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お市さんとともに散った柴田勝家の居城・北庄城址

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北の庄は福井県福井市の昔の呼び名です。

戦国時代に信長の家臣の柴田勝家が城を築き、秀吉に攻められて、お市の方と共に落城したことで有名です。

その、北庄城はJR福井駅から徒歩5分の場所にあり、その跡地に、勝家を祀る柴田神社もあります。

1         柴田神社

北の庄通りに立つ「柴田神社」の由来の碑です。

「柴田神社」の由来

北ノ庄城は、柴田勝家が築いた城で、九層の天守閣が、天高くそびえていたといわれる。

このりっぱな城も、天正11年(1583)4月、羽柴秀吉に破れた勝家は、自ら火を放って夫人お市の方とともに、壮烈な死をとげ、焼失した。

北ノ庄城の跡地といわれている場所には現在、柴田神社がある。

勝家が自害した4月24日には、毎年悲痛な杜鵑(ほととぎす)の声、が聞かれるというので、藩政時代のいつころか、ここに石の祠を建て、勝家の霊を祀り、祭祀を続けてきた。

明治23年(1890)、勝家を敬慕する市民有志が、祠の側に石碑をたてた。

明治42年(1909)には、現在地に社殿を造営して勝家を神としてまつり、また旧濠を埋めて神苑としたと伝えられている。

北の庄通りからの柴田神社の入口はこちら。

参道の先には、ありました。

そして境内には、ここで命を絶ったお市の方と、

柴田勝家の像が。

お市の方と、浅井長政の子供の茶々、初、江の3姉妹の像もあります。

神社の周囲にあるのぼり「○美祈願」の意味が分かりました。

お市さんにあやかって、モテを願うとのことですが、効能があるのかなぁ?????

 

2         北庄城址

北庄城址の碑文は、雨に濡れて少々読みづらくなってました。

北ノ庄城址

越前支配の拠点が一乗谷から北庄・福

井へ移り、 笏谷石(しゃくだにいし)の産出地である足羽山(あすわやま)に近くなりました。

そのため、戦国武将柴田勝家による北庄城築城には、 石垣や屋根瓦などに笏谷石が使われたと考えられています。

現在の福井のまちの発展は北庄城を始まりとし、その後、福井城に受け継がれたのです。

柴田神社は城址の中にあります。

 

2.1        日向門

ちょっと分かりづらいのですが、北庄城の天守のあったこの場所には、江戸時代に築城された福井城の外堀があり、時代の異なる2つの遺構が発見されています。

日向門

日向門は、福井城三の丸の南側の曲輪の南東隅に位置する門です。

勝見へ通じる漆門 (鳩の門)がすぐ北東にあり、主要な門ではなかったようです。

今回の整備では、 発掘調査で確認された礎石の痕跡を位置標示しています。

 

 

2.2        北庄城石垣

北庄城石垣

柴田神社周辺は、 柴田勝家の築いた北庄城 (1575~1583) 天守閣跡と伝えられている場所です。

ここに展示している石は、 勝家築城の北庄城の石垣遺構と考えられます。

発掘調査の結果からは、この石垣は本来、 高く積まれていたが、 江戸時代、結城秀康の福井城築城に際し取り除かれ、 石垣の根石のみが残った状態であると考えられます。

石垣は、ここより南でも同様に見つかっています。

石垣の前面には、 堀が広がっていました。

 

2.3        福井城堀と石垣

福井城堀と石垣

拝殿下の石垣は、発掘調査で出土した状態のまま展示してあります。

この石垣は 「福井城三の丸」 南に位置する曲輪の南西にあたり、当時は、今の石垣よりさらに数段高く積まれていました。

堀は、ここより西へ約150mつづき、 堀幅は約18mありました。

 

