目次
1 勝連城跡
離れて見ても、その城跡は荘厳です。

電動カートは、ふもとの石碑付近から、城郭の入り口にあたる「四の曲輪(よんのくるわ)」の広場まで乗せていってくれます。

勝連城跡
勝連城は、五つの輪からなり、最も高い曲輪に上ると、北は遥か金武湾(きんわん)を囲む山の山々や太平洋の島々が望まれ、南は知念半島や中城湾、それを隔てて護佐丸の城である中城城が一望できる景勝地になってます。
城は、琉球王国の王権が安定していく過程で、国王に最後まで抵抗した有力、向麻和利が住んだ城です。
伝承によると城主は勝連按司から最後の城主阿麻和利まで10代と伝えられています。
勝連城や城主(按司)について、沖縄最古の歌集である『おもろさうし』に数多く詠まれていて、馬連は“きむたか(肝高)”と表現され、日本本土の京都や鎌倉にたとえられるほど繁栄していたとあり、阿麻和利も「千年もこの勝連をおさめよ、勝連の名高き王」と讃えられています。
阿麻和利は、国王の重臣で中城に居城した護佐丸を1458年に滅ぼし、さらに王権の奪取をめざして国王の居城である首里城を攻めましたが、大敗して滅びました。
阿麻和利が滅ぼされたことによって、首里城を中心とする中山の王権はいちだんと安定しました。
1.1 東の郭付近
登り口周辺

防御田地(ばうぎょでんち)
かつて付近一帯は 「底なしの沼」と言われるほど、 水量豊富な湿地帯でした。
グスク時代には争い事が頻発していたことから、 侵入者が湿地帯に足を取られる “防御ライン” としての機能が想定されていたようです。
また、平時においては財政を支える農地として活用されていたことでしょう。
水源の一つは、左手の森にある 「アコージガー」という名の泉です。
ここは一般の人々に使用されており、かつて城に向かう旧道もありました。
右旋回の階段
勝連城の各曲輪を結ぶ石階段は、城壁に沿うように右側から旋回して上る構造になっています。
これは、敵軍による侵入を防ぐ工夫と考えられています。
階段を急勾配にすることにより侵入者の体力を消耗させ、さらに右手側城壁より攻撃を加えることで、敵軍の機動力と攻撃力を弱める効果があります。
また、 敵軍による攻撃のアプローチを制限できること、高い場所から相手の兵力を確認できることなどの利点もあります。
1.2 四の郭付近
1.2.1 ウタミシガー
ウタミシガー
「ウタミシ」はお試し、「カー (ガー)」とは泉を意味する沖縄の言葉です。
旧暦元旦の初拝みの際に、水の量によって一年の豊作 凶作を占うことから、「ウタミシガー」という名前が付いたと伝えられています。
この泉の水量が豊富にあるときは 「サーイ年(不作の年)」、水が少ないときは 「ユガフーの年(豊作の年)」と言われています。

1.2.2 ミートゥガー(夫婦ガー)

かつてこの泉が、 男女の逢瀬の場であったという伝説から「縁結びのカー(泉)」と伝えられています。
女性が自由を制限された時代でも、 水汲みは外出する口実になりえたのでしょう。
一方「この泉のそばで恋物語をするな」 という言い伝えもあります。
ここで結ばれた男女が別れると、どちらかに不幸が起きると信じられていたからです。
泉は命の源や聖域であることから、困難があっても添い遂げよという教えなのかもしれません。
1.2.1 仲間ヌウカー(カンジャガー)
12世紀から15世紀前半のグスク時代、この地域の鍛冶屋 (カンジャー)であった「仲間家が使用していた泉である」 という伝説から、「カンジャーガー」とも呼ばれています。
周辺の発掘調査で、 鍛冶屋跡は現在のところ発見されていませんが、 仲間家先祖は安全な場所を求めて、 鍛冶屋の場所を替えながら武具の製作や修理を行っていたと言われています。
1.2.2 門口(じょうぐち)のカー
門口(じょうぐち)のカー
大きな川の少ない沖縄では「カー」 という泉が水源であり、人々の暮らしの中心となっていました。
ここは、旧暦の二月八月の村の除災招福を願う行事が行われる場でもあります。
名前の由来となっている西原御門から城内へ入る際に、 訪問者が手足を清めるために使用していたと言われています。
また、 集落や港と反対側に位置する西原御門にこのカーが存在することから、身分の低い家臣が利用していたと考えられます。

