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世界遺産・沖縄三山時代の北山の本拠地・今帰仁城跡

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今帰仁城は沖縄が北山、中山、南山と分かれて統治されていた時代(1300~1400)、北山の本拠地で、周囲を断崖に囲まれ難攻不落の城でした。

15世紀初頭、 今帰仁グスクを居城とする北山王攀安知(ほくざんおう はん あんち)は、 中山王尚巴志(ちゅうざんおう しょうはし)の率いる軍に攻められます。

これを今帰仁城の戦いと言います。

尚巴志は、北山の副将で強欲と評判の高い木部平原(もとぶてーはら)らを調略し、中山側に寝返えらせたことで落城します。

その後、 監守制度 (1422年~1665年)がしかれ首里王府から派遣された監守によって北部地域が統治されました。

今帰仁グスクは琉球が尚氏によって統一される前、 沖縄島が山北、中山、山南の三国に分かれていた時代の山北王の居城でした。

今帰仁グスクは主郭発掘調査の成果から1200年代後半頃に築城がはじまったことがわかっています。

1400年代前半には中山の尚巴志によって攻め滅ぼされ、 その後は中山から監守が派遣されました。

1609年の薩摩侵攻の際に今帰仁グスクは火を放たれ、 1665年の監守の首里への引き揚げにより廃城となります。

城としての特徴は、 石積みで区画された10の郭からなる連郭式の山城で、 特に高石垣を曲線的に積み上げるところに琉球独自の技術を見ることができます。

また、沖縄県内の多くのグスクでみられるような琉球石灰岩と違い、 ねずみ色で非常に硬い古期石灰岩が使用されています。

大隅や外郭の大きく蛇行する石垣は優美な曲線を描き、その蛇行する様は、琉球の古謡集「おもろさうし」 に 「百曲がり」と謡われ、 城内には現在でも多くの参詣者が訪れる御嶽・拝所が存在し、 沖縄における屈指の名城です。

 

1       石材

世界遺産登録資産の石垣石材

「琉球王国のグスク及び関連遺産群」 として世界遺産に登録されたグスクは今帰仁城跡、 首里城跡、 勝連城跡、 座喜味城跡、中城城跡の5つの遺跡があります。

いずれのグスクも城壁は石垣で築かれています。

石垣の構築技術は、 中国や朝鮮など大陸からの影響と考えられていて、これを琉球独自に発達させたものとされています。

この石垣には石灰岩という石が使われていますが、それぞれのグスクが立地する土地によって石灰岩の種類が異なるため、各城で個性ある石垣が築かれています。

勝連城跡・中城城跡・首里城跡の城壁の石材

沖縄本島中南部の城壁に用いる石材は、 琉球石灰岩と呼ばれています。

これは今から約数万~数十万年ほど前の新生代の堆積層で、白色で軟らかいのが特徴です。

石材はそれぞれのグスクの立地する土地やその周辺の地層から採石したものが使われたと考えられています。

城壁は、今帰仁城跡の城壁の石材に比べ加工が容易なため、大きな石材から形を整えることができました。

また、 アーチ状の門を造るなど城壁の築城技術も発展しました。

一つ一つの石材は当時の石造文化を知る貴重な資料です。

今帰仁城跡の城壁の石材

今帰仁城跡の城壁に用いる石材は、 今から約2億3000万年前の堆積層で、比較的古いタイプの石灰岩です。

石はねずみ色で硬いのが特徴で、 石材は今帰仁城跡の立地する土地やその周辺の地層から採石されたものが使われたと考えられています。

城壁は、この石灰岩を一つ一つ積み上げてつくられています。

城壁の壁面に並ぶ石は面石(つらいし)と呼ばれ、 なるべく直方体の形の整った石材を選び、 最も高い石垣は7mまで積み上げています。

今帰仁城跡の城壁は、当時の優れた技術力と恵まれた石材で積み上げられたものです。

首里城跡の石材

城壁の石の中に見られる化石

沖縄の城壁の多くは、 数万~数十万年ほど前のサンゴ礁からできた琉球石灰岩で造られていますが、 今帰仁城跡の城壁には周辺の地層 (今帰仁層) から採れる約2億3000万年前の中生代の古い石灰岩が使われています。

