識名園(しきなえん)(古称: 識名御殿・シチナヌウドゥン) は、 1799 (嘉慶3)年に完成した琉球王家最大の別邸で、 中国皇帝の使者・冊封使の接待や国王一家の保養などに利用されました。
首里城の東に位置した国王の別邸である御茶屋御殿(ウチャヤウドゥン)が 「東苑(とうえん)」 と呼ばれたのに対し、 識名園は首里城の南にあるので「南苑(なんえん)」とも呼ばれました。
目次
1 入口

2 正門

正門(せいもん)
この門は、国王一家や冊封使(さっぽうし)などが出入りされました。
正門、通用門ともヤージョウ (屋門)と呼ばれる屋根のついた形式のものです。
ヤージョウは、格式のあるお屋敷にのみ許されていたものです。
識名園のヤージョウは、王府時代の格式を踏襲した趣のある門です。


3 心字池

4 石橋


5 育德泉(いくとくせん)とシマチスジノリ

育德泉(いくとくせん)
徳泉は清冽(せいれつ)な水をたたえ、池の水源の一つにもなっています。
琉球石灰岩を沖縄独特の「あいかた積み」にして、巧みな曲線が優しい美しさを感じさせてくれます。
また、井戸口は右手にもあります。
井戸口の上には、泉をたたえた2つの碑が立てられています。
向かって右は、 1800(嘉慶5)年、尚温(しょうおん)王の冊封正使趙文楷(さっぽうせい しちょうぶんかい)が題した 「徳泉碑」 です。
向かって左の碑は、1838 (道光18) 年、尚育(しょういく)王の冊封正使林鴻年(りんこうねん)が題した 「甘醴廷齢碑(かんれい えんれいひ)」 です。 もとの碑は、戦災を受けて下部が破損したため、 1980 (昭和55)年に拓本をもとにして復元したものです。
シマチスジノリ
徳泉は、淡水に育つ紅藻類(こう そう るい) 「シマチスジノリ」の発生地とし
て、1972(昭和47)年、 国の天然記念物に指定されました。
シマチスジノリは糸状で、根もとから先にかけて多くの枝を出しています。
全体に軟らかく、粘りがあり、暗い紅褐色(こう かっしょく)をしています。
香りがよいので、 食用にもなりました。
チスジノリの仲間は、 長崎県、鹿児島県、沖縄県にだけ分布しています。
それぞれ別の種類で、沖縄県にはシマチスジソリだけが分布し、ここの外には、 今帰仁村字天底などで見ることができます。

6 六角堂
池に浮かぶ島につくられた六角形のあずまやです。
屋根の形や瓦を黒く色付けしているところに、中国的な趣を感じさせます。
島へは一つ石(琉球石灰岩)でつくられたアーチ橋が架けられています。

7 御殿(うどぅん)

御殿(うどぅん)
御殿は赤瓦屋根の木造建築で、往時の上流階級にのみゆるされた格式あるつくりですが、 雨端などに民家風の趣(おもむき)を取り入れています。
明治末期から大正時代のはじめごろ、 増改築がなされました。
総面積は525㎡ (約 160 坪) で、 冊封(さっぽう)使を迎えた一番座、 それに連なる二番座、 三番座、 台所、 茶室、 前の一番座、 前の二番座など、 15 もの部屋がありました。









これは厨房です。

8 駕籠屋(かごや)
当時の王族や高官が移動手段として使っていた「駕籠」を保管・準備したり、それを担ぐ人たちが待機・休憩したりするための場所です。


識名園の屋根瓦
柳宗悦は『琉球の富』 の中で、 沖縄の赤瓦のことを「鼠色の冷たい吾々の瓦に比べて、 それは温かく美しい赤なのです。
その赤がまた非常に落ち着いた色合なのです。
しかもその赤の間を太々と豊かに白の漆喰を盛り上げるのです」と述べています。
識名園の瓦にふれて、模様、大きさ、厚さ、温かさを体感ください。
9 番屋

番屋
番屋は、通用門と御殿の近くに位置する識名園を管理した番人の住居。
玄関をあがり、 広縁のある部屋が一番座で、隣の小さな部屋が二番座です。
廃藩置県後には、 空手 (首里手) の達人であった 「武士松村」こと松村宗棍が番人として勤めており、多くの弟子を識名園で指導したとのことです。
識名園周辺の史跡・旧跡 Historic Sites and
識名園の位置する那覇市真地地区は、首里台地に対峙する識名台地の東寄りに位置し、かつては真和志間切識名村の一部であった。
識名村の村域は、琉球王国時代識名台地のほぼ全域を占めていたが、1700年代以降首里からの移住者(「屋取(ヤードゥイ)」)が出始め、 明治期以降、移住者の人々が共同体を形成し始めた。
このため1909年(明治42) に繁多川、1916年(大正5)に真地が行政字として識名から分離した。
識名・繁多川・真地の地域は、 識名園内にある 「育徳泉」 をはじめ多くの樋川がある一方、台地の中央及び斜面は数多くの墓が建ち並ぶ墓地地帯でもある。
特に1956年(昭和31) 那覇の市街地整備のため、 市内に点在する墓地の移転代替地として整備され、 識名霊園墓地が造られた。
墓地には程順則(ていじゅんそく・文人)や野村安趙 (のむらあんちょう・三線野村流の始祖) など歴史上有名な人物のお墓もある。
首里城から識名園に至る周辺一帯には、文化財に指定されている 「沢岻(たくし)「親方の墓」や「ヒジ川橋及び取付道路」、 そのほか識名宮、 神応寺跡、 識名馬場跡、沖縄戦時中のガマ (避難壕) など多くの史跡・旧跡が残されている。







