史跡

「尾張名古屋は城で持つ」の名古屋城

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「尾張名古屋は城で持つ。」は、『伊勢音頭』の歌詞にある「伊勢は津で持つ 津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」という一節が由来です。

意味は「尾張の名古屋は新しい城が出来たために栄えるだろう」ということです。

名古屋城は、関ケ原の合戦以降、大阪城にはまだ豊臣秀頼が居る中、家康が西国諸大名の助役による天下普請で始められた城で、天守の完成は1612年です。

築城当時からの金の鯱(しゃち)は有名です。

 

1        正門

まずは正門から入場します。

特別史跡 名古屋城

名古屋城は、 御三家筆頭尾張徳川家の居城であり、初代の城主は, 江戸幕府を開いた徳川家康の第九男義直です。 慶長14年 (1609), 家康みずから築城を決定し、翌15年に石垣普請が着工され, 17年に大小の天守や各櫓が完成しました。

普請を命じられたのは加藤清正ら西国の大名20名で, 城内の石垣には目印として各大名が刻んだ刻印が多数残っています。

慶長20年(1615) に本丸御殿, 元和3年 (1617) には二之丸御殿が完成し、二之丸御庭,御深井御庭なども整備され, 名古屋城は天下の名城としてその名をとどろかせました。

明治維新後, 名古屋城は陸軍省の所管となり, 名古屋鎮台司令部や兵舎がおかれましたが,明治26年 (1893) に宮内省に移管され 「名古屋離宮」 となりました。

昭和5年(1930) 12月, 名古屋市に下賜されると同時に国宝に指定され、翌年から一般公開が始まりました。

昭和7年(1932) には, 名古屋城全域が特別史跡に指定されました。

昭和20年(1945) 5月, 第二次世界大戦末期の空襲により, 天守や本丸御殿など国宝建造物 24棟が焼失しましたが、焼失を免れた3つの隅櫓と3つの門, 空襲の直前にとりはずされていた本丸御殿障壁画1047面が、 戦後重要文化財に指定されました。

昭和34年(1959), 天守閣と正門が,ほぼ昔どおりの外観で再建されました。

平成21年 (2009) には本丸御殿の復元工事が始まり, 平成25年 (2013) に玄関・表書院部分が完成しました。 現在も, 平成30年 (2018) の全体完成をめざし工事が進められています。

名古屋城正門(榎田門・えもきだもん)
ここにはかつて、 榎多門と呼ばれる櫓門(やぐらもん)がありました。

南側に 「冠木門・かぶきもん」 と呼ばれる外門、 北側と西側の石垣上には多聞櫓 (長屋状の櫓)が建てられていました。

内門の榎多門とあわせて、防御力の高い城郭の出入口である、 枡形虎口が形成されていました。 榎多門は明治24年 (1891) の濃尾地震で大破し、 代わりに明治44年、 旧江戸城から蓮池門(元禄17年・1704年ごろ建築) が移築され、 石垣も組み直されました。 国宝に指定されていましたが、 昭和20年 (1945) の空襲で焼失しました。

現在の正門は昭和34年に、旧蓮池門を鉄筋コンクリート造で、 外観復元したものです。

 

2        西の丸御蔵城宝館

ごあいさつ

本館は、現存する旧本丸御殿障壁画(重要文化財)と名古屋城の所蔵資料の展覧会を行う展示室、旧本丸御殿障壁画等の保管を行う収蔵施設、名古屋城の歴史を築城から現代まで紹介する歴史情報ルームからなっています。

建物の外観は、江戸時代にこの場所にあった米蔵(三番御蔵、四番御蔵)をできるかぎり再現したものとなっています。

歴史情報ルームでは、築城から現代までを大きく3つの時代に分け、築城期、江戸期、明治維新以降で構成しています。

また築城から約400年の歴史をふり返るにはあまりに多くの出来事があり、紹介しきれなかった歴史的事件については、今後企画展示として随時、紹介してまいります。

歴史情報ルームは、名古屋城に関するトピックスを毎日更新することで、歴史や文化の情報発信の場となることも目的としています。

何かひとつでも、歴史情報ルームで得られた新たな知識や情報が、みなさまの名古屋城見学の一助となりますと幸いです。

一般財団法人名古屋城振興協会

2.1         門櫓に据えられた銅鯱

 

