首里城は、かつて琉球王国の政治、外交、文化の中心地でした。
1945年の沖縄戦で焼失しましたが、戦後に復元が進み、2000年には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されました。
残念ながら2019年の火災により正殿を含む主要な建物が焼失してしまいましたが、現在は2026年の正殿再建を目指して復元作業が進められています。
修復の様子を間近で見学できる「見せる復興」と呼ばれています。
今回は、完成前の「見せる復興」を楽しみに首里城を訪れました。
昼と、夜それぞれ入場しました。
目次
1 昼の首里城跡
1.1 守礼門
いわずと知れた首里城の入口です。
初めて見たときは、あまりの小ささに愕然としました。
本土の城の大手門とは全く違い、こじんまりしています。

旧首里城守礼門
県指定有形文化財(建造物)
昭和47年5月12日指定
守礼門はかつての中山門に続く首里城第二の坊門で、 琉球王国時代の尚清王代 (15271555年)に創建されたと伝えられている。
当初、「待賢」、ついで 「首里」の扁額が掲げられたことで 「待賢門」 「首里門」と呼ばれていたという。
尚永王代(1573~1588年) に 「守禮之邦」の扁額が作られ、 冊封使の滞在中だけ掲げていたが、 尚質王代 (1648~1668年)から常時掲げるようになり、 「守礼門」 と呼ばれるようになったと伝えられている。
建築様式は、 中国牌楼の流れをくむ装飾建築といわれている。
構造は、三間重層入母屋造で、 屋根は赤瓦の本瓦葺き、高さ7.05m 両端柱間 7.94mである。
昭和8年に国宝に指定されていたが、去る沖縄戦で破壊された。
現在の守礼門は昭和33年に復元されたものである。
1.2 国王頌徳碑・こくおうしょうとくひ(復元)

国王頌徳碑・こくおうしょうとくひ(復元)
尚真王の徳をたたえて、 1522年 (尚真王46) に建立された碑文。
守礼門の上手で綾門大道(あやじょううふみち)から南へ分岐する真玉道の門構えに石積みされて 「石門」と呼ばれていた。
石門の東側にあることから俗に「石門之東之碑文(いしじょうのあがりのひもん)」ともいう。
現在の碑文は、 首里城復元期成会が沖縄電力株式会社とオリオンビール株式会社の協力を得て2006年(平成18)に復元したものであり、 真玉道を整備した2018年 (平成30)に本来の位置に設置したものである。
1.3 眞珠湊碑文・まだみなとひもん (復元)
眞珠湊碑文・まだみなとひもん (復元)
尚真王時代に、倭寇の那覇港来襲に備え国道・軍用道路である
真玉道(まだまみち)の整備し、 それを記念して1522年 (尚真王46)に建立された。
守礼門の上手で綾門大道(あやじょううふみち)から南へ分岐する真玉道の門構えに石積みされて 「石門(いしじょう)」 と呼ばれていた。
石門の西側にあるため俗に「石門の西のひのもん」 ともいう。
現在の碑文は、首里城復元期成会が沖縄電力株式会社とオリオンビール株式会社の協力を得て2006年(平成18)に復元したものであり、 真玉道を整備した2018年 (平成30)本来の位置に設置したものである。
1.4 園此屋武御獄石門(そのひやんうたきいしもん)
守礼門をくぐって左手にあります。世界遺産です。


国指定建造物
1955年(昭和30) 11月29日
園此屋武御獄石門
園此屋武御獄
石門とその奥の森を園比屋武御獄(そのひやんうたき)といい王府の祈願所であった石門は神社でいう拝殿にあたるが本殿に相当する建物はなく石門の後ろに広がる森がそれにあたるという
石門の創建は尚真王時代の1519年 1933年には旧国宝に指定されたが沖縄戦で大破 1957年に復元され後に解体修理し1986年に完成した。
石門は竹富島の西糖(にしとう)の作と伝えられる石材は主に琉球石灰岩を用い板唐破風屋根(いたぶきからはふうやね)を表わす 屋根の飾りなどに日本と中国の様式を合わせて用いた沖縄独特の優れた石造建築である
沖繩県教育委員会
那霸市教育委員会
1.5 歓会門


