静嘉堂文庫美術館「絵画入門 よくわかる神仏と人物のフシギ」展は、古美術に描かれた神様・仏様・人物たちの姿に焦点を当てた、初心者にもやさしい絵画入門展です。2025年7月5日から9月23日まで、東京・丸の内の静嘉堂文庫美術館で開催されています。
夏休み期間中でもあり、子供達にも分かり易いように解説されていました。
ごあいさつ
「よくわかる神仏と人物のフシギ」展へようこそ! 本展は、 絵画に描かれた神仏と人物に焦点を当て、 その背景にある物語や意味をご紹介する入門展です。
美術館や博物館での絵画鑑賞は、 美しい色彩に心を奪われたり、繊細あるいは大胆な筆遣いに感嘆したり、人それぞれに自由な楽しみ方があります。
しかし、「この人は誰?」「何をしているところ?」 「どうしてこんな姿なの?」といった疑問が解ければ、絵を見ることはもっと楽しくなるはずです。
作品に込められた意味を知ることで、その背景にある歴史や人々の想いにも触れることができるでしょう。この展覧会が、 古美術の世界をより身近に感じていただくきっかけとなれば嬉しく思います。
最後になりましたが、 本展の開催にあたり、 ご協力いただいた皆様に心より御礼申し上げます。
和7年7月吉日
目次
1 第1章 やまと絵と高貴な人の姿
日本の風景や風俗を描いたやまと絵では、天皇や貴族といった身分の高い人々を描くときに、いくつかのルールがありました。
本章では、絵画の中で高貴な人々がどのように表現されてきたのかをご紹介します。
みーんな同じ顔?
住吉物語絵巻
継母にしいたげられる姫君が、姫君に一途な想いを寄せる貴族の青年と結ばれて幸せになる「住吉物語」を題材とした絵巻です。
この場面は、姫君の姿と継母の間に生まれた中の君と三の君の袴着 (幼児の成長を祝い初めてを着用する儀式)の様子です。
主人公の姫署をはじめ、 貴族たちの顔は引目鉤鼻で表されています。
桃山~江戸時代 16~17世紀
1.1 引目鉤鼻(ひきめかきばな)
目を細い線で引き、鼻を「く」の字の形で表す引目鉤鼻。
平安時代に生まれたこの技法は、主に貴族の顔を描く時に用いられ、「引目鉤鼻=高貴な人」という記号としての役割を果たしてきました。
お姫さまや貴族の男の人たちがたくさん描かれているね。
自は細い敵を横に長くスーッと引いて、鼻は「く」の字の形で、みんな同じような顔に見えるなあ。
これは「引目鉤鼻」っていう描き方で、身分の篤い人たちの顔を描く時によく使われたんだよ。
あえて感情がわからないような顔にすることで、絵の中の人たちがどんな気持ちなのか、見る人が自由に想像することができるようにしたんだって!
1.2 歌仙絵
歌仙絵とは、優れた歌人の肖像と、その歌人が詠んだ和歌を一緒に表した作品です。
歌人の姿には、実際にその人を見て描いた手本にもとづいたものと、想像で描かれたものがあります。
和歌を作るのが上手だった人たちを歌仙って呼んだんだ。
歌仙絵は、歌仙さんたちの姿を描いた似顔絵なんだよ。
今から800年くらい前の鎌倉時代に「この歌仙さんの姿はこう描く!」っていうルールのようなものが決まっていったんだって。
ずーっと昔の人だから、本物の姿を描いた絵は残ってなくて、想像で描かれた人も混じっているんだけど、この歌仙さんたち、本当にこんな顔だったのかもと思うくらいにみんな個性的だよね!
源公忠(みなもとのきんただ)さんは1000年以上も前の平安時代の人。
本人の姿をスケッチした絵は残ってないから、 この姿は想像で描かれたものなんだって。 でも、お顔をよーく見て! 短い線をちょんちょんってつないでいるよね。
まるでこの絵を描いた人が公忠さんに会って、その場でササッと描いたみたいに見えない?この絵を見た人は「わあ、公忠さんってこんな顔なのか!」って思ったんじゃないかなあ。 この絵を描いた人は、そう思わせたかったのかも!?