この石灰岩には、 今から約4億~6千5百万年ほど前の海の中に棲んでいたアンモナイトの化石が含まれています。

アンモナイトは、イカやタコの仲間で、 現在のオウムガイに近い生物です。

今帰仁村周辺の地層からは、44種類ものアンモナイトの化石が発見されており、琉球列島の地史を知るための貴重な資料となっています。

2       外郭

崩れた石垣

 

レコーラウーニ

今帰仁城跡外郭に、二つの土盛りがあります。

舟をかたどったもので、一つは今帰仁ウーニ、 もう一つは本部ウーニと呼ばれています。

今帰仁城跡のある今泊(いまとまり)集落では、旧盆明けの亥の日をはさんで3日間海神祭(ウンジャミ)の祭祀が行われます。

その1日目がウーニフジ (御舟漕ぎ) と呼ばれる行事で、 それぞれのウーニに竹を3本ずつ立てて祈願をします。

その後、竹を櫂に見立て、 平邸門まで歩き、そこでも祈願を行います。

現在の祭祀は簡略化されていますが、 ノロと呼ばれる女性の祭祀者を中心として、各一門から出される神人(かみんちゅ)や区長や書記など代表者とともに祈願が行われています。

炉跡を伴う掘立柱(ほっ たてばしら)建物跡

2007~2009年の発掘調査で、 方形に掘られた穴 (炉跡) とその周囲に6本の柱穴が確認されました。

方式の穴の中は火を受けて赤く焼けており、底の部分からは焼けて炭になったイネやムギなどの植物の種が見つかりました。

このことから調理に使われた遺構と考えられました。

城内ではこのような遺構がまだ確認されていないことから、この場所 (外郭) は台所として使用されていた可能性が考えられます。

また、同時に出土した中国の焼物の年代から、 使われた時期は14世紀後半~15世紀前半と考えられます。

炉跡を伴う掘立柱建物跡 (SB02)

平成19~20 (2007~2008)年の調査で炉跡とそれに伴う掘立柱建物が確認されました。

炉跡を中心に周囲には6本の柱穴が配されていました。

炉跡は奥行き約240cm 幅約170cm、 深さ約80cmで、 壁や床は火を受けて赤く焼けていました。

炉の最下層から多くの炭化種子 (イネ ムギ・アワ等)が確認されたことから、 調理の際に使用された食に関わる遺構と考えられます。

炉跡から出土した陶磁器の年代から、 使用されたのは主に14世紀後半で、 15世紀前半頃に廃棄されたようです。

 

3       平郎門

「琉球王国のグスク及び関連遺産群」

世界遺產

2000年12月2日、 今帰仁城跡は 「琉球王国のグスク及び関連遺産群」のひとつとして、ユネスコの「世界遺産条約」 に基づく世界遺産リストに登録されました。

全世界の人々のために保護すべき遺産として、 特に優れて普遍的な価値のあるものが、このリストに登録されます。

今帰仁城跡

かつて琉球に統一王国が樹立する以前の三山時代 (北山、 中山、 南山) 北山王の居城として 「今帰仁城」 が築かれ、 沖縄本島北部 (やんばる) の政治、経済、文化の拠点となったグスクである。 今帰仁城は15世紀初頭まで隆盛を極めるが、 北山最後の王、 攀安知が1416年に尚巴志の率いる連合軍によって滅ぼされてしまう。 その後、 監守制度 (1422年~1665年)がしかれ首里王府から派遣された監守によって北部地域が統治された。

平郎門

平郎門の名称は、 1713年に編集された 『琉球国由来記』に「北山王者、本門、 平郎門ヲ守護ス」 と記載され登場します。

1742年に描かれた 『今帰仁旧城図』 の史料にはこの場所が「本門」として記されています。

2つの史料から、今帰仁城の重要な門がこの門で、 平郎門と呼ばれていたことが分かります。

しかし、城としての機能を終え300年以上経った1900年代初め頃には、既に門は大きく崩落していたことが分かっています。

1961年12月から翌年4月頃に現在の門の形に修理が行われました。

 

