の土器や土偶などの5,599点の国指定重要文化財を収蔵・展示する全国でも有数の博物館です。
常設展示では、圧倒的な数の土偶や土器を様々な角度から見学することができます。
土偶のしゃかちゃんはこの博物館のマスコットですね。
平日の駐車場はガラガラです。
もしかして、休日も同じ?
2 1階 やまなし土偶探訪
驚くほど、人の顔をかたどった土偶が展示されています。
山梨はこれほど土偶が出る、という事ですね。
ごあいさつ
釈迦堂遺跡博物館では、 山梨県内各地のあの町やこの町で出土した普段はお目にかかることが少ない土偶たちを、 地域ごとにご紹介する企画展 「やまなし土偶探訪」 を開催いたします。
縄文時代の土偶は、 主に妊娠した女性の姿であることから安産祈願を祈る道具だったと考えられ、 縄文文化を代表する遺物の一つです。
当館が所蔵する釈迦堂遺跡の土偶は 1,116点という国内有数の出土数となっておりますが、 ここ山梨県は全国的に見て大量に土偶が出土する地域でもあります。
なかには書籍に載っているような特に優れたつくりの土偶もあり、 およそ五千年も前に縄文人たちが作りあげた造形美に驚かされます。
今回の企画展示ではそれらの優品に比べると少し地味ではありますが、 約200点の県内各地で出土した様々な姿形をした魅力的な土偶たちをご紹介します。
本展では各地域の土偶たちのバラエティーに富んだ表情やつくりをじっくりとご覧いただき、 縄文人たちが大切にした土偶ひとつひとつの個性に出会う機会になれば幸いです。
最後に、本企画展を開催するに当たりまして多大なご協力をいただきました関係機関、ご指導・ご協力を賜りました多くの皆さまに厚く御礼を申しあげます。
令和6年9月18日
釈迦堂遺跡博物館
山梨県の土偶について
山梨県の縄文時代の土偶は縄文時代前期 (約7,000年前)から晩期 (約 2,400年前) まで各地でつくられ利用されてきました。
特に縄文時代中期 (約5500年前~4,500年前)の時期には体のつくりが精巧になり、 立体的なつくりの資料が多く出土しています。
そうしたなかで、 県内ではおよそ3,000点の土偶が出土しています。
その内訳をみると、 峡北地域 (北杜市 韮崎市) が約1,300点、 峡西地域 南アルプス市 富士川町) が約90点峡南地域(市川三郷町 南部町) 15点、 峡中地域 (甲斐市甲府市中央市) が約90点 峡東地域 (笛吹市・山梨市・甲州市) が約1,570 点 郡内 (都留市 大月市 上野原市 西桂町) が約50点と、 八ヶ岳山麓の峡北地域と甲府盆地東部の峡東地域に集中して土偶が出土していることがうかがえます。
地域ごとの偏りがみられますが、 県内のいたる所で土偶は出土しており、 様々な造形がみられます。
土器に表現された土偶の顔
縄文時代中期の中部高地では、 土偶の顔や体を土器に貼り付けたような表現がみられるようになります。
顔のみを土器に表現することから始まり、ハート形で作られるのが特徴です。
現在展示している南アルプス市長田口遺跡出土の顔面把手付土器はその古い例のひとつです。
一方で、 身体の表現については、イノシシなどの動物を土器の口縁部に表現していた流れのなかで、 始まっていった可能性が考えられています。
ではなぜ、 土器に土偶の顔や体を表現するのでしょうか。
一つは、この時期の土器自体を人の身体に見立てていたとする考えがあります。
本来は煮炊きに使う土器を、 出産に関わる遺物である土偶を表現することで、 料理を食べることにより生命の「再生」 や 「更新」 を願ったのではないかと考えられています。
土偶の顔のつくり方
甲州市大木戸遺跡から出土した割れた土偶をみるとその作り方をうかがい知ることができます。
この頭部はいくつかのパーツに割れた状態で出土しており、観察してみると、
① 頭部の核となる小さい粘土の塊をつくる。
② ①に1cmほどの厚さをもった円板状の粘土をかぶせる。
③ 縦方向に並べた粘土紐(ひも)に包むようにして頭の形をつくる。
④ 0.5mm程の薄い粘土をかぶせて細部を調整して完成。といった手順が考えられます。