三十六歌仙絵は、 平安時代の貴族・ 藤原公任(ふじわらのきんとう)が選んだ36人の歌人を描いた作品です。
業兼本三十六歌仙絵(なりかねほんさんじゅうろっかせんえ)は、 元は絵巻物でしたが、現在は歌仙ごとの断簡になっています。
本作の公忠の面貌は、細い線を重ねて描かれていますが、これは鎌倉時代に流行した、 人物の顔の特徴を精密に描写する似絵の技法を取り入れたものです。
源公忠(みなもとのきんただ)
1.3 天皇の姿
貴族よりもさらに高貴な存在である天皇。
その姿を描くときには様々な工夫があったようです。
弓矢を持っている人たちがいるのがわかるかな?
この絵は、天皇さまのおうち・内裏で1月18日に行われた行事を描いているんだ。
天皇さまはどこにいるかわかるかな? 二か所に描かれているよ。
一か所目は右下のあたり、椅子みたいなところに座っているんだ。
もう一か所は左の方、こっちも同じようなお姿だよ。
「御倚子(ごいし)」っていう特別なイスに座っているから、この人が一番偉いひとって一目でわかるようになっているね。
絵巻の中の天皇の姿
No.6「大内図屏風」は、平安時代末期の宮廷行事を描いた作品です。
承安五節絵隻(左隻、 後期展示) では、儀式の会場に向かう天皇の姿が、 竹によって隠さています【図1】。
これは、高貴な天皇の顔を直接的には描かないという伝統的な表現です。
一方、天皇の顔をあらわに描く例外もありました。
その一つが、 室内の様子を描くために、屋根や天井などを省略する吹抜屋台の場合です。
年中行事絵巻隻 (右隻、 前期展示) では、弓の儀式をご覧になる天皇の姿があらわに描かれています 【図2-3】。
吹抜屋台は絵画表現上のフィクションであるため、 天皇の顔を描くことが許されたのではないかと推測されています。
このように、天皇の姿の描き方には、身分の高さを示すための工夫や、絵画表現上の約束事がありました。
2 第2章 神さまと仏さまの姿
この章では、仏の姿や仏教の世界を描いた仏画、日本の神々がどの仏の化身とされたかを示す垂迹画(すいじゃくが)に加えて、菅原道真や聖徳太子といった信仰の対象となった人々がどのように描かれてきたのかをご紹介します。
それぞれの絵の背景にある思想や物語を紐解いていきましょう。
2.1 垂迹画(すいじゃくが)
仏教の仏が日本の神の姿で現れたという「本地垂迹思想」にもとづいて描かれた垂迹画には、神と仏の対応関係を示すものや、神が住む神社の風景を描くもの、そして神の使を描くものなど、様々な種類があります。
・奈良の春日大社の神さまたちを描いた絵だよ。
人や鬼のような姿で描かれているのが神さま、そこからマンガのふきだしみたいに、モクモクってわき上がった雲に乗っているのが仏さまなんだ。
昔の日本では、仏さまが神さまの姿に変身して、困った人たちを助けにきてくれると考えられていたんだって。
この絵は、 「この神社の神さまの本当の姿はこの仏さま」っていうのを分かりやすく教えてくれているんだよ。
春日本迹曼荼羅(かすが ほんじゃくまんだら)は、 春日野の諸神の上に、それぞれの本地仏を描いた作品です。
本地仏には随所に截金装飾が施され、 雲気も銀で彩色され制作当初はきらびやかに輝いていたことでしょう。
下方には鹿が遊ぶ春日社の二の鳥居周辺の景色が描かれ、 神域への入口を示しているかのようです。
2.2 仏さまの住む世界
当麻曼荼羅(たいままんだら)は、「観無量寿経』という経典に説かれる阿弥陀如来の
極楽浄土の世界を表した絵です。
人々に極楽往生への願いを起こさせ、阿弥陀信仰を広める上で大きな役割を果たしました。
体がピカピカ金色に光った仏さまたちがたくさんいるね。
「浄土」 っていう、 仏さまたちが住んでいる世界を描いた作品だよ。
昔の人たちはこの絵を見て「私も死んだら、こんな素敵なところに行きたいなあ」って一生懸命お祈りしたんだって。
よく見ると、絵のまわりに小さな四角い枠があって、そこにも仏さまや人が描かれているね。
これは、浄土に行くための方法だったり、浄土に生まれ変わりたいと願った人の物語を描いているんだよ。
阿弥陀如来(無量寿如来・むりょうじゅにょらい) の極楽浄土の様を表した作品です。
奈良 当麻寺の「綴織当麻曼荼羅・つづれおりたいままんだら」を、約八分の一の大きさで描き写しています。
金色の極楽浄土世界の端の方を目をこらしてのぞいてみると、 仏たちが愛らしく動く姿が見えてきます。
左右と下の区画に何が描かれているかは、 後方のパネルをご参照ください。
当麻曼荼羅(たいままんだら) 大解剖!