歓会門
首里城の城郭内に入る第一の正門です。
中国皇帝の使者「冊封使(さっぽうし)」などを歓迎するという意味でこの名がつけられました。 「あまへ御門(うじょう)」 ともいいます。 「あまへ」は沖縄の古い言葉で「歓んで迎える」を意味しており「歓会」はその漢訳です。
門の両側の一対の獅子像 「シーサー」は魔除けの意味をもっています。
1500年前後創建。沖縄戦 (1945年) で焼失し、 1974(昭和49)年に復元されました。
2026-3-31まで劣化した木部の修繕工事中です。
首里城跡(しゅり じょう せき)
国指定史跡
1972年5月15日
首里城は、 1429年から1879年まで琉球王国の国王の居城でした。
王城は、琉球の政治、 外交、 文化の中心として栄え続けました。
発掘調査の結果、首里城は14世紀の末頃までには築かれていたことが明らかになっています。
首里城は、地形を巧みに活用して内郭と外郭に分けて築かれています。
城壁は、琉球石灰岩の切石で築かれ、 その総延長は約 1,080mです。
城壁の高さは、6~15mにもなり、 その厚さはおよそ3mです。
歓会門が大手門 (正門) で、西側城壁にあります。
城内には、 正殿 北殿 南殿などの重要な建物が御庭を囲んであり、 正殿は、1925年に国宝に指定されていました。
しかし、これらの建物群は、沖縄戦ですべて焼失し、 1972年から復元整備が実施されています。
1.6 龍樋・冊封七碑と瑞泉門(りゅうひ さっぽうしちひ と ずいせんもん)

龍樋・冊封七碑と瑞泉門(りゅうひ さっぽうしちひ と ずいせんもん)
石段途中の右手に泉があります。
龍の口から水が湧きでていることから、龍樋という名があります。
龍の石彫刻は、 いまから約500年前の1523年に中国からもたらされた当時のままのものです。
龍樋の水は、王宮の飲み水として使われました。
また、 中国からの使者 「冊封使」が琉球を訪れたとき、那覇港近くにあった宿舎 「天使館」まで毎日この水が運ばれたといいます。
この周辺の石碑は、龍樋の水の清らかさを称賛した冊封使たちの書を刻んだもので、冊封七碑と呼ばれています。
沖縄戦でほとんどが破壊されましたが、 拓本をもとに1996年(平成8)年に復元されました。


石段上の門は瑞泉門で、 その名は龍樋の水が瑞泉(りっぱな、 めでたい泉の意味)と讃えられたことに由来します。
別名「ひかわ御門(うじょう)」ともいいます。 「ひ」は樋のことで、「かわ (川)」は沖縄では井戸や泉のことをさします。
さきほどの歓会門とちがい、 双璧の石門の上に櫓(やぐら)がのっています。
この形式は日本本土の主な城の門と共通しています。
創建は1470年頃。 沖縄戦で焼失し、 1992(平成4)年に復元されました。
首里の丘に降った雨が、スポンジのような構造を持つ琉球石灰岩を通り抜け、その下の水を通さない粘土質の層(島尻層泥岩)にぶつかって、その境界から外へ流れ出しているのが「龍樋」です。
この龍頭は1523年に中国から持ち帰られたもので、沖縄戦の戦火を免れた首里城に残る数少ない「当時のオリジナル」の一つです。


1.7 漏刻門(ろうこくもん)

漏刻門(ろうこくもん)
漏刻とは、中国語で水時計という意味です。
この門の上の櫓の中に水で時間をはかる水槽(水時計)が設置されていました。
門をすぎた広場には日時計があり、 その二つで時刻をはかり、太鼓をたたいて時をしらせました。
別名「かご居せ御門(かごいせうじょう)」ともいいます。 駕籠で登城することを許されていた身分の高い役人も、国王に敬意を表しこの門で駕籠から下りたということからそのように呼ばれました。
創建は15世紀頃。 老朽化のため昭和初期には撤去されていたものを1992(平成4)年に復元しました。
1.8 日影台(にちえいだい)
日影台(にちえいだい)
漏刻(ろうこく)が水時計であるのに対し、 日影台は日時計のことです。
琉球王国時代、 首里城では日時計を用いて、正午およびその前後の時刻をはかり、 また漏刻でくわしい時刻をはかったといわれています。
日影台は、 十二支が刻まれた時刻板 (石の円盤)に銅製の棒が取り付けられ、その日影によって時刻をはかるようになっていたと推測されています。
沖縄戦で破壊されたものを、 2000(平成12)年にかつての形態に復元。
日影台の示す時 (地方太陽時) は、 日本標準時に対して約30分遅れています。
*日影台の時刻板 (石の円盤) を支える方式は現在のところわかっていません。
1.9 廣福門
券売所のすぐ先に位置する、鮮やかな朱塗りの門です。