2.4        九十九橋の由来

九十九橋の由来

九十九橋は、北陸道と足羽川が交わる地に架けられた橋です。

九十九橋の記録は朝倉時代にもありますが、 柴田勝家公が半石半木の橋としたと伝えられています。

江戸時代前期 (貞享2年:1685) の 『越前国地理指南』では「大橋長八拾八間 幅三間 板橋四拾七間 石橋四拾一間」と記載されています。

また、半石半木の珍しい橋として全国的にも知られていました。

九十九橋の架け替えは、江戸時代に十回以上行われ、 明治7年(1874)に半石半木の橋として最後の架け替え工事が行われています。

この半石半木の橋が、木造トラスの橋に架け替えられたのは明治42年(1909) のことです。

今回、勝家公の事績の一つとして、本公園にふさわしい半石半木の橋をイメージして、再生しました。

欄千部分は往時から残されていた旧石材で、福井市浅水二日町に在住の吉田茂兵衛氏に保管されていたものを、寄贈されたものです。

 

3         北庄城址公園休憩所・展示資料館

3.1        北庄城関連展示

北庄城は、これまで文献資料や伝承でのみ語られてきた城郭でありましたが、 発掘調査によってはじめてその存在を確認しました。

確認した堀は、 大規模な城郭の一部でありますが、 吉野川 (のちの百間堀) と堀を東からの防御としていた城郭の構造であったとうかがえます。

また、 福井城の築城によって、 破壊をうけてその全貌が失われてしまっていることがわかりました。

北庄城の築城は、この地にはじめて都市を建設した事業であります。

現在の福井市は北庄城を基礎とし、福井城にうけつがれて発展してきました。

そのため、 福井市を語る上で、 その歴史的価値はたいへん大きいものであります。

堀によって遮られる北と南の区画 (曲輪) そしてその曲輪間をつなぐ道 (土橋) を確認しました。

曲輪には城内に向かう道に面して家臣団の武家屋敷が建ち並びます。

調査で確認した道は、南の曲輪から堀を渡り、 互い違いの高石垣をぬけるかね折れで城内に通じています。

このような構造は、南からの敵を防ぐことを目的としていることがうかがえます。

南から眺めてみると、 手前の高石垣に視界を遮られ、門は見えません。

奥の高石垣の裏には階段が設けられていて、迎え撃つようになっています。

門について

門の両脇は高石垣で堅固に守られています。

門は、西向きで前列に4本の柱、 後列に2本以上の柱が考えられます。

前列の柱のうち、 2本は柱を据えるための穴を掘って柱を建てました。

もう2本は高石垣に柱を据えたと考えられます。

福井城絵図を参照すると、確認した門の位置に、 舟蔵門・日尚門(ひなたもん)、埋門(うずめもん)等の名称が認められます。

ルイス=フロイスと北ノ庄

ルイス=フロイス(Luis Frois;1532~1597) は、 安土桃山時代に30年以上にわたり日本に滞在したイズス会の司祭である。

フロイスは、 1532年ポルトガルのリスボンで生まれ、16歳の時にイエズス会に入会し、インドへと渡った。

インドでは、 東アジア各地から届くイエズス会員の報告書を整理し、 ヨーロッパへ送る仕事をしていた。

日本へは、永禄6年(1563)、長崎県の西彼杵郡(にしそのぎぐん)で第一歩を印し、 永禄8年正月に京都に入っている。

この頃の布教活動は、仏教徒に反対されなかなか安定した活動はできなかったようである。

しかし、この時期が織田信長の入京の時期と重なり、信長の知遇を得てからは、その活動が許され西日本を中心に各地を回り布教活動を行うと同時に、そこで知りえた各地の事情を書簡としてヨーロッパへ送り続けた。

北ノ庄へは、天正8年(1580)5月、同9年4月の2度訪れている。

その時のことも書簡として残されており、天守などに石の瓦が葺かれていること、 大橋 ( 九十九橋)が勢多の大橋と同じ大きさであること、 城下が安土の2倍の広さがあることなど、この時期の北ノ庄を知ることができる貴重な資料となっている。