「当麻曼荼羅」 は、 阿弥陀如来が住む極楽浄土の世界を描いた作品です。 『観無量寿経」 という経典と、その詳しい注釈書である 「観無量寿経疏』 の内容をもとに描かれています。 中央には、美しい極楽浄土の世界が広がり、 左右と下部には、 マンガのコマ割りのように、経典に出てくる物語や人々が極楽浄土へ往生する場面が配置されています。
昔々、中将姫っていうお姫さまが、 「極楽浄土に行きたい!」って強く願っていたんだって。すると、阿弥陀如来さまと観音菩薩さまが、女の人の姿に変身して姫の前に現れたんだ。姫は二人と一緒に、蓮の糸を使って、なんと一晩で極楽浄土の絵が描かれた大きな織物を織り上げたんだって!これが当麻曼荼羅だよ。中将姫は亡くなったあと、ちゃんと極楽に行けたんだ。このお話が広まって、この織物を写した絵がいっぱい作られたんだよ。
当麻曼荼羅は、貴族の娘である中将姫が、仏の力を借りて、 蓮糸で一夜にして織りあげたと伝わります。 本書は、 黄檗宗の中国僧・独湛性瑩(どくたんしょうけい)が、 元禄10年(1697) に当麻寺で曼荼羅を見て感動したことをきっかけに記したものです。 康熙(こうき)39年 (1700) に中国で刊行され、その翌年には日本でも出版されました。
中将姫(ちゅうしょうひ)が織った当麻曼荼羅は、素材がとってもデリケート! 長い時間が経つうちに、絵が見えにくくなっちゃったんだ。そのせいか、後の時代に当麻曼荼羅を写した絵を見ると、少しずつ絵が違うことがあるんだよ。それを「フシギだなあ」って思った江戸時代のお坊さんがいろんな当麻曼荼羅の絵を比べて、研究した成果をまとめたのがこの本なんだ。この本の絵と後の当麻曼荼羅の絵は同じかな?比べてみよう!
江戸時代の浄土僧・大順が、当麻曼荼羅を研究し、その内容を分かりやすく図解したものです。 本書の中では、主に鎌倉時代の写しを「古図」、室町時代に写された文亀本(ぶんきぼん)などを「新図」と呼び分け、両者の相違点などを指摘しています。
2.3 天神・菅原道真
学問の神さまとして有名な天神は、平安時代の学者・菅原道真という人でした。
道真の死後に様々な怪異が起こったため、その祟りを鎮めるために、天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)という神として祀られました。
学問の神さまで有名な天神さまは、菅原道真っていう偉い学者さんだったんだ。
道真さんはライバルの藤原時平にだまされて、おうちのあった京都を追い出されて、九州の
大宰府に行くよう命令されちゃったんだ。
道真さんが亡くなったあと、京都では悪いことがたくさん起こって、「道真さんの祟りだ」って言われたんだ。
道真さんの霊をしずめるため、神社に神さまとしておまつりしたんだよ。
この道真さんは、だまされて悔しくて怒っているんだね。