ひとつの粘土の塊から頭部をつくるのではなく、以上のような工程を経て製作していることから、そこに製作者の意図が潜んでいることが考えられますが、くわしいことは未だ分かっておりません。
京戸川扇状地
甲府盆地の東部、御坂山系より流れ出た京戸川は蜂城山と茶臼山の間を抜けたところで、多くの土砂を堆積させ、典型的な扇状地を形成しています。
これが、 平均傾斜約8度、総面積約4.8kmの京戸川扇状地です。
この扇状地では多数の遺跡が確認されており、古くは23,500年頃前の旧石器時代の人々の生活の痕跡がみつかっています。
釈迦堂遺跡はこのほぼ中央部分から発見されました。
釈迦堂遺跡の発掘調査
釈迦堂遺跡は1980年2月8日から翌年11月15日まで、 中央自動車道建設工事に先立って、延べ2万人が参加して発掘調査が行われました。
その結果、旧石器時代、縄文時代、古墳時代、奈良時代、平安時代の住居や墓などの遺構、および多量の土器、石器などの遺物が発見されました。
特に縄文時代の遺構・遺物は豊富で学術的価値も高く、調査中から全国的にも大変注目され、連日のように多数の見学者が訪れました。
3 2階
2階の窓からみた街の様子です。
窓の外に見えるのが釈迦堂PAです。
こちらのマットは、当館から黒曜石の原産地(長野県和田峠)までの方向、歩数、距離を表示しています。
縄文時代概要
土器を持たず、 定住をしていなかった旧石器時代が終わり、約16,000年前に縄文時代が始まりました。
縄文と呼ばれるように、 主に縄紐(なわひも)を回転させた縄目文様がこの時代の土器に施されることからこの名前が付けられました。
縄文時代に入ると日本列島は温暖で湿潤な気候となり、 現在と同じように山や森、 海や川は季節に応じて変化し、 狩猟や採集を主な生業として、食べ物や生活に必要な様々なものを手に入れていました。
竪穴式住居に暮らし、子どもを育て、時に植物の栽培や動物の飼養をしながら豊かな生活を送っていたようにも思えます。
しかしその反面、 簡単に命さえ奪われてしまう厳しい自然に挑みながら暮らしていたのかもしれません。
1万年以上続くこの縄文時代は土器が様々な目的で作られ、使われたことが大きな特徴です。
本来は煮炊きの道具として使っていた土器は、縄文時代中期の約5,500年前からは、煮炊きには不向きだと考えられるほどに、 過剰な装飾が施されるものが現れ、同じころに土偶なども含めて彼らの祈りが込められたと考えられるモノが作りだされます。
そこには自然への願いや畏怖が込められたと考えられる、 混沌とした表現がみられるようになります。
縄文時代中期になると、 山梨県・長野県にまたがる中部高地
の一帯では遺跡数 遺物量がともに増大し、この一帯が日本の中心地域だったと考えられています。
特に釈迦堂遺跡は、縄文時代中期を中心に重要文化財である1,116点を数える土偶をはじめ、30トンにもおよぶ土器や石器などが出土する中部高地の遺跡の中でも特徴的な遺跡です。
マスコットの「しゃかちゃん」と「しゃこちゃん」です。
土偶に秘められた願い
土偶は、縄文時代のひとがたの土製品です。
土偶は何のために作られたのか、100年を越える土偶研究の中でもまだ答えは見つかっていません。これには、
- 女神像 (生殖・豊穣・繁栄を祈る女神)
- 病気・傷害・災害の形代 (身代わり)
- 装飾品
- 埋葬具
- 子供のおもちゃ
- 護符 (まもりふだ)
- 宗教的儀式の祭具
など諸説があります。 なかでも、 その姿がおもに妊婦の姿をしていることから、 女神像として、 生まれてくる命の健やかな成長や豊穣を願ったという説が有力です。
釈迦堂遺跡の1,000点を越える土偶の「出土状況」「多様な形態」 「割れ方」 は今、 私たちにその意味を伝えようとしているのではないでしょうか。
こちらの埋甕は釈迦堂遺跡 S-Ⅲ区37号住居跡から出土しました。
二つの埋甕は並んで、竪穴式住居の玄関部分から発見されました。
埋甕はお墓として使われた土器です。
何故、このような場所にお墓を作ったのか?
