渋沢栄一は幕末に武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)の豪農に生まれましたが、徳川慶喜に仕え、明治新政府の民部省・大蔵省をへて、実業の世界に入っていきます。
「我が人生は、実業にあり」と本人が言うくらい多種多様な企業の設立や運営に関わり、その数は500以上といわれています。
ここでは、都内にある、渋沢栄一関連の施設を紹介します。
下の写真は埼玉県深谷市の実家「中の家」の前で撮影したものです。
目次
1 銀行事業
明治6年(1873年)自ら設立を指導した第一国立銀行(後の第一銀行、第一勧業銀行:現・みずほ銀行)の総監役に就任後、全国に設立された多くの国立銀行の指導、支援を第一国立銀行を通じて行いました。
日銀近くの常盤橋公園には昭和8年(1933)に財団法人渋沢青淵翁記念会(現在の渋沢栄一記念財団)によって建てられた渋沢栄一翁像があります。
1.1 日本銀行旧館
旧館は、東京駅で有名な建築家・辰野金吾の作品です。
建物の中を見学するには予約が必要です。
記事は2009年の見学時の記憶を元に記載しています。
撮影禁止のため写真はありませんが、行内に使われている煉瓦は、東京駅と同様に、渋沢栄一の出身地の深谷煉瓦が使われていました。
深谷は従来から瓦生産が盛んで、良質な粘土が取れること、また利根川の水運によって、東京までできた煉瓦を運べることから煉瓦工場を設立したとのことですが、やはり渋沢栄一の力は大きかったのだと思います。
2 東京ガス
「GAS MUSEUM がす資料館」(東京都小平市大沼町4-31-25)で
2021年 1月16日(土)から 3月28日(日)まで
「渋沢栄一とガス事業」‐『公益追求』実践の軌跡 ‐ 展
が開催されています。
明治7年(1874年)に東京でガス灯事業が始まります。
横浜のガス灯から2年後の1874年(明治7年)には東京の銀座通りにも86基のガス灯が輝くようになりました。
銀座のガス灯は文明開化の象徴でした。
しかし、当初のガスの利用は”あかり”に限られていたため需要者が増えず厳しい経営状態が続いていました。
明治9年(1876年)東京瓦斯局に経営が移管され、経営が軌道に乗り始めた明治18年(1885年)東京府の払い下げを受け、東京瓦斯会社が発足しました。
その初代社長は渋沢栄一でした。
発足当初の需要家の数はわずか343戸です。当時は裕福な家庭の設備でした。
昔のガス灯は火がむき出しで怖いですが、行灯も蝋燭も火が露出しているのは同じです。
その後、熱としてガス利用されるに及び、爆発的に需要が増加して行きます。
いかがでしたでしょうか。
なんせ500社以上もかかわった人ですから、他にも隠れた関連施設があるものと思われます。
今回は都内の2施設について、昔の写真を取り出して説明しましたが、他の施設も見つけたら順次追加してゆこうと思ってます。