平郎門を過ぎると観光用の石畳が続きます。

両側には咲き始めたヒカンザクラが並んでいました。

満開時はさぞ美しい景色になることでしょう。

4       大隅郭(うーしみ かく)

丙楼門をくぐって左側の石のゴロゴロした空き地が大隅郭です。

大隅郭(うーしみ かく)

かつて、戦時に備え馬を養い、 城兵達の訓練場であったと伝えられています。

また、 ここには城外に抜けることのできる抜け穴があると伝えられています。

本格的な発掘調査は行われておらず、今後の調査が期待される郭の一つです。

大隅郭とそのわきの通路には、 1950年代と1960年代にヒカンザクラが植えられました。 このヒカンザクラは、日本で最初に開花し、 毎年1月中旬から2月上旬にかけて花を咲かせます。

 

5       カーザフ

丙楼門をくぐって右にあります。

カーザフ

城内でも一段と低い所で、 沖縄の方言でカーは 「川や湧泉」を、ザフは 「迫 (谷間)」を意味します。 ここは自然の石が露頭しており、 岩盤に直接積んだ堅固な石積みは、かつて城壁として鉄壁を誇ったものと想像することができます。

 

6       旧道

上の大庭から下り方向で撮影しました。

旧道

平郎門から直線的に伸びる石階段は、1960年代に整備された階段です。

本来の登城道は、 平郎門から城内へ向かって石階段の右手側にあります。

1980年の発掘調査によって石敷きの小道が発見されています。

旧道は、大きな岩盤の谷間を利用して、道幅を狭く造り、敵兵が攻め入っても大勢の兵隊が上の郭まで一気に入れないように工夫されたつくりになっています。

 

7       大庭(うーみやー)

大庭(うーみやー)

政治・宗教儀式が行われたと考えられる場所で、 首里城の御庭(うなー)と同様の機能を有していた郭と考えられています。

七五三の階段を登ってきて大庭を取り囲むように、正面には正殿(主郭)、 右側が南殿、北側の一段高いところに北殿跡があったと考えられます。

北殿跡には、 建物跡とみられる礎石が今も残っています。
写真は旧暦八月のグスクウイミと呼ばれる年中祭祀で、今帰仁グスクの祭祀を司る今帰仁ノロによって、 村の安全・子孫繁栄・世果報(ゆがふ)を祈願します。

 

 

8       志慶真乙樽(しげま うとうだる)の歌碑

志慶真乙樽(しげま うとうだる)の歌碑
今帰仁の城 しもなりの九年母(くにぶ)
志慶真樽がぬきゃいはきゃい
大意:今帰仁グスクの南にある志慶真ムラという集落に 「乙樽」 という美女がいました。
黒髪が美しい乙女の噂は国中に広がり 「今帰仁御神」と呼ばれ時の山北王も側室として仕えさせました。

なに不自由なく暮らす幸福な毎日を過ごしましたが、 高齢の王には長い間後継ぎが無く、王妃も乙樽も世継ぎを授かることばかりを祈っていました。

やがて王妃が子を授かり、 そのことを季節はずれの蜜柑(みかん)が実ったことに例え、 子供のはしゃぐ声に満ちた平和な様子を謡っています。

9       ソイツギ (城内下之御嶽)

ソイツギ (城内下之御嶽)

今帰仁城跡内には御嶽のイベ (最も聖なる場所)が2つあります。 大庭の北西にあるソイツギは、 『琉球国由来記』(1713年) に 「城内下之嶽」、 神名「ソイツギノイシズ御イベ」と記され、 旧暦八月のグスクウイミという祭祀の時、今帰仁ノロが五穀豊穣等を祈願します。
御内原にあるテンチジアマチジ(「城内上之御嶽」)や神ハサギ跡と共に祭祀場として拝まれます 。

 

10  御内原(うーちばる)

海が近いですね。

保元の乱(1156年)で敗れ、伊豆大島から逃れて沖縄に渡り、その子孫(舜天王)が琉球の王になったとする源為朝伝説は、今帰仁村にある「運天(うんてん)港」、為朝が「運を天に任せて」流れ着いた場所か琉球の起点となっています。

御内原(うーちばる)

