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「映画のまち調布」

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調布市内には、角川大映スタジオ、日活調布撮影所と、2か所の大型撮影所があるほか、高津装飾美術株式会社、東映ラボ・テック株式会社、第96回アカデミー賞で視覚効果賞を受賞した株式会社白組など、約40社の映画・映像関連企業が集まっています。

調布市が「映画のまち」と呼ばれる理由は、その豊かな映画文化と映画産業の歴史にあります。

以下、市内にある関連展示施設を追って、「映画のまち」である由縁を確かめたいと思います。

 

1       調布市郷土資料館展示

「映画のまち」への歩み

調布市内には、 日活と大映の撮影所をはじめ、 映画・映像関連産業が集まっています。

調布の 「映画のまち」 への歩みは、 昭和8(1933)年に日本映画株式会社が多摩川原駅前に多摩川撮影所を開設したことに始まります。 この撮影所の候補地選びに関わったのが、後に調布市長となる本多嘉一郎(ほんだ かいちろう)でした。

 

「映画のまち」のきっかけを作った本多嘉一郎

若い頃は映画の撮影技師でした

本多喜一郎(1903~1980)

調布市4代目市長。昭和37年か昭和53年まで、4期16年を務めました。

京都の東活映画社に所属し、 東京に新たな撮影所を建設するための調査に派遣された本多は、 多摩川の地に目を付けて 「水澄み、時代劇、 現代劇に最適なり」と報告しました。 間もなくして東活映画社は解散となりますが、 東活映画社を母体に日本映画株式会社が設立され、 多摩川に撮影所ができました。

 

昭和30年代 「東洋のハリウッド」 と呼ばれるまでに

その後、昭和9年には日本活動写真株式会社が多摩川撮影所を買収し、 日活多摩川撮影所を開設します。

撮影所北側の高台には社宅が建ち並び、 「日活村」 (後に「大映村」) と呼ばれました。

昭和17年には、戦時下の国策によって日活の製作部門、新興キネマ、 大都映画の3社が統合されて大日本映画製作株式会社となり、日活多摩川撮影所は大映の撮影所 (現在の角川大映スタジオ)となります。

 

大映東京撮影所案内

戦後、映画制作の再開を決定した日活は、昭和29年に下布田 (染地2丁目) に新たな撮影所を建設しました。

昭和30年代には、 大映、 日活に加えて独立プロダクション系の株式会社調布映画撮影所 (多摩川2丁目付近) の3か所で映画が制作され、 調布は「東洋のハリウッド」と呼ばれ

ました。

 

2       角川大映スタジオ

角川大映スタジオの歴史は、1954年に設立された大映映画株式会社の撮影所として始まりました。

1971年に大映が倒産した後、1974年に角川書店が大映を買収し、角川大映スタジオとして再スタートを切りました。

現在も、映画やテレビドラマ、CMなどの制作において重要な役割を果たしています。

入口には大魔神「武神像(平時の優しい顔)」「魔神像(怒った時)」が立っています。

 

3       多摩川5丁目児童遊園

映画発祥の碑

調布・映画発祥の碑

水と緑と澄んだ空気、これは映画産業には欠かすことのできない条件です。

昭和八年一月、調布市多摩川のこの地が最適地に選ばれ、日本映画株式会社が設立され、多摩川スタジオが完成しました。

以来、昭和三十年前後には三つの撮影所、二つの現像所と美術会社を擁し、調布は映画の街「東洋のハリウッド」と謳われました。

しかし、時代の変逸にともない、映画産業はいささかの後退を余儀なくされましたが、その独創性や娯楽性には依然として大きな期待をかけられております。

平成元年映像の持つ意義を考え、調布らしさを確認し、向後(きょうこう)の映像産業の振興を図る目的で、調布市映像まつり実行委員会が組織され、今年で五周年の節目の年を迎えました。

又、今年は多摩東京移管百周年の記念すべき年でもあり、多摩らいふ21協会の協賛を得て、建立したものであります。

平成五年九月二十五日

調布市映像まつり実行委員会

 

映画俳優之碑には有名な俳優の名前がずらりと並んでいます。

4       タコ公園の中にあるガメラ像

 

5       調布駅東口の手形

日活スター手型モニュメント

この作品は、 調布市に所在する日活調布撮影所で活躍し、 多くの功績を残した男優・女優各30人と監督4人の計64人に御協力いただいた「映画のまち調布」ならではの手型モニュメントです。

