史跡

若き日の徳川家康が17年間過ごした浜松城址

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若き日の徳川家康の居城であった浜松城は、現在は公園として市民憩いの場所になっています。

天守は、江戸時代の早い段階で亡くなったと推定され、現在は昭和33年に作られた現在の復興天守閣が建っています。

 

家康在城時の浜松城のイメージ図

『武徳編年集成』 の永禄12年正月の頃にあげられている城の推定位置を赤字で示しました。

家康在城期の浜松城は、石垣や瓦葺き建物がない、戦国時代の実用的な土づくりの城であったと考えられています。

イメージ図では、堀と土塁、木製の柵をめぐらせた曲輪を配し、簡素な物見櫓と板葺き屋根の建物を表現しています。

これまでの発掘調査により、 家康在城期とされる遺物が元城町東照宮、 作左曲輪、 清水曲輪から出土していますが、 旧元城小学校内で発見された井戸跡からは、瓦片が出土しており、 家康が瓦を使った建物の造営に着手していた可能性も考えられます。

1        天守台

天守台

浜松城の天守台は、一辺21mのややいびつな四角形をしていて、西側に八幡台と呼ばれる突出部が付いている。

また東側には、 付櫓(つけやぐら)と呼ばれる張り出し部分があり、現在は復興天守閣への入口として利用されている。

浜松城の天守は第二代城主堀尾吉晴の在城期 (1590頃)に築かれた説が有力だが、 17世紀の絵図には天守が描かれていない事から、江戸時代前期には天守が失われていたと考えられている。

昭和33年に作られた現在の復興天守閣は、天守台の大きさと比べると小さいものである。

かつての浜松城は、築城時期等から大きな屋根を持つ下層部の上に小さな望楼が載せられる 「望楼型」であった説が有力である。 その規模は天守台の大きさから推測すると現在よりも一回り大きい四重五階で、巨大な天守だったと考えられる。

 

2        天守門

天守門

浜松城の第二代城主、 堀尾吉晴は城の中枢である天守曲輪に天守を建築したと言われているが、この天守は古図などの資料から、江戸初期には喪失していたと考えられる。 天守曲輪入口の天守門は幕末まで維持されたが、明治6年(1873) に解体され、払い下げられた。 「安政元年(1854)「浜松城絵図」には安政地震による浜松城の被害状況が示されており、 天

守門でも櫓の壁が一部潰れたものの、 深刻な被害を免れた事が記載されている。

絵図には天守曲輪の外周を土塀が囲んでいる様子も描かれている。 天守門は、門の上部に櫓が載る櫓門と呼ばれる形式がとられている。

天守門のように櫓が両側の石垣上にのびる渡櫓は、 石垣を多用した西日本の城に多く見られる。

天守門(復元) の概要は次の通り

  1. 構 造:木造・櫓門・入母屋造り、本瓦葺き
  2. 建築面積 : 78.01m² 延床面積 56.74m²
  3. 門 部 : 正面柱間4.09m、 冠木 (正面梁)上端高4.12m
  4. 櫓 部 : 桁行10.91m (36尺)、 梁間 5.00m (16.5尺)
  5. 高 さ:10.28m (門下から櫓屋根の大棟上まで)
  6. 土 塀:木造塀瓦葺き 門の両側約9mずつ

 

3        天守曲輪

天守曲輪

浜松城の天守台周辺には、 本丸とは別に天守曲輪と呼ばれる区画が築かれている。

この天守曲輪の出入口として東に大手である天守門、西に搦手の埋門を配置している。

浜松城の天守曲輪は東西56m、南北68mで、 石垣の折れ曲がる角度が様々で、 複雑な多角形をしている点が特徴である。

これは自然の山の形を反映した結果と考えられ、 石垣造りの曲輪としては古相を留めた形といえる。

また曲輪の外周には土塁が巡らされていたと考えられる。

天守曲輪は掛川城、 和歌山城等にも見られるが、 類例は決して多くない。

掛川城は浜松城第二代城主堀尾吉晴の同輩である山内一豊が、 和歌山城は豊臣秀長がそれぞれ築いており、豊臣秀吉と深く関わる遺構といえる。

 

浜松城跡

浜松城は徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城で、元亀元年(一五七〇)六月に入城し、十七年間在城した。

東西六〇〇が、南北六五〇材の規模で、南の東海道に大手門が開き、東から西へ三之丸、二之丸、本丸、天守台と連なり、順次高さを増す。

ここは、その天守曲輪の跡である。

家康の後、城主は代々譜代の大名が勤め、在城中に老中まで栄進した人が多い。

中でも水野越前守忠邦の名はよく知られている。

石垣は、野づら積みと呼ばれる堅固な作りで、古い石垣の特徴をよく残しており、浜松市の史跡に指定されている。

浜松市

 

 

4        城内展示

左の甲冑はドラマでよくでrてきた「金陀美具足(きんだみぐそく)」かな。

三方ヶ原へ向かう若き日の家康。

徳川秀忠の甲冑

徳川秀忠と浜松

浜松生まれの将軍にまつわる聖地

江戸幕府2代将軍の徳川秀忠は、 家康の三男であり、浜松で生まれた唯一の天下人である。 1579 (天正7)年に誕生した地には、 浜松城内と城下の2つの説がある。

城内説は、浜松城の御誕生場 (本丸と二の丸の間)にあたり、かつての五社神社の境内地に相当する。

御誕生場は秀忠出生地として江戸時代に神聖視されていた。

城内にあった五社神社は秀忠の産土神をまつる社として重視され、 浜松城の整備に伴い現在地へ移転した。

旧境内にあった松は五社松の名で江戸時代の絵図に表現されている。

3代将軍 徳川家光は浜松藩主の高力忠房に命じて五社神社の大規模な改築を行わせた。

本殿は1945 (昭和20) 年に焼失するまで国宝 (国宝保存法) に指定されていた。

城下説は、分器稲荷の北側に所在した樹木屋敷 (御誕生屋敷)で生まれたとするものである。

 