琉球王朝の中心・首里城
琉球王国の政治・外交・文化の中心地として威容を誇った首里城。
創建年代は不明なものの14世紀前半頃から「グスク(城)」として使われ始めたとされています。
中国と日本の築城文化を融合した独特の建築様式や石組み技術には高い文化的・歴史的価値があるとされ、世界文化遺産に登録されました。
首里城の“オモテ”と“ウラ"
首里城には二つの顔がありました。
正殿を中心とする表側では、国の行政や重要な儀式が執り行われていました。
一方、御内原と呼ばれる正殿の裏側は、王族の居住空間でした。
正殿
正殿は、国の重要な政治や儀式が執り行なわれたところで、首里城の最も中心的な建物です。 本造で本格的に復元された城内最大規模のこの建物は、日本や中国などの影響を受けた琉球建築の特質を良く備えています。
北殿
北殿は、行政上の手続きや文書作成、重臣による会議などが行われた王府の役所でした。
また、 中国からの使者が来城した際には、この建物で使者をもてなす宴が催されました。 現在は、展示施設として利用しています。
売店は北殿、便所は奉神門・北殿に設けてあります。
奉神門
神門は、正殿に向かう時にくぐる最後の門となります。
建物の北側には日用品を管理する「納殿(なでん)」、南側には神女たちが神をもてなす「君誇(きみほこり)」と呼ばれるところがありました。
現在は、公園の管理用の施設として利用しています。
南殿 番所
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南殿は、日本風の年賀や節句の儀式などが行われたところで、薩摩藩の奉行もここでもてなしました。
番所は、城内の取次を行うところで、玄関の役割をしていました。
現在は、展示施設として利用しています。
御庭
御庭は、重要な催事や外交上の諸儀式が執り行われた広場です。
中国から使者が来た際には、この庭に舞台を設琉球芸能が披露されました。
1.10 下之御庭(しちゃぬうなー)
この広場を「下之御庭」といいます。
首里城正殿前の広場 (御庭)に対して「下の庭」という意味です。
正殿前でおこなわれるさまざまな儀式の控えの場でした。
この広場周辺には次のような施設があります。
系図座・用物座:系図座は士族の家系図を管理していた役所。 用物座は城内で使用する物品などを管理した役所です。
首里森御嶽(すいむいうたき):城内で最も重要な拝所のひとつ。 背後の高い石積のむこう側一帯が京の内とよばれています。
翼の改(きょうのうち):
首里城内で最大の信仰儀式の場で、 首里城発祥の地ともいわれます。
神女の最高位に位置する聞得大君(きこえおおきみ)などが、ここで王家繁栄、航海安全、 五穀豊穣などを神に祈りました。
奉神門:正殿前の広場 (御庭)に入る最後の門です。
1.11 首里森御嶽(すいむいうたき)

首里森御嶽(すいむいうたき)
首里森(すいむい)とは首里城の別称で、御嶽とは沖縄の聖地または拝所のことです。
琉球の神話では、この御嶽は神アマミク (アマミキヨ)が創った聖地であり、 首里城内でもっとも格式の高い拝所の一つです。
城内にはここをふくめて 「十嶽(とたけ)」 と呼ばれる 10ヶ所の拝所があったとされています。
この首里森御嶽の門扉の前では、旧暦正月三日の初行幸や普天間参詣など国王自ら外出する際、 または百人御物参などに、国王をはじめ王城に勤める諸臣、 そして聞得大君や三平等之大阿母志良礼ら王国時代の神女たちが祈りを捧げました。
儀式の際の会場レイアウトを示した 「図帳』 などの資料に、 国王の拝礼時の様子をかいまみることができます。
石積内の植物はガジュマルやクロツグです。
1997(平成9)年に復元されました。
首里城の「十嶽」
首里城の祭祀儀礼は国王をはじめ男性による表の儀礼と、 女性神役による内の儀礼に二分されていました。
女性たちは京(きょう)の内(うち)や御内原(おうちばら)に点在する御嶽や火の神を対象に、 国王の長寿、国家の繁栄、航海安全、五穀豊穣などを祈願していました。
御嶽とは、 聖地・拝所の総称で信仰や祭祀(さいし)の重要な場所です。
またイベ (イビ)とは御嶽の内部にある最も神聖なところです。
城内の御嶽は 「十嶽」 と総称され、 16世紀編集の 『おもろさうし』 巻一にも登場します。
「琉球国由来記』には10ヶ所の名称が記録されています。
現在、 古絵図をもとに8ヶ所の御嶽が整備されています。
1.12 大龍柱補修展示室
大龍柱補修展示室
大龍柱(だい りゅうちゅう)
首里城正殿の大きな特徴の一つである与那国町産の細粒砂岩で作られた大龍柱は、 火災の影響を受けながらも屹立(きつりつ)していましたが、ひび割れなどの損傷が多く確認されたため、補修を行いました。
今後は新しく製作される大龍柱の見本としての活用と、火災の歴史を後世に伝えるための歴史的遺物としての展示を予定しています。