日活株式会社が平成24年に創立100周年を記念して制作したもので、「トリエ京王調布」のオープンを契機に、 より多くの方に 「映画のまち調「布」を知っていただくため、調布駅に設置しました。

【手型制作に御協力いただいた皆様】

■男優: 石橋蓮司、石原裕次郎、内田裕也、 榎木兵衛、 大杉漣、 岡崎二朗、

小沢昭一、小高雄二、 風間杜夫、 桂小金治、 蟹江敬三、川口恒、

川地民生、小林旭、西郷輝彦、 沢本忠雄、宍戸錠、杉良太郎、 高橋英樹、

地井武男、津川雅彦、 中尾彬、 浜田光夫、深江章喜、 藤竜也、 舟木一夫、

三國連太郎、 安井昌二、 柳瀬志郎、渡哲也 ( 30人)

■女優: 秋吉久美子、浅丘ルリ子、 芦川いづみ、 伊佐山ひろ子、 和泉雅子、

伊藤るり子、 稲垣美穂子、 丘みつ子、 風祭ゆき、 香月美奈子、 片桐夕子、

北原三枝、 笹森礼子、 清水まゆみ、 白川和子、 白木万理、 田代みどり、

谷ナオミ、 月丘夢路、 筑波久子、 十朱幸代、 中原早苗、夏純子、

西尾三枝子、野川由美子、 松原智恵子、 美保純、宮下順子、山本陽子、

吉永小百合 (30人)

■監督: 鈴木清順、 野村孝、 古川卓己、舛田利雄 (4人)

(敬省略・五十音順)

手型モニュメントの配置について

この手型モニュメントは、 日活作品の年度順に、左側縦1列が監督の方々で上から下に、

2列目から右側が俳優の方々で、 左上から右下に、男女交互に並べています。

映画のまち調布とは

調布市内には、日活調布撮影所、角川大映スタジオをはじめ、 高津装飾美術、東映ラボ・テック、 東京現像所など40以上の映画・映像関連企業が集積しています。

これらの企業が集積するきっかけは、 昭和8(1933)年に、 日本映画株式会社が京王電気軌道多摩川原駅 (現在の京王多摩川駅)の近くに開設した多摩川撮影所でした。

撮影所がこの地に作られた理由は、 後に調布市長となり、 「カツドウヤ市長」と呼ばれた本多嘉一郎の回想によると、 「時代劇 現代劇どちらの撮影にもふさわしい自然環境やフィルムの現像に欠かせない良質な地下水があった。」とあり、映画撮影に適した地として選ばれました。

その後、昭和9(1934) 年、 関東大震災で被災した向島撮影所に替わる撮影所用地を探していた日本活動写真株式会社が多摩川撮影所を買収、日活多摩川撮影所が開設されました。

昭和17 (1942)年には、 国策により日活の製作部門と新興キネマ、大都映画が合併して大日本映画製作株式会社 (大映) となり、日活多摩川撮影所は大映撮影所になりました。

戦時中、 映画の配給を行っていた日本活動写真株式会社は、 日活株式会社に社名を変更、映画製作の再開を決定し、調布町下布田(現染地2丁目)に新たに撮影所用地を取得、 昭和29(1954)年3月に東洋一を誇る撮影所が完成しました。

昭和30年代の日本映画全盛期には、大映、 日活に加えて独立プロダクション系の株式会社調布映画撮影所 (現多摩川2丁目あたり)の3か所で映画が制作されるという活況を呈し、 調布は 「東洋のハリウッド」にたとえられました。

これを記念して、かつて大映撮影所の敷地内だった多摩川5丁目児童遊園の一画には、 「映画俳優之碑」 と 「調布映画発祥の碑」が建てられています。

また、現在でも多くの映画・映像関連企業や市民団体と連携し、 プロの映画監督の指導のもと映画作りを体験する、 小学生を対象とした「子どもたちと映画寺子屋」や中学生を対象とした 「調布ジュニア映画塾」、 高校生が制作した作品をプロの映画関係者が審査をする 「高校生フィルムコンテスト」など、 映画・映像を「つくる」 「楽しむ」 「学ぶ」 まちとして、様々な世代に合わせたイベント事業を実施しています。

 

日活の撮影所の写真が未掲載ですが、後程追加します。

昔は、日活芸術学院という専門学校が日活撮影所の中にあったのですが2013年3月末をもって閉校となりました。

学園祭などでは、特殊メークや、劇の披露もあり、楽しませていただきました。

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