北殿(ぼくでん)跡の北側にある一段高いところを御内原と呼んでいます。

この場所は伝説では女官部屋があったと伝えられており、 城内で最も重要な御嶽(イベ)があります。

特に御内原の北端からの眺望は、城内で最も開けていて今帰仁城跡の城壁のほぼ全てを望むことが出来ます。

また国頭の山並みや離島の伊平屋(いへや)・伊是名(いぜな)島を眺めることもできます。 特に晴れた日には、沖縄本島北端の辺戸岬(へどみさき)の先22km洋上にある与論島 (鹿児島県大島郡) を見ることが出来ます。

11  主郭(俗称本丸)

今帰仁里主所火の神 火の神(なきじんさとぬしどころ ひのかみ)この祠は「今帰仁里主所火の神」と呼ばれ、第二尚氏時代の北山監守一族の火の神が祀られています。

琉球土着の信仰において、火之神は火を司る神様です。

火は家とそこに住む人々を守ると信じられており、今日でも多くの沖縄の家では台所に火之神を祀ったりしています。

北山監守は1665年に首里に引き揚げますが、かつての根所(旧宅地)の火の神として崇められてきました。

旧暦八月十日には今帰仁ノロ以下の神人が城ウイミの祭祀を現在も行っています。

この火の神の祠は戦後に改築したもので城跡の整備事業に伴い現位置に移されました。

祠の中には香炉と火の神を象徴する石が置かれており、今でも門中の行事である今帰仁上りの重要な拝所として参詣者が絶えません。

山北今帰仁城監守来歴碑(さん ほくなきじん じょうかん しゅ らい れきひ)

今帰仁按司(あじ)十世宣謨(せんも)が、 1749 年に首里王府から今帰仁城の永代管理と典礼を司ることを許されたことを記念し、 故地を顕彰すべく建立しました。

今帰仁監守は尚巴志が1416年に山北王を滅ぼした 5年後に第二子尚忠を派遣に始まり、その後、尚真王代に第三子尚韶威(しょうしょうい)を派遣し、以後同家が代々世襲で現地の監守を勤めました。
碑文の内容は、三山時代の事績から説き起こし、今帰仁按司が今帰仁城を立派に治めたことを記し、 後世の子孫に伝えるための顕彰碑となっています。

同碑文は保存状態も良く琉球王国時代の地方監守の歴史を知る上で貴重な資料です。

発掘調査からみた 今帰仁城主郭の変遷

今帰仁城主郭 (俗称本丸)は、1982年から4年の期間をかけて発掘調査が行われました。その結果、主郭は13世紀末頃から17世紀前期まで機能していたことがわかりました。

また、 検出された遺構や遺物からして、大きく4期に区分できることがわかりました。

第1期 (13世紀末~14世紀前期)
土地の有力者が、 この地にグスクを構えることにしました。

ところが、 当時の地形は岩山で平坦地は在りませんでした。

そこで先ず、 山頂部の岩盤を削り平らにし、次に東西に傾斜した斜面に土留めの石積を築き、その内側に土を入れ版築敷地を造成しました。

館は、掘立柱の建物でしたが、周りを柵で囲い、外敵の侵入に備えていたと考えられます。 (植栽したオキナワツゲの木は、 柵跡を示したものです。)

第Ⅱ期 (14世紀中期)
柵のかわりに石垣が築かれます。

また、掘立柱建物にかわり、礎石建ての正殿 (翼廊付基壇建物・よくろうつき きだんたてもの) が建てられました。

いわゆる城 (グスク) としての形が整います。
また、地元産の土器を多く使用していた第Ⅰ期に比べ、中国産の陶磁器の使用が増え、今帰仁城の勢力が強くなっていく様子が窺えます。

第Ⅲ期 (14世紀後半 ~15世紀前期)
今帰仁城が、 最も栄えた時期です。

第Ⅱ期の敷地よりも、更に拡張され主郭が現在の面積に達しました。

また、この時期に初めて文献資料にも登場し、 とくに、中国との貿易が行なわれていたことがわかっています。

それを裏付けるように中国産の陶磁器が最も多量に出土しています。

建物は、礎石建てで、一棟は敷地南寄りに確認されました。

 