菅原道真は、政敵の藤原時平に無実の罪を着せられ、 大宰府へ左遷されました。
大宰府へ向かう途中に立ち寄った港で、漁師たちが船の綱を敷物にして差し出したという伝説が室町時代に広まり、これをもとにした綱敷天神像(つなしきてんじんぞう)が数多く作られました。
それらの像は、本作のように恨みのこもった怒りの表情で描かれています。
今から500年くらい前の室町時代に、 道真さんが中国に行って、無準師範(ぶじゅんしはん)さんっていう、すごーく偉い禅宗のお坊さんのところで修行をしたっていうお話が広まったんだ。
このお話から、中国に行ってきた道翼さんの姿を描いた絵がいっぱい作られたんだ。
「渡唐天神像(ととうてんじんぞう)」 っていうんだよ。
道真さんは、 中国の服と帽子を身に着けて、 お師匠の無準さんからもらった服を入れた袋を腰にさげて、 大好きだった梅の木の枝を持っているよ。
菅原道真が、夢の中で中国の禅僧・無準師範(1178~1249) のもとへ行き、教えを授かったという渡唐天神伝説にもとづいた絵です。
道真は、頭巾と袖の広い道服(道士の服)を身に着けています。
画面の上部には、京都の相国寺の禅僧で、後に美濃(現在の岐阜県南部) で活躍した万里集九(ばんりしゅうく)が、 渡唐天神を詠んだ長い漢詩が添えられています。
道真さんが、京都から、遠い九州の大宰府へ移動する旅の途中の出来事を描いているよ。休憩しようと港に入ったんだけど、偉い人なのに座るための座布団すらなかったんだ。 それを見た漁師さんたちが、船をつなぎとめておくための綱をグルグルと巻いて敷き物にしてくれたんだって。 実はこのお話を描いたのが、後ろに展示している No. 18 「綱敷天神像」なんだ。道真さんがっている敷き物をよーく見てみて!綱でできているのがわかるかな?
菅原道真の伝記と、天神として祀られてからの霊験をまとめた絵入本です。 江戸時代になると、 天神を題材とした出版物の刊行や芸能が盛んになりましたが、なかには、根拠のない誤った説が採用されてるものもありました。
著者の蓮了(れんりょう)は北野社の僧で、こうした「世上の妄説を正さんが為に」 本番を記したと冒頭で述べています。
2.4 聖德太子
聖徳太子は、冠位十二階や十七条憲法を制定し、遣隋使を派遣して中国の文化を取り入れ、仏教を広めるなど、様々な功績を残しました。
没後すぐに伝説化され、その生涯を描いた聖徳太子絵伝が数多く制作されました。
この絵の主役はぼくだよ! 僕が生まれてからずーっと先のことまでを年齢ごとに分けて描いているんだ。
さて、僕はどこにいるでしょうか? 実は、オレンジ色の服を着ているのが、 ぜんぶ僕なんだ! 同じ色の服を着ているから、どこにいるかすぐにわかるよね。
それにしても、とっても大きな絵だなあ。
もともとお寺にあったんだって。
お堂に飾ってあったのかな?お坊さんが、みんなに僕のお話をしてくれてたのかも!