名古屋城の銅鯱

名古屋城の鯱は、 大天守の上で輝く金鯱だけではない。

ここに展示する3基の銅鯱はじめ、 複数の銅鯱が現存する。

ただしいずれも名古屋城創建時の鯱ではなく、 明治 43年(1910)、旧江戸城 (現皇居)から移管されたものである。

その頃の名古屋城は、名古屋離宮と呼ばれ、 明治天皇・皇后 皇太子が行幸啓されるときの御泊所として宮内省に管理されていた。

明治 43 年、旧江戸城の蓮池御門(はすいけごもん)が、行幸啓時の門として名古屋城西之丸の現正門の位置に移設され、屋根の上には蓮池御門の銅鯱が掲げられた。

その他の旧江戸城銅鯱も同時に移され、 本丸の小天守、 西南隅櫓、東南隅櫓、 東北隅櫓、 表一之門、 東一之門、そして御深井丸の西北隅櫓に上げられた。

昭和20年5月14日の空襲により、正門はじめ名古屋城の国宝建物の大半が炎上したが、 いくつかの銅鯱は大きく損傷しながらも姿をとどめた。

これら銅鯱こそ、明治以降名古屋城がくぐってきた数奇にして過酷な歴史の証人である。

 

2.2         刀剣

刀の諺(ことわざ)

日本には刀にまつわる諺が沢山あります。

① おっとりがたな ( 押取り刀)

急な事で刀を腰に差す間もなく手にとること。大急ぎの事。

② おりがみつき (折り紙つき)

刀の鑑定を行っていた本阿弥家が正真のものに発行した鑑定書の事。

③ きゅうばしのぎ (急場凌ぎ)

今はこう書きますが、ホントは 「急刃凌ぎ」です。「急刃」とは、戦場において刀の刃が欠けた時、 切れ味は悪いが取りあえず戦えるようにした事 「一時の間に合わせ」 です。

④ さやあて (鞘当て)

武士同士がすれ違った時、お互いの鞘がぶつかったと、とがめだてしたことで喧嘩となることがありました。 この事から些細なことで喧嘩をうる事。

⑤じがねがでる (地金が出る)

刀は芯金という柔らかい鉄を、 皮金という硬い鉄が包み込む構造になっています。

何度も研ぎを繰り返し、 芯金が出てしまった事をいい、 本性が出てしまった事。

⑥ しのぎをけずる (鎬を削る)

刀の鎬(しのぎ : 刃の側面にある稜線) が削れるほどの激戦の事。

⑦せっぱつまる (切羽つまる)

切羽は刀の鍔がガタガタしないよう押さえる金具で身動きできないほど追い詰められた事を言います。

⑧ そりがあわない (反りが合わない)

刀はそれぞれ反りが違い、 鞘もその刀専用ですから他の鞘に入れようとしても入りません。 「反りが合わない」 と言い、この事から相性が合わない事。

⑨ たんとうちょくにゅう (単刀直入)

単刀、一振りの刀 (一人)で敵陣に斬り込む事。

⑩ つけやきば ( 付け焼き刃)

刃の無くなった刀に、焼き刃だけを付け足した間に合わせの事。

⑩ つばぜりあい (鍔ぜりあい)

戦闘時、刀を鍔で受けとめたまま、 押し合う事から、力の持抗した事。

⑩ でんかのほうとう (伝家の宝刀)

家宝の名刀、普段は使わないがとっておきの物、 手段の事。

⑩ ふところがたな ( 懐刀)

刀とは別に懐に入れておく最終護身用の短刀の事。

⑩ ぬきうち (抜き打ち)

刀を抜いたとたんに斬りつける事でいきなり何かをする事。

⑩ めぬきどおり (目貫通り)

目貫は刀の柄の目立つ所にある金具で、町で一番にぎやかな通りの事。

⑩もとのさやにおさまる (もとの鞘に納まる)