現代人にとっては違和感があるかもしれませんが、 縄文人たちと 「死」 との関わり方がわかる貴重な資料です。
土偶の作り方
土偶の作り方にはおおむね4通りの作り方があります。
- 分割塊製作法(ぶんかつかいせいさくほう)
- 手こね法
- 輪積(わづ)み法
- 塑像(そぞう)法
①分割塊製作法と呼ばれる方法は、 釈迦堂遺跡から出土した1116点の土偶を観察して名付けられた方法です。
頭、胴、 手足などいくつかの粘土塊を木芯を入れたりやソケットのようにしてつなぎ合わせて作る方法です。
X線でみるとそれぞれの部分のつなぎ目をはっきり見ることができます。
②手こね法は、最も簡単な方法で、一つの粘土塊から頭、手、足を引き延ばして作る方法です。
③輪積み法は、 土器や中空土偶(ちゅうくうどぐう)を作る方法で、 粘土ひもを積み上げて土偶を作る方法です。
④塑像法は、 仏像製作に用いられることがあり土偶作りには稀な方法ですが、木などの芯に縄を巻きつけ、粘土をかぶせて形作る方法です。
顔のモチーフ
縄文土器に表現された顔のモチーフの中で、 代表的なものは把手(とって)の部分に顔面を表現する 「顔面把手(がんめんとって)」です。
多くの場合、顔は土器の内側を向いて、 あたかも器の中の食物を見つめるかのような印象を与えます。
顔面把手は土器の本体に接合して、一つの土器として復元される例は少なく、 釈迦堂の場合でも復元できたものはありません。
ほかの遺跡で復元された例をみると、 土器全体を身体として捉えることができ、 女神の身体から様々な食べ物が生じた神話を彷彿とさせます。
完形品が少なく、 把手の部分が分離しているのは壊されてバラバラにされた土偶の出土状況に共通するものがあります。
釈迦堂遺跡の縄文人も、他の地域の縄文人と様々な物資を交換して、より豊かな生活を営んでいました。
矢や錐の先に使う黒曜石は長野県の和田峠付近から、ときには伊豆諸島の神津島、 神奈川県の湯河原から、ペンダントのヒスイは新潟県の姫川 (糸魚川市) の流域からもたらされたことが科学的に証明されています。
この他に軽石は群馬県の榛名山麓から、 また石材以外には駿河湾産と考えられるハマグリが出土しており、 静岡から山梨への貝の流通を考えると、 山梨県名産の煮貝のルーツとも言えるかもしれません。
釈迦堂遺跡のモノと人の交流
釈迦堂遺跡から出土した土器のなかには、縄文時代前期の関東地方の黒浜式土器、近畿地方の北白川下層式土器、 縄文時代中期では信州系の褶曲文(しゅうきょくもん)土器、 関東地方の阿玉台(あたまだい)式土器、 加曽利(かそり)E式土器、 東海地方の天神山式土器、 東北地方の大木(だいぎ)8b式土器などがあります。
その内の関東地方の文様をもつ土器の土を分析した結果、 山梨県内の土を使って作られたものであることがわかりました。
このように土器を見ていくだけでも、釈迦堂遺跡に暮らした縄文人たちは各地と交流し、ただ単にモノの動きだけではなく人の行き来があったことがわかります。
縄文人の祈り
縄文時代の土器にはヘビやイノシシなどの動物の文様が抽象的に表現されることが多くみられます。
縄文人は身の回りの動物たちを単純に土器の装飾に用いたのではなく、 そこに霊的なものを感じ取って、 抽象化した動物たちを表現しています。
これらの動物たちは縄文人が身近に感じ、 体験的に知り得た動物たちの力を宿した精霊たちを表現したもので、その神話的世界を土器から読みとることができます。
縄文人とイノシシ
イノシシの土製品や把手を観察すると、キバがないことに気がつくと思います。
またイノシシの子供の特色である縞模様を付けた土製品もあることから、おそらく縄文時代のイノシシ形の土製品や把手は、子供のイノシシをモデルにしたものと考えられます。
縄文時代のイヌの埋葬は良く見られますが、イノシシの子供も埋葬された例もあり、こうした点から、イノシシの一般的な飼養が縄文時代に行われていたとも考えられています。
水煙文土器(すいえんもんどき)は、水煙りを思わせる、ゆるやかで美しい曲線を用いて表現された立体的な曲線文を口縁部に持つ土器で、山梨県の甲府盆地を中心に出土する縄文時代中期の土器です。
口縁部(かえんぶ)に連続する火焔のような三角形文様と大きな把手が特徴の新潟県を中心に出土する火焔型土器(かえんがたどき)とともに、縄文時代中期の縄文時代の造形美を代表する土器です。
ダイナミックでありながら柔らかな曲線で飾られた把手は二対(4個)からなり、渦のように廻りながら少しずつ変化せるのが火焔型土器との大きな違いです。
埋甕
いのちの区切り、 死はいつの世も人のそばに潜みます。