聖徳太子絵伝は、 聖徳太子の生涯の事蹟を描いた作品です。
太子が亡くなった後、その功績や伝説を後世に伝えるために制作されました。
太子ゆかりの寺院だけでなく、親鸞の夢に太子が現れたという伝承から、浄土真宗の寺院でも盛んに制作されました。
本作は全四幅の絵伝で、 愛知県岡崎の真宗高田派・満性寺に伝来しました。
『仏像図彙・ぶつぞうずい』(『神仏霊像図彙・しんぶつれいぞうずい』)は元禄3年(1690) に義山により編まれ、天明3年(1783)に項目増補・挿図描き直しのうえ再版されました。
神仏の像を挿図入りで初学者向けに平易に解説する入門書ですが、本書のみに確認できる、あるいは本書が初出となる図像や記述も数多く存在します。
3 第3章 道釈画と故事人物画
道教や仏教に関係のある仙人や羅漢、 観音などを描いた道釈画。
中国や日本で古くから親しまれた出来事や歴史上の人物のエピソードを描いた故事人物画。 この章では、 昔の人々にとってはなじみの深かったこれらの作品のテーマを詳しく見ていきましょう。
布袋さんは昔の中国の人で、大きな袋と杖を持って旅して、みんなから少しずつ食べ物とかをもらっていたんだ。 ニコニコしたお顔とまんまるなお腹、 何でも入る大きな袋がトレードマーク!後ろ側には、大きな魚の上に立つ男の子の絵があるよ。
昔の中国で一番の成績をとった人が登れた、 お魚の飾りがついた特別な階段に由来する 「鰲頭独占(ごうとうどくせん)」 っていうお話がもとになっているんだ。 「一番になるぞ!」っていう願いが込められているんだって。
硯屏は硯の周辺に立てる衝笠のこと。 筆を挿す穴のある面に描かれる布袋は唐時代末~五代の僧で、中国では南宋時代以降、弥勒菩薩として信仰されました。 もう一面には童子が大魚の上に立つ姿がされますが、これは科挙の主席合格者のみが鰲(ごう)という魚の表された宮中の階段に上ることに由来する「鰲頭独占」という画題です。
3.1 禅機図
仏教、特に禅宗において、
悟りを開くきっかけとなった出来事を描いた絵を「禅機図」と呼びます
禅宗の教えに出てくる、有名なお坊さんのお話が描かれた絵のことを「禅機図」って言うんだ。この絵では、 智常(ちじょう)さんっていうお坊さんのところに、張水部(ちょうすいぶ)という人が 「教えを授けてください」ってお願いしに来ているんだよ。 智常さんは、指をさしてニヤリと笑っているね。これはどういう意味なんだろう?この絵には色々な意味が隠されていて、見る人によってどう思うかは様々なんだ。 智常さんは何と答えているのか想像してみよう!
樹の下に坐す僧侶は、 中国・唐時代の高僧、帰宗智常、その前で手を合わせているのは、教えを乞いにきた張水部という人物です。
本作は、禅宗の祖師とその周辺の人物にまつわる逸話を主題にした巻子の一部であったと考えられています。 墨の濃淡が巧みに使い分けられ、二人の表情に表れる微妙な感情も的確に捉えられています。
3.2 寒山
寒山は中国・唐時代の伝説的な人物です。
相棒の拾得とともに天台山国清寺に住み、豊干禅師のもとで学びました。
そのユニークな言動が禅宗で好まれ、絵画のテーマとして親しまれてきました。
ちょっと変わった中国のお坊さん、寒山さんを描いた絵だよ。 寒山さんは、相棒の拾得(じっとく)さんとお師匠の豊干(ぶかん)さんと一緒に、で暮らしていたんだって。 この寒山さんは、右手に筆を持って、左手で右の袖をおさえているね。寒山さんは詩を作るのが得意で、竹や石の壁に300以上の詩を書いたんだって!この絵も詩を書いている姿なのかもし
それにしても、目尻が下がって、ニッと笑っていて、髪はボサボサで、 フシギな姿だなあ。
寒山は、中国・唐時代の伝説的な禅僧で、奇行で知られています。本作の寒山は、右手に
筆を持ち、 左手で右袖を押さえる立ち姿で、独特な笑みが印象的です。 太い衣の線とは対照的に、顔や手足は繊細に表現されています。 寒山は、 相棒の拾得と描かれることが多く、本作も常盤山文庫が所蔵する 「拾得図」と一対の作品でした。
3.3 観音
観音菩薩は、インドの南端の海岸にあるという補陀落山(ふだらくせん)に住む仏です。
『法華経』普門品という経典に、観音菩薩について詳しく書かれており、三十三の異なる姿に変身して、人々を救うと説かれています。