1.2.3 西原御門への道
西原御門への道
この道は、 城外からアーチ門であったと伝えられている西原御門へと続く道でした。
遺構調査では、路面に不定形な石灰岩や、 路肩側には成形された方形の石灰岩が見つかったことから、かつてここは石灰岩が敷き詰められた石畳道であったと考えられます。
明治年間に撮影された写真にも、 西原御門から現在の南風原集落方面へカーブするように延びた道が写っています。

1.2.4 石垣


沖縄のグスクの石積みは、大きく分けて三種類の積み方があります。
自然石を大まかに加工して積んだ 「野面積み」、 四角い切石を水平に積み上げた 「布積み」、 多角形の石を亀甲型に積んだ 「相方積み」があり、 野面積み→布積み→相方積みと発達したと考えられています。
勝連城の石積みは、そのほとんどが 「布積み」で積まれています。
また、鈎状に組むことで、強度を増した工夫も見られます。
1.3 三の郭
電動カートを降りた後は、この石段を登ります。
攻撃軍はこの坂道を登らないと城内に侵入することができないので、城の守りは堅牢でした。

1.3.1 三の曲輪城門(四脚門)
三の曲輪城門(四脚門)
四の曲輪から細く長い石畳道を上りつめたところに、かつて内郭の門がありました。
発掘調査したところ、礎石と壁には “ほぞ穴” と考えられる、 四箇所のくぼみが確認されました。このことから三の曲輪城門は、 四本の柱で屋根を支える四脚門 (薬医門) であったと考えられています。
薬医門は、 東京大学の通称 “赤門” (正式名称: 旧加賀屋敷御守殿門/ 国指定重要文化財)が有名ですが、16世紀以降の寺の門にも多く見られる構造です。



三の曲輪
三の曲輪ではこれまでの調査の結果、時代の移り変わりの様子がわかりました。
古い時代は掘立柱の建物が建ちならび、表面に粘土を貼ったすり鉢状の遺構も中央部で見つかっています。
これは水を貯める施設ではないかと考えられています。
新しい時代になるとこの三の曲輪全体が二の曲輪に建っていた殿舎建物と一対をなし、 儀式などを執り行う広場に変わっていきました。
その後、城が滅んでからは祭祀の場として使用され、 中央西側に
「肝高の御嶽(チムダカヌウタキ)」。 その近くに神人(カミンチュ)たちが祭祀の際に休憩する「トゥヌムトゥ」と呼ばれる石列などが遺されています。
埋葬人骨
城門脇の城壁に接したところからグスク時代に属する幼児の人骨が折り曲がった状態で発掘されています。
なぜ城壁に接して葬られたのか、なぜ半分に折り曲げられて葬られたのか、グスク時代の社会状況を考える上でも貴重な資料です。
また、グスク時代の人々のルーツを解明する上でもたいへん重要です。
勝連の按司の系譜
伝承ではこのグスクの城主は英祖王系2代目「大成王」 の五男勝連按司だったと伝えています。
この王統は五代まで続きましたが世継ぎがなかったことから、 養子縁組により伊波グスク 「伊波按司」の六男を迎えたと伝えられています。
その後、 交代の理由ははっきりしませんが7・8代目が「浜川按司」、 9代目は「茂知附按司」 といいます。
茂知附按司は圧政を敷いたことから人々の信望を失い、 やがて 「阿麻和利」 にとって代わられたといわれています。
参考までに伝承の上での系譜を記しておきます。
1.3.2 肝高の御獄(きむたかのうたき)/トゥヌムトウ

肝高の御獄(きむたかのうたき)/トゥヌムトウ
神人と呼ばれる女性祭司を中心に行われる、 王国時代から続く 「ウマチー」という年中行事の拝所です。
旧暦二月三月に 「麦」、 五月と六月には 「稲」 の、 それぞれ初穂や豊作を祈ります。
御嶽(うたき)の近くには、 神人たちが腰掛けたと言われる石列 (トゥヌムゥトゥ) があります。以前は、ウマチーの際に神人たちの前で若者が 「イユコーイミソーリー (魚を買って下さい)」と呼びかけて回ったと言われています。
1.3.3 すり鉢状遺構

