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國學院大學博物館#2:文永の役750年特別展

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鎌倉時代に起こった元寇(げんこう)は、13世紀にモンゴル帝国(元)とその属国である高麗が日本に対して行った2度の侵攻を指します。これらの侵攻は、1274年の「文永の役」と1281年の「弘安の役」として知られています。

 

文永の役(1274年)

元軍と高麗軍は、九州北部に上陸し、日本の武士たちと戦いました。元軍は火薬を使った武器や集団戦法を駆使し、日本側に大きな衝撃を与えましたが、最終的には撤退しました。

 

弘安の役(1281年)

2度目の侵攻では、さらに大規模な軍勢が派遣されましたが、台風(神風)によって多くの船が沈没し、元軍は大きな損害を受けました。この結果、日本は再び侵攻を防ぎました。

 

元寇は、鎌倉幕府滅亡の遠因の一つとなりました。

そして「神風」の伝説は後世に大きな影響を与えました。

1        はじめに

文永十一年(一二七四) 旧暦十月、ユーラシア大陸の大半を支配下に収めたモンゴル帝国大元(以下略して元)第五代皇帝フビライは、日本への侵攻を命じました。

高麗南部の合浦(現在の馬山)周辺を発して、博多湾に上陸した元・高麗連合軍は鎌倉幕府軍と合戦し、博多を焼き払って撤退しました。

日本にとっては六六三年に起こった唐・新羅連合軍との白村江 (白馬江)の戦い以来、およそ六〇〇年ぶりの国際戦争の経験でした。

フビライはその後の弘安四年(一二八一) 旧暦五月にも日本への侵攻を図り、この際には九州の佐賀・長崎県境に位置する伊万里湾に集結した元軍船団が暴風雨にあって壊滅したとされています。

二度にわたる元の日本侵攻を日本史ではモンゴル襲来 (蒙古襲来あるいは元寇)とし、一度目を文永の役、二度目を弘安の役と呼んでいます。

本年、令和六年(二〇二四)は一度目の文永の役からちょうど七五〇年の節目の年にあたります。

この節目の年にあたって、当館ではモンゴル襲来をテーマとする二つの特別展を長崎県松浦市・松浦市教育委員会と共に開催することとしました。

その一つ目が本特別展「海底に眠るモンゴル襲来 水中考古学の世界―」 です。

本展では昭和五五年(一九八〇)以降、伊万里湾で進められてきたモンゴル襲来の実態解明を目指して練成されつつある水中考古学的研究手法と、その調査研究成果について紹介します。

これに続く二つ目の特別展「絵詞に探るモンゴル襲来 『蒙古襲来絵詞』 の世界―」(十一月三十日開幕)では、モンゴル襲来に参戦した肥後国御家人竹崎季長が、自らの経験を踏まえて描かせた『蒙古襲来絵詞』について、あらためて紐解いてみたいと思います。

当館による二つの特別展が十三世紀に東アジアの人々を巻き込んで起こされたモンゴル襲来とその歴史的位置づけについての理解を深める機会になれば幸いです。

 

2        水中考古学

水中考古学とは

地球表面の約三分の二は海をはじめとする水域に覆われています。

人類はさまざまな資源を獲得する場所として、また陸地間を移動する航路として、海や内陸部に形成された湖沼、河川からなる水域を利用してきました。

人類の営みにとって、海や湖沼、河川などの水域は重要な役割を果たした場所であり、そこには幾多の人類活動の痕跡が沈没船をはじめとする水中遺跡として静かに埋もれています。

この沈没船をはじめとする水中遺跡を調査研究する考古学分野が水中考古学です。

 

水中考古学

第二次世界大戦末期、フランス海軍が現在ではアクアラング式と呼ばれる、水中で水圧の変化に応じて呼吸ができる潜水装置を開発しました。

大戦後、アクアラング式潜水装置はさまざまな水中作業の場で用いられるようになり、考古学研究にも導入されて、水中考古学が本格的に始まりました。

日本の文化庁では水中遺跡について、「常時または満水時に水中にある遺跡」と定義しています。

水中遺跡は人類のさまざまな行動の痕跡が時間の経過とともに水中に残されることによって形成されます。

 