観音さまは、遠いインドの山に住む仏さまだよ。 白衣観音さまは、白い服を着ているんだけど、どうして白い服なのかは、 実ははっきりとはわかっていないんだって。 「白」は、きれいな心を表しているんじゃないかとか、 「白衣」 にはお坊さんじゃない人が着る服っていう意味があるから、 お寺じゃなくて、おうちでがんばって修行している人の姿を白衣観音さまのモデルにしたんじゃないかとか、いろいろ言われているんだよ。
白衣観音が岩窟のなかで瞑想しています。
観音の周囲には金色の円相が広がり、 上方では韋駄天と四天王が見守り、下方からは竜が現れ赤い宝珠を捧げます。 賛(さん)を記す慧明(けいめい)(1318~86) は、 明代初期の臨済宗の僧。 「霊隠住山(れいいんじゅうざん)」 とあるため、 着賛(ちゃくさん)時期は彼が杭州・霊隠寺(れいいんじ)に住した洪武(こうぶ)11年 (1378) 以後示寂(しじゃく)までに限定されます。
江戸時代の絵師・狩野探幽 (1602~74) が様々な絵を写した 「探幽縮図』 を、 石川大浪が模写して出版した版本です。 No.29 「寒山図」の縮図が確認できます。 「寒山図」は常盤山文庫が所蔵する「拾得図」とセットで日本に伝わりました。 しかし、この本には 「拾得図」の縮図が無く、探幽が写した時点で、所蔵者が別々になっていた可能性が考えられます。
この絵も観音さまを描いた絵だよ。 絵の左下に、小さな男の子が描かれているね。
彼の名前は善財童子。とても綺麗な心を持ったまじめな子だったんだ。 正しい仏教の知識を教えてくれる人たちに会うために長い旅に出て、その旅の中で観音さまにも会いに来たんだ。この絵は、その時の姿を描いているんだよ。 だから、観音さまを描いた絵では、善童子が一緒に描かれることがよくあるんだ。
ほかの美術館や博物館でも探してみよう!
観音菩薩と善財童子が対峙しています。 善財童子は悟りを求め、 正しい教えに導いてくれる善知識を尋ねる旅の途中、 28番目に観音菩薩に出会いました ( 『華厳経』 入法界品)。
本作は一般的な「水月観音」 のように観音菩薩を水辺に竹と共に描くだけでなく、松、竹、梅の構成とするめずらしい作品です。
3.4 羅 漢
羅漢とは、釈迦の弟子で、厳しい修行によって悟りを開いた聖者のこと。
人々から尊敬や供養を受けるにふさわしい存在とされています。
釈迦から、この世で仏法を守り伝えるという大切な役割を任されています。
山の中で、白い服を着た一人の羅漢さんが、静かに座って目を瞑(つむ)っているね。
よく見ると、おでこやまゆの間には深いしわがあって、まゆげとあごひげはながーく伸びているよ。胸元にはあばら骨が浮いていて、とっても長い時間、ここで修行をしているんだってことがわかるね。 あっ! お腹のところに口を開けた大きな蛇が! 危ない!! でも、羅漢さんは全く驚いていないみたい。 修行をすると、蛇も怖くなくなるのかなあ。
湿気を帯びた空気が満ちる深い山の中、 白衣をまとった羅漢が一人で瞑想しています。 額のしわや浮き出たあばら骨は、長い修行の年月を物語っています。 口を開けた大蛇が迫るも 羅漢は動じません。 中国南宋時代の禅僧、牧谿(もっけい)の作で、室町幕府三代将軍・足利義満 (1358~1408) の所蔵を示す 「天山」印が捺されています。
羅漢さんは、お釈迦さまの弟子で、厳しい修行をして悟りを開いたすごい人なんだ。お釈迦さまに頼まれて、仏教をたくさんの人に伝える役目があるんだよ。 だからみんなに尊敬されているんだ。 この絵でも、そんな大事な役目を果たしている羅漢さんのために、お供えをする人がいるね。鹿さんもキノコをあげているよ。 「羅漢」って難しい漢字だけど、美術館やお寺でよく会う人たちだから、 羅漢=お釈迦さまの弟子って覚えて帰ろう!
山中で椅子に坐す羅漢の姿を描いた作品です。 香箱を持つ従者、 その箱の中に手を伸ばす供養者(供物を捧げる人)、そして霊芝(キノコ) をくわえて羅漢に捧げる鹿が描かれています。 本作と一具であったとみられる羅漢図が確認されており、 十六あるいは十八羅漢図のうちの一幅であったようです。
羅漢さんの中でも、とくにすごい16人のことを 「十六羅漢」 って言うんだ。 これに二人を足した 「十八羅漢」 もあったんだよ。
この羅漢さんの絵の右上の方を見て!なんだか難しそうな漢字が書いてあるのがわかるかな?上から二つの文字は、「第六」 って書いてあるんだ。 この羅漢さんは、 十六羅漢か十八羅漢を描いた絵の六番目の羅漢さんだったみたい! ほかの仲間はどんな姿だったのかなあ?