すり鉢状遺構 No.1
この表示は、ここに埋もれている遺構を表現しています。
遺構の表面には粘土を張りつけていることから、 水を溜める施設と考えられます。

1.4 二の郭

二の曲輪
二の曲輪では、 正面約17m、奥行き約14.5mの大きな殿舎跡が発見されました。この建物は城の中でもっとも重要な建物であったと考えられています。礎石のあるしっかりした建物で、 屋根は板または草葺きであったと考えられていますが、周辺からは大和系瓦も発見されることから一部瓦葺きだった可能性もあります。
また、建物の四隅には長方形の石灰岩による石積みが発見されています。この石積みは、 建物と同時にあったと考えられていますが、機能についてはわかっていません。
また、二の曲輪の西側には地元で「火」の神」と呼ばれている場所があります。

1.4.1 二の曲輪基壇(三の曲輪から二の曲輪へ向かう階段)


階段は防衛の観点から下に傾斜をつけて設置されています。
この曲輪基壇(くるわきだん)基壇とは、建物の基礎になる石や、 土で一段高く築いた場所のことです。
この曲輪と三の曲輪の境は、石灰岩切石積みで築かれ、南北全長約41m、ほぼ一直線
に造られています。 南側では約2m 奥に入っており、他部分より古い時代の建築であったと推測されます。これにより、二の曲輪に存在した舎殿は、長い歴史の中で、少なく
とも二度の建て替えがあったと考えられています。
1.4.2 舎殿跡
舎殿跡(しゃでんあと)
正面約17m 奥行き約14.5mの、やや長方形の舎殿跡が発見されました。
この建物は首里城正殿のような柱の多い構造で、礎石のあるしっかりとした造りであったことが分かっています。
勝連城の城郭内で、最も重要な建物であったと考えられています。
舎殿が建てられた時代、 屋根は板葺きが主流でしたが、 周辺からは大和系瓦も発見されていることから、 「瓦葺きの建物であった」 という説もあり、 勝連の栄華が偲ばれます。

1.4.3 ウシヌジガマ
ウシヌジガマ
「ウシヌジ」には「身を隠し、凌ぐ」という意味があり、このガマ(自然洞穴)は「身に危険が及んだ時に逃げ込む場所であった」と言われています。
1458年、首里王府軍によって攻め入られた際、難攻不落とされた勝連城も、最後は力尽きてしまいました。
この洞穴は一の曲輪 「玉ノミウヂ御嶽」 脇の洞穴と繋がっており、城主である阿麻和利は、ここを抜けて現在の読谷村まで逃げ延びたという伝説が残っています。

1.4.4 ウミチムン(火の神)
ウミチムン(火の神)
「ウミチムン」とは 「三個のかまど石」を意味する言葉です。 琉球古来の信仰で、 火の神が祀られています。 この信仰は現在も続いており、沖縄の各家庭では台所に「火の神」を祀り、家内安全を願う風習が残されています。
また、 藪地島(やぶちしま) 浜比嘉島(はまひがじま)、 久高島(くだかじま)、 津堅島(つけんじま)など、 神話を残す周辺の島々を、遙かに拝む場所でもあります。