縄文時代には、新しい生命は出産のときや幼い頃にも危険にさらされ、不幸にして大きく成長する前に亡くなる子供が多かったと考えられます。
縄文時代の集落には、穴の中に土器をまっすぐ、または逆さまにして入れてある場合があります。
この土器を埋甕と呼んでいます。
集落の一角にまとめて埋められていたり、竪穴式住居の入口に埋められたりしています。 特に子供のお墓と考えられるものは、住居の入口付近に多く見つかりました。
家族が出入りのたびに踏みしめる場所に埋めることで、 再び母の体内に宿り、 生まれ変わるように願ったのでしょうか。
また、釈迦堂遺跡からは山梨県でも最大級の埋甕が出土しています。
これは集落の一角に埋められ、 内側から骨片が出土していることから、 成人の再葬墓の可能性が高いとされています。
縄文時代の人々にとって、命の終わりは、 再び生まれ変わる新しい命の始まりを願う瞬間でもあったのでしょう。
埋甕はまるで命の器とも言えます。
釣手土器
釣手土器は縄文時代のランプとも言われ、 釣り下げるための釣手が付いた土器です。
内面に煤が付着していたり、熱で脆くなったものが多いことから、儀礼時に使用されたと考えられています。
有孔鍔付土器(ゆうこうつばつきどき)とは、
1.平らな口縁
2.口縁部下部を一周する鍔(つば)
3.鍔上部に均等に穿たれた孔
を特徴とする土器で、 縄文時代中期初頭(約5,500年前)から中期終末 (約4,500年前)までの間、 本州の中部高地 (現在の山梨県 長野県を中心とする地域) を中心に東日本で作られていました。
胴部が大きく張り出したり、 胴部に土偶が張り付けられたりと、 通常の土器とは異なる特徴的なその形から、煮炊きなどとは違う、 「酒造具」 「太鼓」 「種子保存容器」 等の説があります。
また、文様はカエル・ヘビ・ 土偶等さまざまです。
出土数が少ないことや、赤黒等の彩色が漆によって施されているものなどがあり、 謎を秘めた土器と言えます。
腹部の大きな土偶
釈迦堂遺跡から出土した 1,116点の土偶はバラバラで出土しました。
顔や手足など、完全な形になるものは一つもありませんでした。
しかし、それぞれのパーツをみると、 胸が大きく、お腹が大きく表現されています。
全国的にみても基本的に土偶は女性像で妊婦の姿をしていますが、 特に腹部が目立つものがあります。
釈迦堂遺跡から出土した土偶の中にもお腹の表現が特徴的なものがあります。
お腹を守るように手を当てた表現のものは、縄文人たちがお腹の子供を大切に、 愛情
を注いでいたと感じられる土偶です。
釈迦堂遺跡の前期土偶
縄文時代の草創期 (16,000年~11,000年前)の土偶は顔や手足の表現はないものの乳房が強調された小さなものでした。
これが縄文時代早期 (11,000年~7,000年前) から前期 (7,000年~5,500年前)に入ると、 板状の土偶に変化していきます。
釈迦堂遺跡から出土した前期土偶は、これら板状土偶の中でもはっきりと人の形を意識した作りとなっており、かつ頭部には4つの孔があり、これらは顔の表現ではないかと考えられています。
この時期の顔の表現は極めて稀であることから、資料的価値が高く、 日本を代表する土偶の一つとして2009年大英博物館「The power of DOGU」 や 2018年東京国立博物館 「特別展 縄文」 など様々な場所で展示されました。
ここからは年代順に縄文土器が並べられています。
触ってみようコーナーです。
「しゃかちゃん」と「しゃこちゃん」もちゃんとありますよ。
4 博物館裏の遺跡模型
派手な看板などが無いので、気が付かないとスルーしてしまいそうです。
中期中頃の住居址
釈迦堂三口神平地区の中期中頃の住居址(SB-32)。
620cm×20cmの楕円形。
炉は5角形の石囲炉である。
6本の柱は太い。 出入口部にはしご受けの穴が見られる。
前期初頭住居址
釈迦堂三口神平地区の前期初頭の住居址(SB-102)。
450cm×440cmの
ほぼ円形。 炉は床をやや堀り窪めたもので、柱は円形に並んだ10~13本であると思われる。 細い柱で簡単な上屋があったと思われる。
中期の住居址
釈迦堂三口神平地区の中期前半の住居址 (SB-73)。
560cm×420cmの楕円形。
炉は土器を埋める埋甕炉である。 柱は深い穴から5本と思われる。
いかがでしたか?
地味な博物館ですが、土器の数はかなりあり、見ていて飽きない博物館でした。
井浦新が映像で館内を紹介していましたが、彼は「縄文文化」を偏愛する俳優として有名でなかなか面白い映像でしたよ。