世界の水中考古学

水中考古学研究は世界各地で行われています。

17世紀スウェーデン国王グスタフ・アドルフⅡ世が建造を命じた戦艦ヴァーサ号や、 韓国全羅南道新安郡の海底で発見された沈没船は引き揚げられ、 専用博物館などで展示公開されています。

この他、 海に関わるさまざまな人類活動は世界各地に設けられた海事博物館などで確認することができます。

 

3        モンゴル襲来

モンゴル襲来

鎌倉時代の日本に中国大陸の大半を支配下に収めたモンゴル族の国家・元が侵攻を図りました。

日本史でいうモンゴル襲来 (蒙古襲来、かつては元寇ともいう)です。

一二七四年と一二八一年の二度にわたって起こったモンゴル襲来では、当時の国際貿易港であった博多を攻略目標においた元軍と鎌倉幕府に率いられた武たちの攻防が行われました。

その様子は肥後国御家人竹崎季長による『蒙古襲来絵詞』に描かれたほか、人々の間では「神風」の伝承が生じるなど、その後の日本社会に大きな影響を与えました。

大元の成立と東アジア社会の変動

1206年ユーラシア大陸に興ったモンゴル帝国はアジア大陸の東沿海部に侵攻し、1234年に金、1259年には高麗を支配下に収めました。

1260年モンゴル皇帝となったフビライは国号を大元(通称、元)に改め、南宋や日本の攻略に取り掛かりました。

 

文永の役

1266年以来、 フビライは高麗を通じて、複数回にわたり、日本招諭の使者を派遣しました。

これに対して、鎌倉幕府と朝廷は正式な返答を行いませんでした。

このため、1274年高麗に駐屯した元軍と高麗軍からなる兵員約3万人と軍船約900艘が対馬、壱岐を蹂躙したのち、博多湾に侵攻し、博多を焼き払って撤退しました。

南宋の滅亡

1273年、元軍の攻撃に耐え続けた南宋の拠点の一つであった襄陽が陥落し、1276年には王都臨安(現、杭州) も元軍に占領されました。

南宋では一部軍人が幼少の王族とともに海上に逃れて抵抗を続けましたが、1279年崖山の戦いに敗れ、滅びました。

弘安の役とその後

南宋を滅ぼした元は降伏した南宋軍を中心とする江南軍と、元・高麗混成軍からなる東路軍を編成し、1281年に再び日本への侵攻を図りました。

両軍は旧暦五月に進発し、壱岐で合流した後に博多へ向かう作戦でした。

しかし、江南軍は司令官の交代などの影響もあり、進発が遅れました。

旧暦7月末に合流した元軍船団は博多を目指して伊万里湾へ移動した旧暦閏7月1日未明に暴風雨に見舞われ、壊滅的損害を被りました。

一部の将兵は逃げ帰ったものの、大半は掃討戦に遭い、旧南宋人を除いて斬首されました。

4        鷹島海底遺跡の調査

鷹島海底遺跡の調査

長崎・佐賀県境に東西約十三㎞、南北約八㎞の規模を有する伊万里湾があります。

伊万里湾は閉鎖性が高い内湾のため、風や潮流の影響を受け難いことから、現在でも対馬海峡を通航する船舶にとって天候が悪化した際の緊急避難場所となっています。

また、伊万里湾内では漁業者の網に中国陶磁器が入ることがあり、湾口を塞ぐ位置にある鷹島にはモンゴル襲来に関する多くの言い伝えが残されています。

このことから伊万里湾は長く弘安の役の舞台であったとされ、一九八〇年以降モンゴル襲来の実態解明を目指した水中考古学的調査研究の対象地となりました。

調査の始まり

昭和 55年(1980)、文部省科学研究費特定研究に「古文化財に関する保存科学と人文・自然科学」(総括研究代表者 : 江上波夫オリエント博物館長)が採択され、その一分野に 「水中考古学に関する基礎的研究」(研究代表者:茂在寅男東海大学教授)が盛り込まれました。

この時、 水中音波探査装置と水中考古学的手法を用いた調査が鷹島南海岸域で初めて試みられました。

 