1.13 奉神門 (ほうしんもん)

奉神門 (ほうしんもん)
奉神とは「神をうやまう」という意味です。 別名 「君誇御門(きみほこりうじょう)」
ともいいます。
向かって左側は薬・茶・タバコなどを扱った 「納殿(なでん)」、右側は城内の儀式などに使われた 「君誇(きみほこり)」 という部屋になっていました。 3つの入口のうち、 中央は国王や中国からの冊封使(さっぽうし)などの身分の高い人だけが通ることができました。
1992(平成4)年に復元されました。

奉神門前の天水甕(ほうしんもんまえのてんすいがめ)
奉神門前の下之御庭(しちゃぬうなー)には、少なくとも4基の大き
な甕が地中に埋まるように設置されていました。
その状況は古写真や絵図資料に表現されており、 発掘調査でも確認されています。
古文書には天水甕と記されているので、 消防用の水を貯めていたのではないかと推測されています。
天水甕の復元にあたっては、 遺構と規模・形態などが類似する陶器 (壺屋焼) の事例を参考に、 発掘調査で確認された位置に設置されています。



琉球王国時代の 「首里の街なみ」
古地図を基に、今からおよそ300年前の首里の街なみの様子を再現しました。 北側にある久慶門(きゅうけいもん)を出て「円鑑池(えんかんち)」から 「龍潭(りゅうたん)」につながる一角には、往時の名残りを感じる風景が今も広がっています。
また、往時の首里城下は「円覚寺」をはじめ、大小の寺院が多く建ち並ぶ姿が望めました。 当時の「首里の街なみ」に想いを巡らせ、悠久の時をたどる散策をお愉しみください。
現代につたわる首里の道
琉球王国時代、首里城から王都首里の街なみを眺めると、 縦横につながる石畳道に、たくさんの王族・士族の屋敷が軒を連ねていました。残念なことに沖縄戦で往時の屋敷の佇まいは消えてしまいましたが、首里の街を繋げている複雑な小道は、 300年前の地図の位置とほとんど変わりません。
この変わらない道が残した首里の街なみの景色から往時、 琉球石灰岩の石垣と瓦屋根の屋敷が道々にあった風景を想像してみてはいかがでしょうか。
1.14 工事中の正殿




