伊豆の国市にある江川邸は、韮山反射炉の建築に奔走した江川太郎左衛門英龍(えがわたろうざえもんひでたつ)の邸宅です。
英龍は地元の韮山では号の江川坦庵(たんなん)と呼ばれることが多いようです。
これが江川英龍さんの自画像です。
もともと反射炉は1853年(嘉永6)、伊豆下田にて築造を開始しました。
しかし翌年に下田に再来航したペリー艦隊の水兵が反射炉建設地内に進入するという事件が起こり、急きょ築造場所が江川邸のある伊豆韮山に変更となりました。
重要文化財江川家住宅
江川氏の遠祖宇野氏は大和の国に住む源氏の武士であったが、保元の乱(1156)に参戦して敗れ、従者13人と共にこの地に逃れて居を定めたと伝えられる。
現存の家屋の主屋は室町時代(1336~1573)頃に建てられた部分と、江戸時代初期頃(1600年前後)に修築された部分とが含まれている。この主屋は昭和33年(1958)に国の重要文化財の指定を受けた。
同35年より文化庁、静岡県及び韮山町の協力を得て解体修理が行われ、文化14年(1817)に行われた大修理以前の古い形に復元された。
またその際萱葺きだった主屋の屋根は現状の銅板葺きとなった。
江川氏は徳川時代の初期より幕末に至るまで代々徳川幕府の世襲代官を勤めた。その中で幕末の江川英龍は体制側にありながら革新思想を持ち、農兵の組織、大砲の鋳造、品川台場築造の計画等をすすめたことで知られている。
昭和42年に財団法人江川文庫が設立され、重要文化財および代官所記録の維持管理にあたっている。江川家住宅及びその周辺の重要文化財は次のとおりである。
江川家住宅宅地 11837平方米
同 主家
同 付属建屋、書院、仏間、土蔵等
川を渡って、門に行くまでに右手に広がる桝形(広場)です。
一般的に言われている防衛のための桝形とは違うようです。
桝形
桝形と呼ばれるこの広場は、江戸時代に代官が外出する際、人数を揃えるのに使われていました。
幕末には、農兵の訓練場としても使われていたと伝えられています。
農兵の訓練には、「右向け、右」「気をつけ、前へならえ」などの「鋭音号令」が用いられました。
現在でも使われているこれらの号令は、西洋式の軍事訓練におけるオランダ語を江川英龍が翻訳し、日本人にわかりやすいように工夫した物です。
門です。
本宅は、工事中(2022-1-24現在)のため、全体がシートで覆われていました。
工事開始前の写真です。
本宅の玄関です。
玄関を入って右手には「塾の間」があります。
幕末砲術の勉強のために全国から来た塾生たちの講義はここで行われました。
机が横長なのは、当時の紙が横に長いものだったため、この形が、使い勝手が良かったからだとのことでした。
ディアナ号とヘダ号
安政元年(一八五四)十一月、マグニチュード8クラスの巨大地昜日本を襲いました。「安政の大地震」です。
折しも下田では、ロシア使節ブチャーチンと日本側との間で、日露和親条約締結のための交渉が行われていました。
地震に伴う津波によって、下田の町と湊は壊滅し、プチャーチンの乗艦アィアナ号も船底を損傷。修理のために曳航する途中で沈没してしまいます。
ブチャーチン以下乗組員数百名は助かりましたが、ロシアに帰るための代船が必要となりました。幕府の命を受け、この代船建造の指揮を執ったのが、韮山代官江川英龍でした。
船の建造は、戸田(へだ)村(現沼津市戸田)で行われました。
ロシア人の股計に基づき、日本の船大工たちが協力して 造り上げたのが、二本マストのスク—ナーでした。
この、 日本初の本格的洋式帆船は、建造地の名を取って「ヘダ号」と名付けられました。
※写真はディアナ号の模型。
江川邸で砲術の勉強をしていた塾生が小銃を使って、6cm角の的に当てる「奉納角打ち」をした結果です。
名前の横に出身藩の名前があり塾生が各地から来たのが分かります。
土間です。
土間の片隅には竈があります。
土間の入口付近には、籠も吊ってありました。
土間の天井の様子です。
江川太郎左衛門英龍につながる江川家の歴史をピックアップしてみました。
時代は平安時代に遡ります。
江川家の祖先は、源の満仲の次男宇野頼親といわれています。
1156 6代の宇野七郎親治が、保元の乱に参戦。敗れ、従者13人と共にこの地に逃れて居を定めたと伝えられています。
9代の宇野太郎親信が、源頼朝とともに挙兵します。
頼朝の旗揚げは江川邸の近くの山木兼隆の屋敷を襲うことから始まりました。
この時には、江川家も源氏の血筋として行動を共にしたのでしょう。
10代の宇野太郎治信が、頼朝から江川壮を賜りました。
21代英信が姓を江川に改めます。
23代英住が、北条早雲進出に際し、早雲の配下となります。
27代英吉が、豊臣秀吉の小田原城攻めに対し、韮山城を守ります。
28代英長が、徳川家康の配下となり、代官となります。
そして幕末の36代英龍につながります。
役所跡
役人が執務した建物のあった場所です。
英龍が江戸時代にパンを焼いたのを記念して、パン祖の碑が建てられています。
英龍が焼いたパンは、現代人が想像するパンではなく、兵粮としてのパンで、乾パンのようなものでした。
これを記念して、伊豆の国市では毎年 「パン祖のパン祭り」を開催しています。
韮山駅近くで行われた「パン祖のパン祭り」の記事はこちら 「『鎌倉殿の13人 伊豆の国大河ドラマ館』に行ったら 蛭ケ島公園までお散歩しよう」にもあります。
パン祖の碑
江川英龍は、天体十三(ー八四二)年、この韮山屋敷において、兵が携行する兵粮(ひょうろう)として乾パンを製造しました。このことは、パン食の普及していなかった当時の日本においては‘、画期的なことでした。
昭和二十七(一九五二)年、「全国パン協議会」および「静岡県パン協同組合」は、英龍に「パン祖」の称号を贈るとともに、この「パ シ祖の碑」を建立して功績をたたえました。
パン祖江川坦庵先生邸
蘇峰正敬書
江川坦庵先生ハ、維新期ノ次意着ナリ。材ハ文武ヲ兼ネ、識八束各二通ジ、百藝皆該ヌ。乃チ製麺麭ノ術モ亦、本邦ノ開祖ナリ。
昭和後学蘇峰正敬識
井戸です。江川氏は1688-1703まで酒を造っていました。
この井戸の水も酒造用に使われていた可能性があります。
西蔵です。
幕末頃の建築で、正面から見ると将棋の駒のような形をしていることから「駒蔵」とも呼ばれています。
また、四方の壁が内側に向かってわずかに傾いた「四方ころび」といわれる技法で建てられています。軒の屋根が瓦ではなく伊豆石で葺かれているのが特徴です。
米蔵です。左側の南米蔵は明治25年、右側の北米蔵は大正8年に建築されたものです。
幕末に作られた武器庫です。
裏門と、その手前にあるのが、びらんじゅです。
裏門は文政6年(1823)の建築です。
松平定信も感激したという裏門からの富士の眺めです。
びらんじゅはバラ科の常緑樹で、葉を煎じると咳止めや鎮静剤となります。
江川邸は敷地も広く、見どころ満載でした。
本宅内では、切符を打っていたおばさんが、説明員でやって来て丁寧に展示品や建物の作りを説明していただきました。
韮山反射炉と、セット券で入場するとお得です。
反射炉の記事はこちらです。