史跡

鶴岡八幡宮参拝・あの大銀杏は今どこに

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鶴岡八幡宮へは、鎌倉駅から徒歩で向かいます。

春の兆しが見え始めた3月下旬、天気は、雨模様。

まずは、八幡宮内の大河ドラマ館を目指し、後日日を改めて本殿にお参りに向かいました。

そのため後から撮影した写真は晴天です。

 

1        参道

駅前から若宮大路の二の鳥居に進みます。

時節柄、鳥居前の狛犬はマスク姿です。

ここから、車道の中央にある段葛(だんかずら)に沿って三の鳥居まで進みます。

段葛は、葛石(かずらいし)と呼ばれる石(神社仏閣等の基礎部分の上によく使われるもの)を並べて一段高く作られた参道です。

参道は源頼朝が谷筋に沿って作ったもので段葛は湿地帯を歩きやすくするための工夫でもありました。

昔は二の鳥居から北側の若宮大路の両側には巾3m深さ1mの川が流れていました。

この日は、桜がまだ2分咲き位でした。

段葛は鶴岡八幡宮に近づくにつれて道幅が狭くなります。

これは遠近法によって、実際の距離より長く見えるよう計算されて作られたものです。

2        鶴岡八幡宮

三の鳥居を潜るといよいよ境内です。

正面には太鼓橋。

太鼓橋の左が、平家池、右が源氏池です。

日が沈む西側にある平家池には島が4つ、これは平家の「死」(滅亡)を意味するのだそうです。

日が昇る東側にある源氏池には島が3つ、これは源氏の「産」(繁栄)を意味するのだそうです。

 

こちらが、平家池から「大河ドラマ館」を見たところ。

こちらが源氏池で、弁天島にかかる太鼓橋が見えます。

 

舞殿は義経の妾で舞の名手である静御前が、舞を披露したと言われる若宮廻廊跡に建つ拝殿です。

静御前は源平合戦後、兄の源頼朝と対立した義経と吉野で別れ、鎌倉方に捕らえられ1186年(文治2年)鎌倉に送られました。

頼朝に鶴岡八幡宮社の若宮廻廊で白拍子の舞を命じられた静は、義経を慕う歌を唄い頼朝を激怒させました。

 

「しずやしず しずのおだまき 繰り返し むかしを今になすよしもがな」

(静よ静よと繰り返し私の名を呼んでくださったあの昔のように懐かしい判官様の時めく世に今一度したいものよ)

 

妻の政子が「私が御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」と取り成してなだめたということです。

舞殿から本殿を見上げた。

さていよいよお参りです。

八幡宮の「八」の字はハトの図柄が向かい合わせになっていますが、鳩は戦神である八幡様の使者として扱われでいました。

鳩が、平和のシンボルとなったのは戦後で、旧約聖書に書かれたノアの箱舟の話の中で、ノアが放った鳩が、オリーブの葉を持って戻り、洪水で消滅した地表が再び現れたことを知らせた逸話によります。

ちなみに、鎌倉名物「鳩サブレ」も、八幡宮の「八」の字のハトから来ています。

本殿に登る石段の左手には、若い銀杏の木があります。

もともとは、大銀杏が生えていたのですが、平成22年に倒れてしまいました。

この大銀杏は、3代将軍源実朝を暗殺した公暁が実朝の参拝帰りを待って隠れていたという「隠れ銀杏」ということで有名でした。

20年以上前ですが、参拝した時には健在で、とても簡単に倒れるようには見えませんでしたが、風雪に抗う大木でさえ、時には負けることもあるのですね。

ところで、実朝が襲われたのは、本殿の前と言われています。

ですので、公卿が大銀杏に隠れていたのは作り話という説もあります。

倒れた大銀杏の幹は切断され、根に近い部分が移植されました。

下の写真の左手奥に少し見えます。

 

倒れた銀杏の幹の中間部は、鎌倉文華館鶴岡ミュージアムCafé&Shopに展示されています。

鶴岡八幡宮は、源頼義が奥羽(東北)での戦に勝利し京に帰る途中、1063年(康平6)に鎌倉に立ち寄り、現在の鎌倉市材木座にある由比若宮(元八幡)に源氏の守り神である石清水八幡宮の祭神を移し祀ったのが起源です。

その後、源頼朝が現在の地に移しました。

次回、時間のある時に由比若宮にも行ってみたいと思います。

3        畠山重忠邸址

鶴岡八幡宮に隣接した場所にあります。

畠山重忠は頼朝の旗揚げに際し、初めは平家方として戦いますが、頼朝が石橋山で大敗後、再起をかけて安房国で挙兵すると、頼朝に帰伏しました。

1205年に北条氏に息子の畠山重保とともに滅ぼされます。

正治元年五月 頼朝ノ女三幡姫疾ミ 之ヲ治センガ為 当世ノ名医丹波時長京都ヨリ来レル事アリ 東鑑ニ曰ク七日時長 掃部頭親能ガ亀ヶ谷ノ家ヨリ 畠山次郎重忠ガ南御門ノ宅ニ移住ス 是近々ニ候ゼシメ 姫君ノ御病悩ヲ療治シ奉ランガ為ナリト 此ノ地即チ其ノ南御門ノ宅ノ蹟ナリ

大正十二年三月 鎌倉町青年團

正治元年(1199年)5月、源頼朝の娘三幡が病気にかかり、これを治すために、当時の名医丹波時長が京都から来ました。

吾妻鑑によると、7日に時長が、宿泊先である掃部頭中原親能の亀ガ谷の家から、 畠山次郎重忠の南御門にある宅に移りました。

これは、三幡姫の近い所に居て、姫の病気治療にあたるためです。

この場所が、即ち南御門の家のあった跡です。

人物評が高かった畠山重忠について書くことが無かったのでしょうか。

頼朝の娘の事しか書いてありません。

畠山重保邸址はi一ノ鳥居近くにあり下記ブログで報告しています。

江ノ電一日乗車券で「鎌倉殿の13人」の旅#4 和田塚・畠山重保邸跡と墓塔

鶴岡八幡宮の東にある大倉幕府跡と頼朝の墓はこちら

鎌倉幕府の始まり大倉・源頼朝と大江広元の墓・覚園寺

 

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