第IV期 (15世紀前期~17世紀前期)
中山王(尚氏)に征服され、今帰仁城の繁栄の時期が終わりました。

しかし、 中山より遠隔地にあるため、 同城が謀反を起こすのを恐れ、 それを阻止するため中山より監守 (役人)が来て、 北部地域を治める拠点として使用された時期です。

敷地中央に並んでいる礎石は、その監守時代の建物跡です。

 

12  カラウカー

カラウカー

常時水をたたえていたと伝わる場所で、かつて女官たちが髪を洗ったり、 水量で吉凶を占ったりした場所と伝えられています。 旧暦7月盆明けに行われる今泊区の祭祀行事である大折目(うぶういみ)の際には、 今帰仁ノロ率いる神人たちが巡拝する場所となっていました。

13  志慶真門郭(しげまじょうかく)

今帰仁城の戦いでは、本部平原(もとぶてーら)らがこの城郭へ中山軍を引き入れました。

 

志慶真門郭(しげまじょうかく)

この郭の後門からは、急勾配の斜面に沿って下の志慶真川に行くことができ、この川で汲まれた水が城の用水のほとんどを賄っていました。

発掘調査で、平坦面に建てられた4棟の建物の遺構が発見されました。

瓦が出土しないことから、 茅か板で屋根を葺いた掘立柱建物であったと考えられています。

明朝時代の陶器の破片も大量に見つかっており、日常的に使われていたことを示していて、当時の経済力の高さと中国との盛んな交易を証明しています。

また、 矢じりなどの武具が出土しており、建物が家臣の住居であったことを示唆しています。

後門を防衛する戦略的な位置どりと、 主要な郭との近さおよび行き来のしやすさから、 志慶真門郭は王の側近が住んでいた場所であると考えられています。

志慶真門郭(しげまじょうかく)

今帰仁城の山手側にかつて志慶真集落があったと伝えられ、 この集落へ通じる門は志慶真門と呼ばれています。

この地区は、 志慶真川がつくる渓谷を利用して築かれた天然の要塞です。

1981年から発掘調査が実施され、4棟の建物跡等が確認されています。

 

14  歴史文化センター

このコンクリートの柱は今帰仁城跡にあった鳥居の脚部分である。

鳥居は、昭和5年に関西今泊岡山支部などの寄付と大勢の今泊区民が汗を流して建設したものである。 高さ約7.3m、幅約10.6mの大きなものであった。

今帰仁村教育委員会

平成15年度 鳥居脚部分保存

今帰仁の歴史

今帰仁には国指定の文化財「今帰仁城跡 (別名、北山城)」がある。

今から600~700年前の沖縄は、 北山・中山・南山の三山が争っていた時代で、今帰仁城は北山王の居城であった。

沖縄本島の北部 (山原) 一帯を支配下に治めた北山王は、1416(あるいは1422)年に中山の尚巴志に滅ぼされてしまう。

1422年中山は北山に監守制度を敷き、反乱がおこるのを防いだ。

監守制度は第一尚氏王統から第二尚氏王統に引き継がれ、 監守一族が首里に引き揚げた1665年まで続く。

その後の今帰仁城は政治の場から祭祀の場へと変貌していった。

第一展示室では、 今帰仁城跡から発掘された遺物を通して今帰仁城をめぐる歴史を描く。 また、 現在につながる明治・大正・昭和(戦前・戦後) の時代を古い図面や辞令書や古文書などの史料で描き、 「今帰仁の歴史」 を展開する。

「琉球の歴史」上大きな事件の一つに慶長14(1609) 年の薩摩軍による琉球侵攻がある。 『琉球渡海日々記』 と 『喜安日記』にこの事件が記録されているが、下の図は薩摩側の史料である『琉球渡海日々記』 をもとにした薩摩軍の経路図である。

薩摩軍の琉球侵攻は、「今帰仁の歴史」にも大きな影響を及した。

1609年の薩摩軍の琉球侵攻で沖縄の歴史は大きく変わっていった。

薩摩軍は古宇利・ 運天港を経て今帰仁城を焼き討ちにし、さらに首里城に攻め入った。 今帰仁城付近にあった今帰仁村と志慶真村は城下へ移動し、そのために城内に住んでいた監守 (今帰仁按司)の一族達は不便をきたすとの理由で城下へ移り住んだ。