旧鷹島町による調査

1980年調査の際、地元の人が鷹島神崎港で潮干狩り中に見つけた銅印を届出ました。

銅印の印面には見慣れない文字が陽刻され、つまみの横には「中書礼部造至元十四年九月□日造」の文字が陰刻されていました。

「至元十四年」は元の年号で1277年に当たります。

また印面の陽刻文字はフビライが作らせたパスパ文字で「管軍総把印」と記された元軍の将官クラスの公印であることが判明しました。

これをきっかけとして、地元鷹島町では鷹島海底遺跡を周知の遺跡とし、港湾工事に伴う事前調査などが継続的に行われるようになりました。

鷹島1・2号 沈没船調査

2005年科学研究費補助金を受けた伊万里湾におけるモンゴル襲来の解明を目指した新たな調査研究が開始されました。

その際、 海底音波探査装置を用いて海底詳細地形図と地層堆積情報図を作成し、 異常な反応が見られる海底地点を選び出し、 突き棒調査や試掘調査を行ないました。

これにより鷹島1・2号沈没船が発見されたのです。

明らかになったモンゴル襲来

伊万里湾で実施した音波探査では湾内に周辺陸地と同様の海底中の尾根とその間に形成された谷地形が確認され、モンゴル襲来の際の軍船や関連遺物は谷地形に埋もれていること、またその深さは海底面下約一~二mである可能性が高いことが明らかとなりました。

そこで、谷地形となる海底面について、さらに詳細な海底堆積層情報の取得を進め、 元軍船や大型木製の埋もれた場所を絞り込み、水中考古学手法による試掘調査を行なえば、元軍船をはじめとするモンゴル襲来時のさまざまな遺物に到達することができることを明らかにしました。

鷹島1.2号 沈没船の特徴

鷹島1号沈没船と2号沈没船は基本的に中国船の構造を持っています。

1号沈没船は船底の中心をなす竜骨材と外板と船内を仕切る隔壁材の一部が残っていました。

2号沈没船は隔壁と隔壁に打ち付けた外板材の中の竜骨に近い部分がよく残っています。

1号沈没船と2号沈没船では用いた木材の厚さや隔壁間の奥行長に若干の違いがあり、1号沈没船に比べて2号沈没船がやや小型になります。

発掘後の2艘は砂で埋め戻し、酸素を通さない特製シートで二重に覆って現地保存してあります。

元軍船[復元模型

鷹島海底遺跡で2艘の元軍船が発見されたことを受けて、 松浦市教育委員会では船舶火研究者の安達裕之氏(現、東京大学名誉教授) の監修による元軍船復元模型を制作しました。復元船には2枚の網代幌や船首の椗、 船尾の舵があり、それぞれを動かすための滑車も作り付けられています。

 

5        これからの鷹島海底遺跡

これからの鷹島海底遺跡

二〇一二年三月、 鷹島一号沈没船の発見を受けて、それまでにも多くのモンゴル襲来関連遺物が発掘された鷹島神崎港を中心とする約三八四、〇〇〇㎡の海域が水中遺跡としては日本初となる国史跡 「鷹島神崎遺跡」に指定されました。

遺跡を管理する松浦市(二〇〇六年一月一日に松浦市・福島町・鷹島町が合併)では二〇一四

年三月に「保存管理計画」を策定するとともに、二〇二四年に取りまとめた「松浦文化財保存活用地域計画」では鷹島海底遺跡を中心に据えた新たなまちづくりの取り組むとともに、日本の水中考古学的研究の中核を担う体制作りを進めています。

鷹島1・2号沈没船の現地保存作業

鷹島1・2号沈没船は施設や費用の問題から、現段階で引き揚げることが困難であったため、現地での埋め戻し保存を図っています。

その方法は細かい砂で船体を埋め戻した後、 酸素を通さない特性シートで二重に覆い、 その上を砂嚢袋で押さえて密封しています。

砂の中には溶存酸素濃度計などのモニタリング計器を設置し、 船体を蚕食するフナクイムシなどが生息できない 無酸素状態が維持されていることを定期的に観測しています。

保存処理実験素材

松浦市立埋蔵文化財センターではポリエチレン・グリコールに代わる保存処理材剤としてトレハロースを用いるに際して、予め海底から検出した鉄釘が打たれた木材を用いた保存処理実験を行いました。

