史跡

室町時代に関東支配を目指した「堀越公方」の堀越御所跡

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関東と周辺国の10か国を統治する鎌倉府の長官鎌倉公方は、足利尊氏の四男・足利基氏の子孫が世襲しました。

また、鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置されました。

しかし、室町時代後半になると公方と管領の力関係が微妙になって来ます。

図はWikipediaから

享徳3年12月27日(1455年1月15日)には、第5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府・足利将軍家と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家が、足利成氏と争った結果、成氏は下総古河に拠点を移し、以後、古河公方と呼ばれ、古河で勢力を保ちます。

一方、幕府は新たな鎌倉公方として室町幕府8代将軍足利義政の異母兄である足利政知を関東に送り込みましたが、政知は幕府から実権を与えられておらず関東の諸侯に命令を出せない状態で安全に鎌倉に入ることができませんでした。

そのためその勢力はほぼ伊豆国のみに限定され、伊豆国堀越(静岡県伊豆の国市)を本拠地としたことから堀越公方と呼ばれることとなりました。

伊豆国堀越(静岡県伊豆の国市)の場所は下記地図です。

 

伝堀越御所跡は「堀越公方」と呼ばれた足利政知(あしかがまさとも)の御所があったと伝えられる場所です。

室町時代の後半、大名の勢力争いが激化し、日本各地で戦乱が起こっていました。

とくに関東地方は、京都にある室町幕府に従う勢力と対抗する勢力とが激しく争っていました。そこで、将軍の足利義政が、直接関東地方を支配するため、長禄元年(1457)、鎌倉公方として派遣したのが兄の足利政知です。しかし、政知は戦乱のため関東(鎌倉)まで行くことができず、韮山の堀越(ほりごえ)の地に居館(きょかん)を作って身を落ちつけました。

これにより政知は「堀越公方(ほりごえくぼう)」と呼ばれました。

しかしこの御所も、その子「茶々丸」の時、明応2年(1493)に伊勢宗瑞(北条早雲)によって滅ぼされてしまいました。

発掘調査によって、池跡や遣水、建物跡が見つかっていて都風な公方の生活を知ることができます。

 

茶々丸のお墓はすぐ近くの願成就院にありました。ブログはこちら

歴史に翻弄され、はかなくも2代で滅ぼされた堀越公方の血筋は、中央の政変によって足利政知の三男・足利 義澄(あしかが よしずみ)が第11代将軍に就いてから、15代・足利義昭までの室町幕府の将軍は全て堀越公方の血筋が続きました。

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