その後1665年に監守一族は首里に引き揚げ、 監守制度は終りを告げる。

1666年、今帰仁間切を分割し伊野波 (翌年本部と改称)間切を創設した。

本部半島の大半を占めていた今帰仁間切は二分され、 ほぼ現在規模の面積となる。

今帰仁按司は首里に住んで今帰仁間切を領地として賜り、それは明治12年の廃藩置県まで続いた。

古宇利(こうり)島の遠見台跡(とおみだいあと)は、島の中央部より少し北寄り、標高約105mの所にある。

1644年に「烽火の制」 が敷かれ、 沖縄本島及び周辺の島々に遠見番所が置かれた。

古宇利島の遠見台跡はその一つである。

今帰仁間切の遠見台は他に本部町具志堅(もとぶちょうぐしけん)との境の北大嶺原(おおみね ばる)にもあり、ピータティファーイの地名が残っている。

ペリー(Mathew Calbraith Perry) はアメリカ海軍の軍人で、 1854年に日米和親条約と琉米修好条約を結んだ。

1853年5月に那覇に来航し、 その後5回那覇に寄港し滞在する。

1853年10月に来航した三艘の蒸気船 (黒船) の乗組員は、那覇の街だけではなく山原の海岸線を測量しながら北上している。

今帰仁間切の与那嶺村や仲尾次村(なかおしむら)にも立ち寄り、鶏を盗んだり、 崎山村(さきやまむら)の炬港(テェーミナト)にテントをはったりした。

一行はさらに運天港から羽地内海(はじないかい)へと船を進めている。

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国宝 金装宝剣拵・きんそうほうけんこしらえ (千代金丸・ちよがねまる)

国宝「金装宝剣拵 (千代金丸)」は那覇市歴史博物館に所蔵されていますが、その千代金丸を複製する機会にめぐまれました。

15世紀初頭、 今帰仁グスクを居城とする北山王攀安知(ほくざんおう はん あんち)は、 中山王尚巴志(ちゅうざんおう しょうはし)の率いる軍に攻められます。

もはや劣勢とみた攀安知王は今帰仁グスク内にある聖地 (イベ) のテンチジアマチジに向かい、自分を守護してくれなかったことを責め、持っていた千代金丸でイベを斬りつけ、自刃しようとしました。

ところが身を切ることができなかったため、城の側を流れる志慶真川(しげまがわ)に千代金丸を投げ捨て、他の刀で自害しました。

投げ捨てられた刀は志慶真川の下流 (ミジパイ)で夜ごと光り、対岸の伊平屋島(いへやじま)の人が見つけ、中山王に献上されたと伝えられています。

 

複製された千代金丸

平成26年度、国の助成を得て、国宝金装宝剣拵 (千代金丸) を複製する機会を得ました。

明治42年の鑑定では、 柄は短く騎兵刀、 柄糸の巻き方は古式を踏襲し、 柄頭に彫られた 「大世」 は、 尚泰久王 (1454~1460) のことか、とあります。

拵・こしらえ (鞘)は刀身 (剣) とは製作時期が異なると見られ、恐らく、 刀身部分は、北山王の時代に作られたもの、 拵部は伝承や「大世」 の銘にちなみ、 尚泰久王時代

に製作されたものと考えられます。

千代金丸とは別に、 16世紀初頭、 琉球国王尚真王は第三子尚韶威・しょうしょうい(今帰仁王子) を首里から北山 (今帰仁)に派遣したとき、 脇指二振り (備州長光 ・ 相州秋廣) と鎧一通 (銘行平) を授けており、 刀剣や鎧などが琉球へ移入されていた様子が伺えます。

その家宝は 「兵火によって失う」 ( 『具志川家家譜』)とあり、 「兵火」とは1609年の薩摩の琉球侵攻による今帰仁グスクの焼き討ちのことかもしれません。

薩摩側の資料に 「戦わずして宝物を持ち去る」 と記録されていることから、 薩摩軍が薩摩に持ち帰った可能性も考えられます。

千代金丸の複製をきっかけに「北山の歴史」への関心と研究の深化が期待がされます。

 

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