史跡

北の丸公園内にある近衛師団跡

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近衛師団(このえしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つで、天皇と皇居を守護するために設立された最精鋭部隊です。

1891年に創設され、主に天皇の警護や儀仗(ぎじょう)任務を担いました。

日清戦争や日露戦争などの戦役にも参加し、戦時には野戦師団として活動しました。

近衛師団は、全国から選抜された兵士で構成され、その名誉ある地位から特別な軍服や装備が与えられました。

太平洋戦争中には、近衛第1師団から第3師団までの3つの師団に再編されました。

戦後、近衛師団は解散されました。

近衛師団は皇居の警護を主な任務としていたため、北の丸にその駐屯地がありました。

1       旧近衛師団司令部庁舎

近衛師団の司令部は、東京都千代田区の北の丸公園南に位置していました。

この場所は、現在では「旧近衛師団司令部庁舎」として知られ、歴史的建造物として保存されています。

 

重要文化財 旧近衛師団司令部庁舎

この建物は、近衛師団司令部庁舎として明治43(1910) 年3月に竣工したもので、 設計者は陸軍技師田村鎮と考えられています。

第2次世界大戦後は、 皇宮警察の寮として使用されましたが、昭和38(1963)年の北の丸地区の森林公園整備計画策定に伴い、取り壊されることとなりました。

しかしながら、この建物は、明治時代の官庁建築の特徴をよく残すものとして現存する数少ない遺構であるため、 その建築的価値を惜しむ声が寄せられ、重要文化財に指定した上で、 東京国立近代美術館工芸館として活用することが決定されました(昭和47(1972)年重要文化財指定)。

昭和48(1973)年から、 美術館施設として活用するための保存修理工事が行われました。

煉瓦壁体には破損が見られたため、 内側に新たに鉄筋コンクリートの構造体を設けて補強するとともに、 屋根を関東大震災後の桟瓦葺から建築当初のスレート葺に復原し、 取り壊されていた軒蛇腹を整備するなど、 創建当初の外観に復しました。

内部は、 保存状態の良かった中央の階段回りとホールの部分のみ当時の姿を残し、建築家谷口吉郎氏の設計により、 美術館仕様に改修しました。

工芸館は、昭和52 (1977) 年11月に開館し、 政府機能移転基本方針により、 令和2 (2020)年10月に石川県金沢市へ移転するまでの間、ここで活動していました。

現在この建物については、今後の保存活用のために、重要文化財保存活用計画を策定しています。

煉瓦造りのゴシック様式の外観のほか、 床下通風口の金具、 玄関アーチ両脇の四葉飾り、 破風 (ペディメント)の頂華(フィニアル)、 大棟中央塔屋のデザインなどをお楽しみください。

(注)

近衛師団は、旧陸軍が北海道から九州までの主要都市に設置した19の師団のうちの一つで、 明治時代から第2次世界大戦終了時まで皇室の警護を担っていました。

 

北白川宮能久親王銅像

弘化四年(一八四七) 伏見宮邦家親王の第九皇子とし御誕生。

嘉永元年(一八四八) 青蓮院宮御相続、安政五年(一八五八) 輪王寺宮御相続、公現法親王(俗名能欠)と称せられ、上野寛永寺の門跡となられる。

明治三年(一八七〇)還俗して伏見宮に御復帰、軍籍に就かれた。

同年勅命によりプロシヤ国留学を命ぜられ、同国歩・砲兵聯隊参謀学校等で兵学を学ばれ、明治十年御帰朝、近衛砲兵聯隊御隊附。

御留学中の同五年北白川宮を御相続遊ばされた。

同十七年陸軍少将に任ぜられ、兵第一旅団長、参謀本部御出仕。

同二十五年陸軍中将に任ぜられ、第六・第四師団長を歴任、同二十八年一月近衛師団長に親補せられ、近衛師団を率いて台湾に御出従、炎熱瘴痺の地で疫病に罹らせ給い、明治二十八年十月二十八日(一八九五) 台南に於て薨去遊ばされた。御年四十九歳。