令和に甦る首里城正殿の姿
「向拝奥(こうはいおく)」の彫刻を変更し本来の姿に迫る
近年、フランス海軍の古写真が発見され、正殿正面中央 (向拝奥)にある彫刻の姿が明らかになりました。
これにより、 左右一対の獅子は、以前より1.3倍大きく、顔はやや上向きになりました。 また1つの牡丹と唐草だった文様が、3つの牡丹と一対の獅子唐草に変わり、 本来の姿に近づいています。
令和に甦る首里城正殿の姿
「久志間切弁柄(くしまぎりべんがら)」で王国時代の赤を再現
首里城といえば赤色が真っ先にイメージされますが、 令和の復元では、近年新たに産地が確認された 「久志間切弁柄」 が使われています。
この弁柄は、より色合いが濃いのが特徴で、 琉球王国時代の正殿の趣により近い赤が再現されています。
2022年の秋に復元工事に着工した首里城正殿は建物の形がほぼ完成し、正殿内部では塗装や彩色といった仕上げの作業が進められています。
正殿を覆っている素屋根が解体された後には、 両側にある廊下の工事などが行われ、いよいよ来年の2026年秋には首里城の顔ともいえる正殿が完成します。
Q:正殿(せいでん)の三階はどのように使われていたの?
A:正殿の三階は、建物の通風を目的にした屋根裏空間です。
屋根を支える骨組みである小屋組みが、そのままむき出しになった簡素な造りをしています。
「小屋組み」は屋根の重さや風圧、 荷重などを軸組に伝えて支えるのが役割です。
Q:沖縄の風土に合わせた工夫や特徴は?
A:正殿の屋根の形、柱や梁の軸組には風土に合わせた工夫や特徴が見られます。
正殿上層の屋根は「入母屋造り」という形をしています。 これは見た目の美しさだけ
台風への備えでなく、通気性や暑さを防ぐ断熱性にも優れています。
台風への備え
台風に見舞われることが多い沖縄独特の工夫として、屋根の「軒」の突き出している部分が短く、柱の間をつなぐ「賞」が多く太いことがあります。
Q:正殿の二階はどのように使われていたの?
A:正殿の二階は「大庫理」と呼ばれ、 王族のための儀式や、祈りが行われたプライベートな空間でした。
ひときわ格式の高い造りになっていて、一階と同じく、 中央に御差床が配置された大広間があり、 最も高い所で4.2mもあります。
中央には一段高い所に「御差床(うさすか)」を設け、王を中心に様々な儀式や祝宴が行われました。 二階にも一階と同じ場所に御差床があるのは極めてめずらしく、一階と同様に二階の御差床は左右の柱に龍が描かれ、その周囲に雲が配されたとても豪華なデザインです。
御差床(うさすか)の手前には 「唐玖豊(カラファ―フ)」と呼ばれる小部屋があります。 ここから国王が前方の御庭に並ぶ諸官との対面に臨まれたりします。
Q:正殿の一階はどのように使われていたの?
A:正殿一階は 「下庫理(シチャグイ)」 と呼ばれ、 琉球国王が自ら儀式を行う場所でした。
一階には多くの柱で支えられた空間が広がり、その中央にある華麗な部分は「御差床(うさすか)」 と呼ばれて王の玉座が配置され、その左右には国王の子や孫が着座した 「平御差床(ひらうさすか)」があります。
御差床背後の障子戸を開くと、奥に国王専用の階段 (オチョクイ)があって、国王はその階段を使って二階から御差床に出御したマヤァ~。
Q:どのくらいの広さだったの?
A:一階の床面積は516.86㎡で、バスケットボールコート (420m)よりひとまわり大きいです。
Q:正殿全体の広さや高さは?
A:幅29m、奥行き21m、高さ18mです。
一階と二階の床面積は同じですが、三階はいわゆる屋根裏部屋のような機能を持つため小さい造りになっています。 上層部分が三階、下層部分が一階、二階と分かれ、首里城正殿は二層三階建ての造りになっています。



1.15 女官居室

1.16 世耕殿(よほこりでん)

世誇殿(よほこりでん)
世誇殿は、平常は王女の居室として使われていました。
また、 国王が死去した際に世子(せいし)を新しい国王とするための、 即位の儀式を行う特別な建物でもありました。創建年は不明です。
1925(大正14)年、首里城内に沖縄神社が建立された際、世誇殿は北側に移築され、社務所として使用されました。 移築後の世誇殿の資料が残されており、建物の形態や構造を知ることができます。現在の世誇殿は、 その情報に基づき、 元の位置に戻して復元されています。
1.17 湯屋
湯屋
国営沖縄記念公園事務所
御内原(おうちばら)の北寄りの一角に、女官たちの浴場の機能を持つと考えられる湯屋がありました。
「沖縄県首里旧城図」や「首里旧城之図」の表現によると、小さな建物と大きな水槽で構成され、その周りが瓦石積で囲まれた造りであったことがわかります。
発掘調査では、建物の隣の場所から、 目地が漆喰で塞がれた石積や薪を燃やしたような多量の炭が確認されています。 この場所で水を貯めたり湯を沸かしたりしていた可能性があります。
※国王の入浴に関する伝承
国王は別の場所で入浴しており、その場所は明らかではありませんが、次のようないい伝えがあります。
国王は夕方、二人の御側仕(世話係)に案内されて入浴しました。 風呂場の場所は不明ですが、六畳ぼどの広さで板張りされ、 厚板でつくられた四角い浴槽があり、お湯は別の場所で沸かして運ばれていたようです。王は白木綿の浴衣を着けて入浴し、御側仕が襟元や懐、袖口などから手を入れて手洗粉入りの袋で王の体を洗ってあげたそうです。(眞榮平房敬著 「首里城物語」による)

