弘前城は全国でも珍しい、江戸時代の城の全形が残っている城です。
天守も、門も、櫓も、外堀も全て江戸時代のものが弘前城公園として保全されています。
目次
1 外濠
外濠、内濠は、桜の季節には散った花びらが水面に降り積もる「花筏(はないかだ)」を見ることができます。
2 追手門(おうてもん)
今回は追手門から入城します。
史跡
津軽氏城跡 弘前城
史跡指定 昭和二十七年三月二十九日
弘前城は津軽藩主代々の居城で慶長十六年(一六一一)に二代藩主津軽信技によって築かれた城である。
面積約四十九万二千平方メートル(約十四万九千坪)を有し、本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の六郭よりなり三重の濠と土塁でめぐらされた城郭である。
現在城跡には、天守閣をはじめ隅櫓三棟、城門五棟の建造物が残されており、いずれも重要文化財に指定されている。
重要文化財
弘前城三の丸追手門
昭和十二年七月二十九日指定
構造 脇戸付櫓門、屋根銅瓦葺
弘前藩四代藩主津軽信政の代に、参勤交代経路が変更され、それに伴い、大手(正面)の門とされました。
建築は築城当初まで遡ると考えられています。
当初は本瓦葺でしたが、後に銅瓦葺に葺き替えられました。
また、明和三年の大地震によって大きな被害を受けたことから、二層内部に、支柱・筋違·梁を入れて補強しています。
弘前市
3 未申櫓(ひつじさるやぐら)
重要文化財
弘前城二の丸未申櫓(ひつじさるやぐら)
城郭に取り付く敵を攻撃したり物見のために造られたもので、防弾・防火のために土蔵造りとなっている。
現存する三つの櫓はいずれも三層建てで同じような形であるが窓の形など細部の造作に違いが見られる。
櫓の方角を十二支で示したもので、未申(ひつじさる)は南西に当たる。
弘前市
中心の天守方面へ向かいます。
桜の季節はさぞ両側の枝に花が咲き誇り綺麗な道になることでしょう。
石垣の石引きの様子(金沢城)。
"石引き"は祝祭空間
城郭での石垣普請の様子を彷彿(ほうふつ)させるものとして名古屋市博物館所蔵の「築城
図屏風」がある。
六曲の屏風で、石材の運搬、城石垣の構築、都市のにぎわいが闊達(かったつ)に描かれる。石を引く人々の表情が生き生きとしている。
石を引き、積むという苦役の空間がお祭り騒ぎとして描かれているところが面白い。
まさに、石引き・石積み空間は祝祭の場であった。
屏風に描かれた内容を詳しくみていくと、まず目につくのが、向かって左、六扇から四扇の下方にみられる大石を運搬する人々である。
大石を修羅にのせ、石の上に異形(ひぎょう)のいでたちの男たちが四、五人乗っている。
そのなかの一人が法螺貝(ほらがい)をふき、一人は太鼓をたたくなど囃(はやし立てている。そして、その大石を入0人以上の男たちが何列にもなって綱を引っ張っている。
徐々に右に目を転じていくと四扇から三扇にかけては、木組にくくりつけられた、やや大きめの石材を運ぶ姿がみえる。
二扇から一扇にかけては荷車に石をのせ、あるいは牛に引かせているもの、三角形の籠(かご)で小石を背負うなど石材運搬のシーンが続く。
一扇右上には、もっとから下ろした石を一つずつ男たちが持っている。
こうして選ばれた石材は、石垣として築くことになる。
二扇上では、手木(てこ)の者が足場を組み、最終的な面の調整を行っている様子も見える。
このほか、二扇下には算盤(そろばん)をはじく現場監督らしい人、材木を運搬する人々も見える。
さらには、三扇には普請場につきものの喧嘩の様子にも目を向け、リアルな石垣作りの様子が活写されている。
石引きは熱狂の中で石材運搬の難所では、木遣(きや)り衆の派手な衣裳や掛け声で元気を出させた。
人足たちを熱狂と興奮の中におかないと、とてもついていけない重労働であったからだ。
石川県金沢城調査研究所編
「よみがえる金沢城2」抜粋・一部改変
弘前城跡 現在の石垣修復工事
2014 ~ Ishigaki reconstruction currently in progress
石垣の「孕み(はら)」
本丸東面では、昭和38年(1983)5月に発生した日本海中部地震をきっかけとして、石垣の孕みだしの指摘があったことから、翌年から石垣の定点観測等を実施し、その結果、石垣が内濠側に最大で1メートル孕み、
天守は北東隅部分で約30センチメートル沈下していることが明らかになったものです。
このため、このままの状態で放置すると、地震等の衝撃により、石垣が天守を巻き込んで崩落する危険性があることから、石垣をいったん解体し、積み直す修復工事を平成26年度(2014)から開始しています。
4 杉の大橋
杉の大橋
南内門外の大橋に当たり、名称は杉材を用いた橋ということから付けられたといわれる。