陸軍大将に任ぜられ、大勲位菊花章頭飾および功三級金鵄勲章を賜わり、国葬を以て豊島岡陵に御棺された。

銅像は、明治三十六年一月二十六日、北の丸に駐屯していた近衛歩兵第一・第二聯隊正門前(現在地より東方六十メートル)に建立されたが、昭和三十八年の丸公園整備計画に従いこの地点に移された。

製作は、渡台時近衛騎兵として側近に仕えた斯界の大家新海竹太郎によるもので、芸術的にも高く評価されている。

鋳造は陸軍砲兵工廠である

建立八十余年を経て若干個所の損傷を見るに至ったので、昭和六十年有志相誇り修復した。

昭和六十年十月二十八日

親王九十年祭にあたり元近衛師団戦友会誌す

 

2       近衛歩兵第二聯隊(連隊)駐屯地跡

近衛歩兵第二聯隊(連隊)記念碑

近衛歩兵第二聯隊は、明治七年一月二十三日、日本陸軍最初の歩兵聯隊として創設され明治天皇より軍旗を親授せられて以来、昭和二十年大東亜戦争の終結に至るまで、七十余年の間比の地に駐屯して日夜皇居の守護に任じ、この間明治十年西南の役、ついで日清日露の各戦役に出戦し更に昭和には、日支事変にて南、佛印へ出征し、輝かしい功を残した。

近衛兵は毎年全国から選抜された、優秀な壮丁を以って編成されていた。

平成十年一月二十三日

近歩二会

3       近衞歩兵第一聯隊(連帯)駐屯地跡

近衞歩兵第一聯隊跡記念碑

近衛歩兵第一聯隊は、日本陸軍最初の歩兵聯隊として創設され、明治七年(一八七四)一月二十三日、明治天皇より軍旗を親授せられて以来、昭和二十年(一九四五)大東亜戦争の終末に至るまで、七十一年余りの間この地に駐屯して、日夜皇居の守護に任じ、大正天皇 今上天皇も皇太子であらせられたとき、それぞれ十年の長きに亘り御在隊遊ばされた名誉ある聯隊である。

西南・日清・日露の各戦役及び日華事変には、軍に従って出征して輝かしい熟功を樹て、大東亜戦争に於いては、帝都防衛の一翼を担った。

近衛兵には、毎年の徴兵検査で全国から厳選された優秀な壮丁を以て充てられていた。

昭和四十二年一月二十三日

全国近步一会

田安門、渡櫓門をくぐり、弾薬庫の名残を留むる大銀杏を仰ぎつつ、ここ聯隊跡記念碑前に佇めば、雄叫の、軍靴の響き耳底を打ち、往年の光栄の日々眼前彷彿たり。

此所は、北トンネルの出口(營庭側)に当たる所、そぞろ怡和園の樹間を縫いて千鳥ヶ淵池畔を逍遙し、赤煉瓦も懐かしき師団司令部に到れば、その傍らに、皇居の守護神・北白川宮能久親王殿下の御銅像の儼然(げんぜん)として屹立(きつりつ)するを見る。

時計台は何処、アーク灯は奈辺(なへん)にありしや。

思い出は津々として尽くるところを知らず。

年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからずとは雖(いえども)も、選ばれて近衛兵となり輦下(れんか)に奉仕せる吾等、たとい魂魄(こんぱく)となりでも永久に皇居を守護し奉らん。

記念碑後方の無料休憩所(第三大隊兵舎前)に芳名録を備えつけてありますから、係員にお申し出の上ご記帳下さい。時間外で休憩所が閉鎖されている場合は、この掲示板裏面の箱の中に名刺等(日付記入)を入れて下さい。

全国近步会

今は静かな公園も、昔は、若い優秀な兵隊さんが全国から集まって来て駐屯していたのですね。

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