1.18 菊畑・小菊畑

菊畑・小菊畑
「菊畑・小菊畑」があったという伝承に基づき再現しています。
「菊畑・小菊畑」は、人の出入りが厳重に制限された御内原(おうちばら)にあることから、人を招き観賞に供した菊花壇ではなく、国王一家や女官の生活を彩る身近な花畑としてつくられたと考えられます。
その再現にあたっては、 琉球王国時代の菊を推定し、ふさわしいものを選んで栽培しています。
「菊畑・小菊畑」の名称から、 菊 (中輪菊) と小菊(小輪菊) を植え分けていたと推定されます。 当時の文献資料からも、花の色や形に様々な違いがあったこと、 野生菊も観賞していた可能性があることなどが推定されます。
また、 菊を食療法に用いた可能性もあることから、 当時薬用とされた草花などもあわせて栽培しています。

1.19 井戸状貯水遺構
井戸状貯水遺構
この井戸のようなかたちをした遺構は、発掘調査などにより雨水を貯留するための施設であったと考えられています。
内部には枝分かれしたトンネル状の空洞が広がっており、内壁には止水用の漆喰が塗られ、上部は天井石でふさがれています。
井戸口から底面までの深さは約3mあり、水深は約2m程度になるようにつくられていました。
西側にある2ヶ所の穴は、かつて「抜け穴」と呼ばれたこともありましたが、現在では雨水を空洞内に導くための集水穴と考えられています。

1.20 御内原ノマモノ内ノ御嶽 (ウチアガリノ御イベ)

御内原ノマモノ内ノ御嶽 (ウチアガリノ御イベ)
国営沖縄記念公園事務所
御嶽とは、聖地・拝所の総称で、信仰や祭祀の重要な場所です。 またイベ(イビ)とは御嶽の内部にある最も神聖なところです。
首里城内には数多くの御嶽があり、御内原にある御嶽のひとつがこの御嶽です。
白銀門の近くにあったため、明治以降には「白銀御嶽」との呼び名でも親しまれました。 古写真に近代の形態が確認できます。
1.21 白銀門・寝廟殿跡(しんびょうでんあと)

白銀門・寝廟殿跡(しんびょうでんあと)
国営沖縄記念公園事務所
■白銀門
東(あがり)のアザナの下方にある内郭石積に接して設けられた門で、別名「しろがね御門(うじょう)」とも称されています。 創建年代は不明。
白銀門と東のアザナの間には寝廟殿があり、白銀門は寝廟殿へ詣でる国王と女官専用の門であると考えられています。 他の人々は脇門をくぐったと伝えられています。
この門は城内の他の石門と様式が異なり、 石造形式の門となっています。 復元整備にあたっては古写真をもとに石組を忠実に復元しています。
■寝廟殿跡
先王の神位を祀る殿で、 方言でウチンビューウドゥンと呼ばれていました。 記録では1753年に創建され1845年に拡張されています。 拡張によって、 城外の大美御殿(うふみうどぅん)に安置されていた国王の霊柩をここに安置するようになりました。

1.22 東(あがり)のアザナ


1.23 淑順門(しゅくじゅんもん)
淑順門(しゅくじゅんもん)
国営沖縄記念公園事務所
淑順門は、国王やその家族が暮らす御内原(おうちばら)と呼ばれる場所への表門です。
琉球語の古称は「みもの御門(うじょう)」「うなか御門」です。
建物の創建年は不明とされています。
門の造りは櫓門形式・入母屋造・本瓦葺となっています。
現在の建物は、 遺構・古写真・古地図等の関連根拠情報に基づいて復元し、櫓の上塗は古文書を参考に旧久志間切 (名護市と東村の一部) で採取された弁柄を使用しています。