天守閣からの眺め。

北には三方ヶ原古戦場があります。

武田軍が浜松を素通りしていくのを見て、打って出ました。

西には浜名湖があります。

 

5        石垣

 

野面積み

浜松城の石垣は見るからに荒々しく、外観は粗雑で一見崩れやすそうに思えますが、400年の風雪に耐え、今なお当時の面影を残している重要な遺構であり、史跡浜松城跡の中で文化財として価値の高い部分です。

 

この石垣は、基本的には野面石(自然のあるがままの石)を使い、接合部(合端)をほとんど加工しないで積む野面積みという方式です。

慶長(1596~1615年)以前はこの方法が多く用いられていたと言われています。

各段の積み方は、布積と呼ばれる、石材を一段ずつ横に並べて据えながら積み上げ、布の横糸が通ったように積む技法が採用されています。

 

しかし、石材があまりにも荒々しくて不揃いなことから、横の通りが乱れた部分が多くあり、布積崩しと呼ばれることもあります。

不整形な石を積むとはいえ、原則的には石の大きな面を表にし、小さな面を内にして積みます。

隙間に背後から飼石を入れて、石が動かないように固定します。

背後(内側)には多量の栗石を詰めて強化します。

栗石は約1~1.5mほど詰めてあり、さらに砂利を入れてあるので水はけも良く、水圧で崩れることはありません。

石垣を正面から見ると、石と石の隙間に小さな石が詰めてあります。

これを間石と呼びます。

この石は、石垣を成形する効果だけで、石垣を強化する効果は持っていません。

間石が抜け落ちる程度の方が石垣は頑丈だと言えます。

浜松城は、特に天守台と天守門付近の石垣が堅く、石も大きなものが使われています。

また、突角部には長方形の石材を、小口と側面が交互になるように配した算木積み法を用いています。

石垣の斜面は直線的で、57度~78度の傾斜をしています。

石垣に用いた石材は珪岩と呼ばれる石がほとんどで、そのほか石灰岩、結晶片岩などが見られます。

珪岩は浜名湖北岸の山々で見られ、現在の庄内地区の大草山や根本山、対岸の湖西市知波田付近で切り出され、佐鳴湖東岸まで船によって運ばれ、そして、浜松城まで運ばれたと推定されます。

この石垣がいつの時代に築かれたかについては正確な資料がないのでわかりませんが、浜松城2代目城主堀尾吉晴の頃(1590年頃)という説が有力です。

 

 

6        門脇の鏡石

 

門脇の鏡石

天守門の石垣正面は、左右ともに隅に巨石が用いられている。

この巨石を鏡石と呼ぶことがある。

かつて城の壮大さや城主の権力を見せるため、門の両側や周辺に意図的に大きな石を用いたと言われており、彦根城太鼓門櫓や、岡山城本丸、松本城太鼓門の石垣などに類例がある。

巨石を用いた部分は算木積(石垣の角部を強固にするために、長い石材の長辺と短辺を左右交互に振り分けて積む積み方)になっていない。

また、横長石も不揃いで、算木積とはいえない部分もある。

7        富士見櫓

富士見櫓

浜松城本丸北側に存在した富士山を望む櫓

富士見櫓は、江戸時代に描かれた浜松城の絵図や明治時代初めの浜松城払下げ時の資料に記録が残る本丸北側の櫓台上に建てられた櫓である。

2008・2009年(平成20・21年)の発掘調査では、櫓(北面)の3つの礎石が見つかり、その北側には玉石が敷かれていたことが明らかになった。

富士見櫓は、京間(1.97メートル)を用いた御殿風の建物とみられ、名称のとおり、富士山への眺望を意識して建てられたと考えられる。

富士見櫓の建築時期は明らかではないが、桔梗紋の家紋瓦が多く出土しており、太田氏が城主だった17世紀後半には既に存在していたとみられる。

 

8        家康公銅像

 

9        お誕生場の井戸

「どうする家康」大河ドラマ館の近くにある2代将軍・秀忠が誕生した屋敷があったと伝わる場所です。

御誕生場は、徳川幕府2代将軍・秀忠が誕生した屋敷があったと伝わる場所である。

秀忠の誕生は城外の別の場所とする伝承もあるが、江戸時代を通じて城内の御誕生場は、2代将軍出生関連地として神聖視されたことをうかがい知ることができる。

発掘調査によって御誕生場は二の丸に対して1.2m以上高かったことが明らかになっている。

井戸は、御誕生場の北西隅で発見した直径約1.6mの素掘りの遺構である。

安土桃山時代を中心とした時期には埋め戻されたとみられる。

※発掘調査において井戸枠などは発見されていないが、井戸が発見された場所に模擬的に井戸枠を設置している。

 

10     二の丸御殿跡地

二の丸御殿は建物の床面フレームだけ展示されていました。

こちらも大河ドラマ館近く。

随分大きな城址ですが、実際に家康が浜松入りした時の城はここではありませんでした。

初めの城は引間城と呼ばれ、すぐ近くにありました。

次にそこに行ってみましょう。「浜松城の前に徳川家康が入場した引間城址・元城町東照宮

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