ここに展示した資料はこの際の実験素材で、約1年をかけた保存処刑後、すでに8年近くが経過しても木材・鉄釘ともに安定した保存状況を保っています。

引き揚げ遺物の保存処理について

海底遺跡から引き揚げた遺物は早急に保存処理を施すことが必要です。

この際、これまでは保存処理剤にポリエチレングリコールを用いていましたが、保存処理に長時間を要すること、また保存処理後に劣化が起こることが問題となりました。

そこで、これを解決するための新たな保存処理剤として甘味料のトレハロースを用いる手法を開発しました。

今後これを日本発の技術として世界に広めていくことにしています。

大型木製椗の引き上げ

令和4年(2022) 松浦市では2013年に確認していた大型木製綻を引き揚げました。

この際の費用はガバメント・クラウドファンディングで募った浄財を用いました。

引き揚げた大型木製掟は木材部分と錘となる石材部分からなり、木材部分は松浦市立埋蔵文化財センターでトレハロースを用いた保存処理を進めています。

 

現地調査について

松浦市では鷹島海底遺跡についての全国的な関心の広がりに繋げることと、将来の活用に向けた資料収集を目的とした事業を継続的に実施しています。

2023年からは文化庁による補助金を受けた新たな沈没船の検出を目指した調査を開始し、元軍船と思われる複数の木材の並びと13世紀代に位置付けられる中国陶器壺及び白磁碗を確認しました。

この調査は2024年も実施します。

 

6        絵詞に探るモンゴル襲来

絵詞に探るモンゴル襲来

『蒙古襲来絵詞』の世界

750年前、一度目のモンゴル襲来(文永の役)の際、元軍との戦闘に参陣した御家人の竹崎季長は、これを恩賞を得るための格好の機会と捉えました。

しかし、華々しい戦功はなく、そのとき抱えていた所領の訴訟も思い通りに進んでいませんでした。

そこで一念発起し、文永の役における自らの戦功を認めてもらい、恩賞に与ることを目指して鎌倉に上り、幕府の有力御家人への強訴を試みます。

周囲の人々からは見放された退路を断っての鎌倉行きでした。

この竹崎季長に救いの手を伸べた有力御家人が、 安達泰盛です。

はじめは季長の強情さに呆れた泰盛ですが、肥後国守護になることが予定されていたこともあってか、季長の強訴を聞き入れ、肥後国海東郡に所領を与えただけでなく、馬を贈って季長の期待に応えます。

勇躍、肥後に戻った季長は、二度目のモンゴル襲来となる弘安の役に参陣。

そして、あの手この手を使って鷹島での海上戦闘に無理やり参加して敵将を打ち取り、肥後国守護代として戦闘に参加していた安達盛宗(泰盛の子)に戦功を報告しました。

この過程を描いた「絵」と、その説明を記した「詞」からなる絵巻物が『蒙古襲来絵詞』 です。

本学博物館における文永の役750年特別展 Part.2 「絵詞に探るモンゴル襲来 『蒙古襲

来絵詞』の世界―」では、文永・弘安の役に参陣した竹崎季長の覚悟、さらには安達泰盛に対する感謝の思いなど、『蒙古襲来絵詞』に込められた竹崎季長の心情と、『蒙古襲来絵詞』が今日まで伝えられるに至る数奇な物語について出土遺物も交えてご紹介します。

モンゴル襲来が、その後の日本文化に与えた影響も併せてご覧ください。

『蒙古襲来絵詞』 (絵7) に騎馬の竹崎季長の近くで爆発する黒い球状製品が描かれ、 「てつはう」と記されています。

鷹島神崎港改修工事に伴う緊急調査で複数出土したこれらの 「球状土製品」は 『蒙古襲来絵詞』 に描かれた「てつはう」 と考えられます。

1992年に鷹島の神崎海岸で採集された球状土製品は、内部にものが詰まった状態であったことから、 九州国立博物館において X 線 CT スキャン画像を撮影しました。

その結果、内部に小さな鉄片や陶器片、 木片が詰められており、火薬で爆発させると、 かなり殺傷力の高い兵器であることが明らかになりました。

元寇については今村翔吾の「海を破る者」を読んで行くと地理、ルート、人員など随分理解が深まります。

國學院大學博物館の常設展は 國學院大學博物館:日本文化と歴史の宝庫

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