1.24 寄内ノ御嶽(ミヤガモリノ御イベ)
寄内ノ御嶽(ミヤガモリノ御イベ) 寄内ノ御嶽(カミヂヤナミヂヤデラノ御イベ)
御嶽とは、聖地・拝所の総称で、信仰や祭祀の重要な場所です。またイベイビ)とは御嶽の内部にある最も神聖なところです。
首里城内には数多くの御嶽があり、 そのうち「寄内ノ御嶽」と称されるふたつの御嶽がありました。 ただし、どちらも場所は確認できていません 。
右掖門(うえきもん)の別称を「寄内御門(よせうちうじょう)」ということから、城の北東城郭の内側が 「寄内」 と考えられています。
古絵図には、入口に石垣と門があり、先の郭は松や竹が植えられた緑地がありました。
発掘調査では、 「寄内」 の東側一帯に古い石積みやガマ遺構(洞穴)が確認されました。

1.25 竹林の再現と正殿に飾られた「連理の竹」
竹林の再現と正殿に飾られた「連理の竹」
古地図や伝承に基づき、この場所に竹林を再現しています。どのような種類の竹があったかは不明ですが、正殿の床の間に飾られていた竹は、 ここから採られていたことが想定されます。
正殿一階 (下庫理・しちゃぐい) にある御差床・うさすか (国王が座る玉座)の左右には大床(おおとこ)の間があり、 麒麟、 鳳凰のかけ軸が飾られています。琉球王国の正史である 『球陽』 に、 「尚敬17 (1729) 年より、下庫理に鳳凰と麒麟の軸をかけ、 金梧桐(アオギリ) と竹の枝を挿して床飾りとした。」 (巻十二897) とあります。「球陽」の記述にある金梧桐は鳳凰の床に、竹は麒麟の床に飾られていました。 また、この竹は「連理(れんり)の「竹」 であったと伝えられています。 連理の竹とは、 同じ節から二本ずつ枝を出す種類の竹で、二つの枝がつながった様子を夫婦のむつまじさにたとえたと考えられています。
1.26 ガマ遺構
ガマ遺構
崖地の下部に見える石積みの奥には、人力でつくられた洞窟状の遺構(以下、「ガマ遺構」という)があり、周辺の遺構とともに出土状況をそのまま展示しています。
このガマ遺構は18世紀初頭に作られた古絵図に描かれておりますが、 琉球王国の正史には記録がありません。
その形態は、 浦添市にある 「浦添ようどれ (琉球王国の陵墓)」 とよく似ています。
また、この遺構は「ウシヌジガマ」と呼ばれ、首里王府の女官達が息抜きの場として使われたという伝承があります。
ここから出土した遺物から、 グスク時代 (15世紀)から近代(20世紀) まで使われていたことが分かっています。
前面に見える切り立った崖地も人力で作られています。崖地の左側上部の石積付近では、厭勝銭(ようしょうせん・魔除けやまじないを目的とした金銭) 1枚が出土しています。
ガマ遺構を囲むように、先の大戦中に師範学校の生徒達が掘った留魂壕(りゅうこんごう)がありました。
また、この一帯に2カ所の御嶽(うたき・琉球の信仰における祭祀などを行う施設)があった可能性が指摘されています。
1.27 王宮で栽培された身近なくだもの、タカイチュビ
王宮で栽培された身近なくだもの、タカイチュビ
伝承に基づき、この場所に 「高覆盆子(たかいちゅび)畑」を再現しています。
琉球ではホウロクイチゴなどのキイチゴをタカイチュビといい、 春から初夏にかけて実がなります。
ここでは、沖縄本島に自生するホウロクイチゴ、リュウキュウイチゴ、リュウキュウバライチゴ、 ナワシロイチゴなどを植えました。
琉球食療法の指南書「御膳本草(ごぜんほんぞう)」にタカイチュビについての記述があります。 「よく子を生ずる」 とあることから世継ぎを授かるために国王や王妃が好んで食したのかもしれません。
1.28 リュウキュウマツ
琉球王国が育成に努めたリュウキュウマツ古地図や伝承に基づき、リュウキュウマツ(トカラ列島以南に分布する南西諸島固有のマツ)の大木を再現しています。
琉球王国時代、松は修景や防風、造船用材など様々な目的で積極的に育成されてきました。現在でも沖縄の風景をかたちづくる主要な樹木です。
王 (在位 1477-1526) は特に松を愛し、 松並木を造らせたことを記した石碑が多く残されています。また、松は長寿の象徴とされており、首里王府の編纂した歌謡集 「おもろさうし」 巻五の七十では、枝を伸ばす松にちなんで王の長命をうたっています。
おぎやかもぎや(尚真王の)
おこのみの なみまつ (御企画の並松 )
おぎやかもいほこて(尚真王 誇って)
すゑまさて (未勝って)
ゆださちゑ ちよわれ(枝差して在しませ)
(出典: おもろ研究会著、池宮正治編 『おもろさらし精華抄』、ひるぎ社、1987年)尚敬王(在位1713-1751)の時代に王府の最高職である三司官をつとめた蔡温・ さいおん (1682-1762)は、リュウキュウマツをはじめとする造林政策を推進し、 宜野湾並松、今帰仁並松などの美しい松並木をつくらせました。