文政四年(一八二一)に濠の両側が石垣となるとともに、桧材によって掛替えされた際に欄干・擬宝珠がつけられたものである。
弘前市
橋の上から見る内濠も桜の季節には見事になりそうですね。
5 二の丸南門
重要文化財
弘前城二の丸南門
昭和十二年七月二十九日指定
構造 脇戸付櫓門、屋根銅瓦葺
建築年代は、築城期まで遡ると考えと考えられています。
二の丸東門と同様に、一階正面の柱にケヤキ板を、化粧の鏡板として張り付けるなど、内廻りの門として配慮がなされていると考えられる城門です。
建築当本瓦葺でしたが、文化年間に銅瓦を葺いた記録が残っています。
弘前市
6 辰巳櫓
7 弘前城情報館
天守へ行く前に情報館でお勉強です。
7.1 二の丸御宝蔵跡
情報館の南側にあります。
二の丸御宝蔵跡
元禄8年(1695)に完成したとされる。「御朱印」「御系図」といった津軽氏の統治権力に関わる書類や、「御重代御太刀(おんじゅうだいおんたち)」等の宝物が収められていた。
調査により蔵の土台が東西約7m、南北約12mの範囲で確認され(橙色)、東西の壁側には南北に並行して延びる幅約60㎝の雨落ち溝2条を検出した (茶色)。
文献等から、本丸の蔵と同様に3間×5間の二階建ての切妻屋根と推定される。
弘前市
7.2 情報館の中
7.3 二の丸御高覧所跡
情報館の裏手(東側)にあります。
二の丸御高覧所跡
馬場の中央に位置し、東西約6m、南北約6mの総柱建物を北に一部拡張したL字形である。 藩主が藩士らの馬術を御高覧になった場所で、藩庁日記によると藩主が城にいるときだけ仮設した。
馬場が元禄7年(1694)に築造されているので、同時期から仮設されたものと推定される。
弘前市
7.4 二の丸馬場
二の丸馬場
二の丸馬場は、元禄七年(一六九四)に完成し、明治四年(一八七一)の廃藩まで使われていました。
復元整備は発掘調査成果(図1)を基に、最も馬場が詳しく描かれている文化二年(一八〇五)の絵図(図2) を参考にして実施しました。
馬場は、長さ一六〇m(九十間)、幅一六m(九間)で、柵で仕切られ、内側に排水溝と通路、小土居(小さな土塁)がありました。小土居北端部は、絵図ではL字に曲がりますが、発掘調査成果から真直ぐに復元しています(図3)。
藩主は、御高覧所から馬の品定めをし、藩士の馬事訓練を実見しました。
馬場は、二の丸の他に、本丸・三の丸・西の郭・西外の郭にあり、城外では四代藩主信政を祀る高照神社などにもありました。
高照神社の馬場は、文政一三年(一八三〇)年に造られ、二の丸馬場とほぼ同規模で、外側土塁に石積がありました。
神事に使われており、平成二九年に復元整備されています。
弘前市
8 二の丸東門
重要文化財
弘前城二の丸東門
昭和十二年七月二十九日指定
構造 脇戸付櫓門、屋根銅瓦葺
建築年代は、築城期まで遡ると考う られています。
二丸南門と同様に、一階正面の柱にケヤキ板を、化粧の板として張り付けるなど、内廻りの門としての配慮がなされていると考えられる城門です。
建築当初は本瓦葺でしたが、文化年間に銅瓦を葺いた記録が残います。
弘前市
9 二の丸東門与力番所
二の丸東門与力番所
与力番所とは、城内の主要な箇所の見張り所として配置されたもので、藩政時代には追手門与力番所、三の丸東門与力番所等十二ヶ所に建てられていたようである。
この与力番所の建築年代は定かでないが、柱や梁に残された墨書きは江戸時代初期に建てられた三の丸東門の墨書き跡と酷似し、構築手法は江戸時代中期の様相を呈していることから、古材を利用し、江戸時代中期に一度改修したものと推定される。
廃藩以降取り壊されることもなく、そのまま放置されていたものを、大正四年頃に現在緑の相談所が建てられているその東側に曳家移築し、以後、公園管理人宿舎や作業員詰所として使用していた。
それを昭和五十四年から三ヶ年をかけ、文化庁の指導協力を得て再度復元移築したものである。
弘前市
10 下乗橋
この橋を渡ると天守のある本丸です。
下乗橋
本丸と二の丸を結ぶ橋で、この橋の二の丸側に下馬札(げばふだ)があり、藩士は馬から降りるように定められていた。
築城当初、橋の両側は土塁板だったが、文化八年(一八一一)に石垣に直したも である。
以前は擬宝珠が十二支をかたどったものであった。
弘前市
11 天守入口の枡形
11.1 鶴の松
種名 鶴の松
アイグロマツ(マツ科)
幹周 2.4m
樹高 6m
推定樹齢 三〇〇年以上
属揚園内随一の名木である。
老鶴形に仕立てられ美しく優雅な形をしているところから「鶴の松」とよばれている。
向いの石垣の中心に「亀の石」とよんでいる大石があり、並び称されている。
11.2 亀の石
12 弘前城天守
詳細は
「弘前城天守は、石垣の改修中につき移動中」で報告。