膝を抱えて座る羅漢の姿を描いています。
中国五代時代 (907~960) の蜀で活躍した画僧、禅月大師貫休(ぜんげつだい し かんきゅう)の作と伝わります。 実際には、300年以上あとの元時代に制作された作品です。 彼が描いたと伝わる羅漢図は「禅月様羅漢図」 と呼ばれました。 雨乞いなどの儀式で使われ、数多くの模本が作られました。
3.5 故事人物画
故事とは、遠い昔の出来事や、言い伝えられてきた伝説のこと。
特に中国の歴史や文化、文学から生まれた故事には、教訓や心を揺さぶるエピソードがあり、絵の題材としても多くの人々に愛されてきました。
昔の中国に、とても頭のいい老子っていうお爺さんがいたんだ。
周という国で働いていたんだけど、静かに暮らしたくて、牛に乗って旅に出たんだって。 函谷関っていう関所を通ろうとした時、そこのお役人の尹喜(いんき)さんが「この人はただ者じゃない!」って気がついて、「そのすごい知恵を書き残してください」ってお願いしたんだ。
それが老子さんが手に持っている巻物だよ。
このお話が有名になったから、 老子さんは牛に乗る姿で描かれることが多いんだ。
中国春秋時代の思想家である老子が、函谷関という関所で、 関守の尹喜(いんき)に 『道徳経』を授けたという伝説を描いた作品です。
水牛に乗る老子と、対面する尹喜の姿が描かれています。
老子は、絵画ではこの水牛に乗った姿でよく表現されました。
本作の右上に記される「贈」の文字から、この掛軸は旅立つ人への贈り物であったと考えられます。
素晴らしい書の才能を持ち「書聖」と称された中国・東晋時代の政治家、 王羲之 (307~365)の逸話を描いた作品です。 王羲之が美しいガチョウを手に入れるために、飼い主の道士の願いに応じて、『道徳経』を書き上げて交換した故事を題材としています。 のちに、 「換鵞(かんが)」は書道を指す言葉となりました。
字を書くのがとっても上手だった中国の王羲之さん。ガチョウが大好きで、ガチョウの動きを見て字のアイディアをもらっていたらしいよ。
ある日、きれいなガチョウがいるのを知って、どうしても欲しくなっちゃったんだ。
飼い主さんが「王羲之さんが書いたお経と交換ならいいよ」って言うから、わざわざながーいお経を書いて交換したんだって! 「書の神様」と呼ばれるほどすごい人なのに、ガチョウのためならなんでもしちゃうんだね。
この絵の右側にいるのは、 昔の中国にいた林和靖(りんなせい)さんっていう人だよ。詩を作るのがとっても上手だったんだって。 林和靖さんは、20年も山の中で一人で暮らしていたんだ。
梅を奥さんみたいに愛して、鶴を子どもみたいに可愛がったから、 「梅妻鶴子」っていう言葉にもなったんだよ。この絵でも、新しく梅の木を植えようとしているみたいだね! 「詩も素敵だし、生き方もかっこいい!」 って、中国だけじゃなくて日本でも尊敬された人だったんだ。
中国のお坊さん・慧可(えか)さんは、 蓮磨さんの弟子になりたくて、何度もお願いしたんだけど、達磨さんは認めてくれなかったんだ。
そこで慧可さんは、自分の決心を伝えるために、なんと左腕を切って磨さんに差し出したの!
この行動で、 達磨さんに意可さんの本気が伝わって、弟子にしてくれたんだって。 「慧可断」って言って、慧可さんの強い思いを表すお話として有名だけど、腕を切っちゃうのは絶対ダメだよ!真似しないでね!