刀は他の鞘にはなかなか入りませんが、 もとの鞘にはスンナリ入るので仲違いした者どうしが元通り仲良くなる事。

⑩ やきをいれる (焼きを入れる)

刀に刃を付けるため、火に入れて焼き刃を付くる事。

 

2.3         見取り図

名古屋城の石垣普請は豊臣恩顧の大名を含む20家の大名に割り当てられ、多くの人々が名古屋に集められました。

慶長135(1610)年6月より石垣普請は開始され、同年8月末には加藤清正が天守台の石垣を完成させています。

他の石垣も同年9月頃におおむね完成し、翌年正月より中井正清を大工棟梁、岡部又右衛門を大工頭、小堀遠州を作事奉行として建物の建設が同時に清須城の解体も進められ、部材の一部は名古屋城の建物に再利用されました。

家康は御殿より天守の建設を急がせたことで、天守は慶長1717 (1612)年12月27日に完成し、本丸御殿は慶長20(元和元・1615)年に完成しました。

近世城郭御殿の最高峰

本丸御殿は、美と格式を兼ね備えた絢爛豪華な御殿でした。

本丸御殿は当初、尾張藩主の住居かつ政庁として造られましたが、元和6(1620)年に、その役割は二之丸御殿に移されました。

将軍を迎える御殿となった本丸御殿の豪華なつくりは近世城郭御殿の最高峰とされ、昭和5(1930)年に、天守と共に城郭建築として第一号の国宝に指定されました。

建築史・美術工芸史にその名を刻んだ本丸御殿ですが、戦災により焼失しました。

 

清須越

城下の発展を見越したまちづくりが行われました。

名古屋城の築城に伴い、清須から名古屋へ都市ごと移転しました。

これを「清須越」といいます。

名古屋の街は本町通を中心に碁盤の目に区画割され、武家屋敷・町人街・寺社に分けられ、整備が進められました。

武士鍛冶職人はもちろん、神社は3社、寺院は99寺、町は67町に加え、蔵や橋にいたるまで名古屋に引っ越しました。

 

3        西南隅櫓(せいなんすみやぐら)

 

重要文化財

西南隅櫓(せいなんすみやぐら)

慶長十七年(一六二)ごろに建てられ、未申櫓(ひつじさるやぐら)と呼ばれた。

外観二重、内部三階建ての珍しい形態である。

二階の岳、南面に張り出しがあり、この下に石落しがある。

床に開閉式の穴があり、石垣に接近した敵兵を銃撃する仕掛けであった。

喜は明治後期から大正期ごろに、自然災害や倒壊したが、大正十三年(一九三三)、宮内省により、古材を用いて再建された。

鬼瓦に菊紋が見られるのは、そのためである。

 

4        天守閣

現在の天守閣は、戦後再建された鉄筋コンクリート製の建造物ですが、設備の老朽化や耐震性の問題で、2019年5月から非公開になっています。

その一方で、木造復元を進めていますが、2023年3月15日の名古屋市の報告では最短で2032年度になるとの見通しです。

下の写真は本丸御殿見学の列を撮影したものです。

本丸御殿については「尾張名古屋は城で持つ」の名古屋城 本丸御殿 で別途報告しています。

名古屋城天守閣の石済みは、上部で外側にそりだした「扇勾配」の技法が取り入れられています。

これは加藤清正が担当して築いたので、特に「清正流三日月石垣」といわれています。

この技法は、石垣を内面に湾曲させ石の重みと内側の土圧による力を分散させ、はらみを避けるためです。

 

5        旧国宝天守の礎石

天守礎石

昭和二十年(一九四五)に焼失した旧国宝天守の礎石。

地階穴蔵の地盤の上に置かれており、巨大な天守を支えていた。

長焼け跡に残っていたが、天守閣再建にあたり現在地に移し、かつての敷設状況を再現した。

 

6        石棺式石室

なぜに島根にあった石棺がここにあるのか分かりませんが、島根県松江市山代町にあった団原古墳の石室で、昭和 11 年(1936)中区の古美術商が購入し、戦後に名古屋城に寄付されたとのこと。看板に書いてある寄贈者がその古美術商なのでしょう。