1.29 銭蔵(ぜにくら)

銭蔵(ぜにくら)
銭蔵は、主に酒(泡盛)や油類、 日用的に使用するお金などを保管していた建物です。
建物は、高床風の二階建ての造りで、 東に近接して「厩(うまや)」と「係員詰所(かかりいんつめしょ)」があったと考えられています。
創建年は不明ですが、18世紀前半と考察されている 「首里古絵図」に銭蔵は描かれていることから、創建年はそれ以前になると想定されます。
復元整備によって、建物の輪郭と柱位置を平面表示した上に、かつての銭蔵をイメージした休憩施設を設置しています。
1.30 久慶門

寒水川樋川(すんがーひーじゃー)
瑞泉門前の龍樋とならんで首里城内の重要な水源でした。 生活用水のほかに防火用水としても利用されたといわれています。
あふれ出た水は地中のみぞを通り、久慶門の外側の左右から再び地中に入り、門の向かい側にある円鑑池(えんかんち)に抜けました。
円鑑池が満水になるとさらに龍潭(りゅうたん)に注ぎました。
このことから首里城の排水処理の一端を知ることができます。
1.31 琉球王国時代の臨済宗の寺院跡


琉球王国時代の臨済宗の寺院跡
天界寺は、第一尚氏第六代国王尚泰久(しょうたいきゅう)が、景泰(けいたい)年間(1450~56年)に創建したとされる。山号は妙高山(みょうこうざん)、開山は渓隠安潜(けいいんあんせん)禅師。
創建当初の伽藍(がらん)は、寝室・方丈(ほうじょう)・東房・西房などで、尚徳(しょうとく)王(第一尚氏第七代国王)代の1466年に大宝殿(だいほうでん)が建立され、また、成化己丑(せいかきちゅう)(1469年)鐘銘の梵鐘も掛けられた。1576年、火災により焼失したが、順治(じゅんち)から康煕(こうき)年間にかけて、堂宇が建立され、再興された。天界寺松尾(ティンケージマーチュー)と呼ばれた東隣の松林を含む寺域は約1,080坪余であった。
再興後は、尚泰久王・尚徳王の位牌のほか、第二尚氏の未婚の王子・王妃が祀られ、円覚寺(えんかくじ)・天王寺(てんのうじ)とともに尚家の菩提寺(三ヵ寺)の一つとなった。国王の元服や即位の際には、三ヵ寺詣での慣わしがあった。
1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)後は、尚家の私寺となったが、後に払い下げられた。1913年(大正2)頃、跡地の北東隅に、首里(シュイ)・儀保(ジーブ)・真壁(マカベ)の3人の大阿母志良礼(ウフアンシタリ)(王府の高級神女)の神殿を統合した「三殿内(ミトゥンチ)」が置かれ、信仰を集めた。
天界寺松尾には、1886年(明治19)、首里小学校(後の首里第一尋常高等小学校)の校舎が建てられたが、1912年(明治45)に、校舎狭隘のため首里城内へ移転した。跡地は採石場となり、さらに、1915年(大正4)には、大正天皇即位祝賀を記念して、沖縄県師範学校の記念運動場が開設された。
1945年(昭和20)の沖縄戦により、三殿内は消失し、天界寺の寺域跡は、住宅地となったが、1992年(平成4)の首里城復元に伴い整備され、道路及び首里城公園の一部(レストセンター・管理棟)となった。
なお、1697年に掘られたという天界寺の井戸(那覇市指定文化財)が、現在も残されている。
2 夜の首里城
ナイトツアーです。
踊りやプロジェクションマッピング付の城内見学でした。
2.1 守礼門














