こに描かれているのは、禅宗のお坊さんたち! 禅宗は座禅を通した体験を大切にしている仏教のグループだよ。 禅宗では、師匠から弟子へ大切な教えが順番に受け継がれていくのを、すごく大事にしているんだ。
列祖像っていうのは、このお坊さんから次のお坊さんへ…って、大切な教えが順番に伝わってきたことが、目で見てわかるように作られた絵なんだよ。 バトンリレーみたいだね!
禅宗を開いた達磨さんからはじまるよ。
禅宗の初祖・磨から始まる28人の祖師の半身像を円窓のなかに描いています。 禅宗では、教えを師から弟子へ継承することを特に大切にしました。 本作のように祖師の姿を並べて描く列祖像は、こうした考えを反映しています。本作は、片面に吉山明兆筆(きっさんみょうちょうひつ)と伝わる絵、もう片面には狩野探幽がそれを写した絵が貼られています。
達磨と布袋 そして17人の羅漢を描いた作品です。 作者の雪庵は、衣食住への欲望を断ち切る頭陀行(ずだぎょう)を重じる、 頭陀教の第11代目のリーダーでした。 蓮磨の図は、頭陀教が禅崇の教えを取り入れたことを、希袋は、 弥勒菩薩の化身とされたことから、 頭陀教の信仰対象であった弥勒を表している可能性が指摘されています。
右の絵は達磨さん、 左は布袋さんだよ。
達磨さんは壁に向かって9年も座り続ける修行をして、禅宗を開いたすごい人。この修行をしている姿が 赤くて丸いだるまのモデルになったんだよ。 布袋さんは、このお部屋のNo.26 「五彩頭独占・布袋図硯屏」のところでも紹介したね。亡くなる前に 「動菩薩さまは色んな姿でこの世界にいる」 って言ったんだって。それから、布袋さん自身が弥勒菩薩さまの化身だと考えられるようになったんだよ。
江戸時代の絵師・狩野探幽 (1602~74) が様々な絵を写した 『探幽縮図』 を、 石川大浪が模写して出版した版本です。 No.29 「寒山図」の縮図が確認できます。 「寒山図」は常盤山文庫が所蔵する「拾得図」 とセットで日本に伝わりました。 しかし、この本には 「拾得図」の縮図が無く、 探幽が写した時点で、 所蔵者が別々になっていた可能性が考えられます。
今から1000年くらい前の中国にいた、司馬温公さんのお話だよ。 ある日、大きな水がめの中にお友だちが落ちちゃって大変! 温公さんは、すぐに右でかめを割って、お友だちを助けたんだ。温公さんは、水がめを割っちゃって、 お父さんに怒られるかなぁ…って思ったけど、お父さんは「どんなに高価なものよりも命が一番大切だよ」 ってほめてくれたんだって。このお話はとても有名で、 日光東照宮の陽明門の彫刻にもなっているよ
中国・北宋時代の政治家であり学者でもあった司馬光 (温公、1019~86) が、 水瓶に落ちた友人をとっさの機転で助けたという故事を描いています。心配したり慌てたりする子供ちの愛らしい表情にご注目ください。
3.6 異国の人々
異国の人物を描く絵は古くから存在しましたが、特に室町時代から江戸時代にかけては、海外への憧れや異文化への関心が高まり、襖絵や屏風などの大画面に異国の人々を描いた作品が盛んに制作されました。
琴棋書画とは、 中国の知識人が大切にした四つの教養、琴(琴の演奏)、棋 (囲碁)、書(書道)、画(絵画) のことです。 この画題は日本で好まれ、 狩野派の絵師たちを中心に、室町時代以降に盛んに描かれました。
琴棋書画(きんきしょが)は、昔の中国の賢い人たちが大切にしていた4つのことだよ。
「琴」は楽器の琴を弾くこと。 「棋」 は囲碁で遊ぶこと。
「書」は本を読んでいろんなことを学んだり、学を上手に書いたりすること。 そして 「画」は、絵を描いたり、素晴しい絵を見たりすることなんだ。
これらを身につけるのは、心が豊かになるための大切なことだったんだって。 だから、賢い人たちみたいになれるように、 お部屋の襖とか屏風みたいな大きな絵によく描かれたんだよ。