石棺式石室

島根県松江市山代町にあった団原古墳の石室で、本来は床石があって、手前に羨道(石室への通路)を備えていた。

古墳時代後期のもので出雲地方独特の横穴式石室である

寄贈者

名古屋市 長谷川祐之氏

 

7        清正石

清正の石曳

天守の石垣普請は、加藤清正に割り当てられた。

巨石を運ぶにあたり、清正自ら石の上に乗り音頭をとったと伝えられている。

本像は、その様子を模したもの。

清正石

名古屋城で最大の石垣石材。

ここ本丸搦手枡形の石垣は黒田長政の担当であったが、巨石であるがゆえ普請の名手加藤清正が積み上げたと伝えられ、清正石と呼ばれてきた。

8        旧二之丸東二之門

重要文化財

旧二之丸東二之門(きゅうにのまるひがしにのもん)

本来は東鉄門(ひがしくろがねもん)という二之丸東の枡形外門で、現在の東門の東側にあった。昭和三十八年(一九六三)、二之丸に愛知県体育館が建設されるにあたり解体され、昭和四十七年に現在地(本丸東二之門跡)に移築された。平成二十二年から二十四年にかけ解体修理された。

 

9        不明門(焼失再建)

不明門(焼失再建)

土塀の下に設けられた門。

本丸北側と御深井丸をつなぐ門であるが、厳重に施錠され「あかずの御門」と呼ばれていた。

左右には槍の穂先を並べた剣塀が続いている。

昭和20年(1945)に焼失し、昭和53年に復元された。

 

10     御深井展示館

本丸御殿築造に関する資料を展示中でした。

 

11     二之丸庭園

ここが名古屋のお殿様の住居でした。

12     尾張勤王青松葉事件之遺跡

尾張藩は徳川御三家筆頭の立場でしたが、薩長を中心とする王政復古に参加しました。

この事件は藩内の佐幕派を粛清し、新政府軍が東進するのを助けるきっかけとなっています。

処刑された重臣のうちの筆頭格である渡辺新左衛門家の別称が「青松葉」とされていたことから、「青松葉事件」と呼ばれるようになりました。

「尾張勤王青松葉事件之遺跡」碑

慶応四年(一八六八)一月、前藩主で、藩の実権を握っていた徳川慶勝が、佐幕(江戸幕府存続)派の藩士十四人を処刑した。

慶勝は勤王(倒幕)派で家中の佐幕派を一掃したとされる。

これが青松葉事件である。

事件は箱口令が敷かれ、不可解な部分も多い。

処刑された人々が、本当の意味で佐幕派であったかも疑わしいと考えられている。

13     那古野城跡

那古野城跡

大永年間(1521-28)に、今川氏親が名古屋台地西北端(名古屋城二の丸あたり)に築いた城で、一名「柳之丸」ともいわれ、一族の今川氏豊を城主とした。

織田信秀は、天文7年(1538)この城を奪い、ここに居するが、同11年(1542)頃に古渡城を築城して、この城を去り、以降、嫡子信長が居城したとされている。

弘治元年(1555)織田信長が清州に移った後は、一族の織田信光がしばらくの間居城していたが、やがて廃城となった。

名古屋市教育委員会

 

14     地下鉄名古屋城駅

帰りは東門からでて、名古屋城駅から帰りました。

金シャチ横丁脇を歩いて駅まで進みます。

地下鉄の出入り口は瓦屋根の門が設(しつら)えてあります。

「@NAGOYA」のモニュメントは、名古屋のまちの魅力向上を目的に名古屋青年会議所によって2018年9月設置されました。他にも名古屋ならではのフォトスポットに設置されています。

さすが、御三家筆頭の名古屋の城は、城の大きさだけでなく敷地もかなり広いものでした。

尚、将軍を迎える本丸御殿については別途ブログにして報告いたします。

本丸御殿については「尾張名古屋は城で持つ」の名古屋城 本丸御殿 で別途報告しています。

 

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