1.5 一の郭
ーの曲輪の概要
一の曲輪は、 1965(昭和40)年から数回にわたって発掘調査が行われ、いろいろなことがわかりました。岩盤をけずって平坦にするなど大がかりな土木工事を行い、 瓦ぶきの建物があったことがわかっています。
多くのグスクの中で瓦ぶきの建物があったのは、現在のところ勝連城のほかには首里城、 浦添城だけです。
出入口の門付近から唐草様の浮き彫りのついたアーチ石の一部が発見されており、装飾を施した豪壮なアーチ門であった可能性があります。
最後の城主 阿麻和利(あまわり)
北谷間切屋良・ちゃたんまぎりやら (嘉手納町) で生まれた阿麻和利は、すぐれた才能の持ち主で、勝連按司に仕えました。
領民の信望を得た阿麻和利は、 9代城主・茂知附(もちづき)にかわって城主となると、本土をはじめとする対外貿易を活発に行い、 この勝連を大いに繁栄させたと伝承されています。
その様子を沖縄の古謡 『おもろさうし』に、次のように謡われています。
-一 かつれんわ
なおにきや たとゑる
やまとの かまくらに たとゑる
又 きむたかは なおにきや
(勝連は、 なんにたとえようか、京都や鎌倉にたとえる
又 気高き勝連は、 なんにたとえよう)
一 かつれんの あまわり
とひやくさ ちよわれ
又 きむたかの あまわり
又 かつれんと にせて
又 きむたかと にせて
(勝連の阿麻和利、 千年もこの国を治めよ、
又 気高き按司阿麻和利よ 又 勝連にふさわしく
又 きむたかの名にふさわしく)
若くして勝連の按司となった阿麻和利は、1458年、宿敵護佐丸を討ち、天下の統一を夢見たが王府軍に攻められて落城し、 廃城になったといわれています。
(護佐丸・阿麻和利の乱)
1.5.1 一の曲輪階段
一の曲輪階段
一の曲輪階段は、敵軍による侵入などの勝連城有事の際の、 “最終防御ライン” としての役割を担っており、 城内に攻め入った敵が一挙に侵入できないよう、上るにつれて階段幅が徐々に狭まる構造となっています。
また、 石積みに沿わせた道から敵の横腹を突いて撃退する仕組みなどの様々な仕掛けにより、少ない兵力でも敵軍と互角に戦える工夫が見られます。





1.5.2 玉ノミウヂ御嶽


玉ノミウヂ御嶽
勝連を守護する大きな霊石をご神体とする御嶽です。
ここでは、村の繁栄が祈願されていました。
霊石の表面が平坦にされていることから、グスク時代には、建物の基礎に利用されていたとみられます。
発掘調査により、かつてこの曲輪には宝物殿のような建物があったことが分かっています。
また、 霊石脇にある洞穴は「かつては二の曲輪のウシヌジガマと繋がっており、 有事の際の避難路として使用されていた」という伝説が残されています。
1.5.3 一の郭からの眺め






2 あまわりパーク
勝連城の10代目城主であり、阿麻和利(あまわり)の生涯や当時の貿易の様子を、紹介しています。
阿麻和利は、王権に逆らい、護佐丸(ごさまる)を滅ぼした反逆者として、歴史に記されていますが、当時の勝連(うるま市)では、海外貿易を盛んにして地域を豊かにした「優れたリーダー」として慕われていました。
地元中高生による現代版組踊の公演も、このよき阿麻和利像を賛美するテイストで公演されていました。



2.1 展示
沖縄本島は、14世紀頃、本島北部の北山、中部の中山(ちゅうざん)、南部の南山(なんざん)の3つの小国に分かれていましたが、1429年に中山王であった尚巴志が各地へ侵攻し、統一を成し遂げ琉球王国が誕生しました。
王国は日本本土、中国などアジア諸国との貿易の中継地として経済的な発展を遂げ、独自の政治、文化、信仰思想が生まれました。
王国は、1879年の廃藩置県まで450年続きました。
三山鼎立時代
沖縄のグスク時代のはじまりは11世紀末から12世紀頃と考えられています。
13世紀頃から城塞的なグスクが各地に造られはじめ、グスクにはその土地を治める按司が居城しました。
その後、より権力を持った按司が登場し、14世紀頃には今帰仁グスクが治める北山、浦添グスクそして首里グスクが治める中山、南山グスクが治める南山の三国に勢力が分かれる三山鼎立の時代になります
中山による統一と琉球王国誕生
14世紀、中国大陸では明帝国が誕生します。
明は、周辺国から貢ぎ物を献上させ、恩恵を与える朝貢制度を促し、各国の首長を君主として承認する冊封体制を進めました。
琉球では三山とも朝貢し、各領地の王を名乗りました。
そのなかで、 1406年に南山の佐敷グスクの尚巴志が浦添グスクの中山王武寧を破り中山王となり、 その後、 1416年北山の安知、 1429年には南山の他魯毎を倒し、同年に尚巴志を王とした琉球王国が誕生しました。
阿麻和利による反乱
王国建国初期、 勝連グスクでは按司の阿麻和利 (不明~1458年) が貿易により力を蓄えていました。
阿麻和利の力を恐れた尚泰久王 (在位1454~1460年) は、 座喜味グスクにいた護佐丸を対岸の中城グスクに居城させ監視の目を強めました。
そして1458年、 阿麻和利は勢力拡大を目的として中城グスクへ攻め護佐丸を討ち、その勢いそのまま首里王府へと侵攻しましたが、 勝連グスク軍は王府軍に敗北してしまいました。
逆臣の阿麻和利像
王府へ刃を向けた阿麻和利ですが、 その後王府により編纂された 「中山世譜」 (1701年)等の歴史書には、 戦乱の経緯とともに阿麻和利については、 逆臣として位置づけられています。
また、 18世紀初頭に踊奉行である
玉城朝薫・たまぐすくちょうくん(1684~1734年)により創造された歌舞劇「組踊」の最初の演目に「二童敵討」があります。
この演目は、残された護佐丸の二人の子が阿麻和利への敵討ちを目論むというもので、阿麻和利は悪とする役柄になっています。
阿麻和利の英雄像
逆臣という最後を迎えた阿麻和利ですが、17世紀までに王府によって編纂された琉球最古の歌謡集 「おもろさうし」の中には勝連の繁栄や阿麻和利を讃えた歌などが数多く残されています。
沖縄研究の創始者である伊波普猷・いはふゆう (1876~1947年) は、 論考「阿麻和利考」のなかで、建国時の王府の情勢や、「おもろさうし」の歌詞等を見直し、改めて阿麻和利の英雄的な面を再評価しました。
そして論考の最後を「阿麻和利は沖縄最後の古英雄なり」と結びました。
歴史観と未来に向けた取組
阿麻和利は長い間、歴史書に描かれるように反逆者・悪者としての評価を受けていました。
しかし、近年は、「おもろさうし」にうたわれるように、勝連に繁栄をもたらした英雄として改めて評価されるようになりました。
そのきっかけのひとつとなったのが現代版組踊「肝高阿麻和利」です。
地域の歴史を見つめ直し、誇りとして表現するこの取組は、まさに阿麻和利に関する歴史観を転換させたと言えるかもしれません。
これからもこの取組を通して、阿麻和利の「肝高」の心は受け継がれていくことでしょう。
先史時代からの歴史
うるま市は、 太平洋にのびた勝連半島と有人・無人を含めた8つの離島があり、先史時代より海を越えてやってくる人々の目印となっていました。
そのため先史時代の遺跡が多くあり、 遺跡からは海を越えてやってきた交易品が出土しています。
このことはグスク時代の勝連グスクの繁栄にもつながります。
この環境や交易によって生まれた文化は今に受け継がれ、現代の私達の暮らしにつながっていきます。
うるま珊瑚の島
うるまという言葉は、かつて琉球に使われた風流な呼び名で、古語で「うる」はサンゴ、「ま」は鳥という意味と言われています。
うるま市の名称は、美しい青海の太平洋に囲まれた緑豊かな土地と離島風景、そして大切な海の資源により連綿と紡がれた歴史と伝統文化を未来に受け継いでいく思いからつけられました。
市内には、勝連城跡、神聖な信仰精神、獅子舞や伝統エイサーなどの歴史文化遺産と民俗芸能が力強く息づいています。
17世紀までに首里王府によって編纂された「おもろさうし」には、勝連地域の繁栄や阿麻和利を讃える歌が多く詠まれています。
その歌詞には「気高い」、「誇り高い」を意味する古語である「肝高」という言葉も数多く含まれており、勝連を象徴する言葉ともいえます。
阿麻和利が力を尽くし繁栄を願った勝連を、私たちは「肝高」 のこころとともに受け継ぎ、地域の発展に取り組んでいます。 ここでは、今に受け継がれる
勝連の誇りともいえる「肝高」 を紹介します。
琉球は、日本、中国、朝鮮、そして東南アジアを結ぶ海路のちょうど中心に位置していたため、食料や水の補給拠点や、そして各地の荷物を積み替える中継拠点として大いに栄えました。


2.2 現代版組踊「肝高阿麻和利」
元気があってとても良かったです。
阿麻和利が崇高な善人に思えました。








