今回展示している書簡 (1584年1月20日付)では、賤ヶ嶽の合戦から、 北ノ庄城落城、柴田勝家、 お市の方の自害に至るまでの経緯が記されている。

柴田神社・北の庄城址公園における発掘調査の成果

現在の福井市街地は、 福井城と城下町をうけつぎ発展してきました。

福井城内にあたる部分は、官庁施設・繁華街が広がり、 今も昔も政治 経済の中心であります。

この地にはじめて都市を整備したのは、 柴田勝家が “北庄城” を築城したのが始まりです。

北庄城は、天正3年 (1575) に築きはじめ、 完成をみないまま、 天正11年(1583)に落城したことが記されています。

北庄城の範囲は不明ですが、 足羽川と吉野川(のちの百間堀) の合流点を背にした築城をおこなっていることが考えられています。

江戸時代の文献資料には、 福井城の鳩之御門の南、 百間堀につきでた枡形に天守閣があったと伝えられています。

これらの資料に合致する地が、 現在の柴田神社にあたります。

北庄城が落城したあと、 結城秀康が新たな城 “北庄城” (のちの福井城)を築きます。

この城郭については、現存する福井城の絵図で様子がうかがえます。

本丸 (現在の県庁) を中心に堀が幾重にも巡らされ、 堀に囲まれた区画 (曲輪) に家臣団の武家屋敷などが建ち並んでいました。

しかしながら、 明治時代の廃城、戦災と福井震災によって福井城の姿は失われてしまいました。

福井市教育委員会では、 柴田神社の建設工事、柴田公園の整備工事を契機に、 “福井城”、 そして、 伝承されてきた“北庄城”を確認することを目的として平成5年度から6回にわたり発掘調査を実施しました。

ここでは発掘調査の成果を紹介してゆきます。

 

北庄城跡  ・ 堀と石垣

確認している堀は幅約25mで、 北に向って延びています。

堀を護岸していた石垣は、 本来は、 何段も積まれていたことがうかがえますが、 福井城を築城する際に破壊され、 堀の南と西側で1番下の根石のみ残っているにすぎませんでした。

堀から16世紀後半の越前焼の擂鉢(すりばち) 陶磁器、 古銭や焼けた土壁がみつかっています。

 

お市さんです。

これが柴田勝家。

資料館から城址を眺める。

柴田勝家が築いた北ノ庄城

織田信長は、一向一揆を壊滅させた直後の天正3年(1575) 8月に越前49万石を柴田勝家に与えた。

勝家は足羽川と吉野川との合流点に北ノ庄城を構築した。

現在の柴田神社付近が本丸と伝えられる。

天正9年(1581) 4月、 北ノ庄を訪ねて来た、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、本国あての書簡の中に 「此の城は甚だ立派で、今、大きな工事をして居り、 予が城内に進みながら見て、 最も喜んだのは、 城および他の家の屋根がことごとく立派な石で葺いてあって、その色により一層城の美観を増したことである・・・・」 と報告している。

また、 羽柴秀吉が勝家を攻めたときに、 その戦況を小早川隆景に報じた天正11年5月15日付の書簡の中では、 北ノ庄城について 「城中に石蔵を高く築き、 天守を九重に上げ候・・・・」 と記しており、 九層の壮大な天守閣であったことが知られる。

勝家はまちづくりにも創意を施し、 城下の繁栄のために一乗谷から社寺 民家等を北ノ庄へ移転させるなどに努めた。

足羽川に架かる橋(九十九橋)を半石半木の橋に架設したと言われる。

柴田勝家は今日の福井市の基礎を築いた人である。

画像/福井ライオンズクラブ会員・東郷靖夫 模写

 

3.2        舟橋

福井市の北側を流れる九頭竜川に掛かっていた橋とのことです。

舟橋の鎖

舟橋とは、川に舟を幾艘も並べて、 その上に板を渡すことで架けられる橋のことを言います。

古くから舟橋は造られており、全国的にも地名などにその痕跡を読み取ることができます。

この鎖は、北陸道が九頭竜川と交わるところに、柴田勝家公が天正6年(1578) に渡したと伝えられる舟橋で用いられていたものです。

この時の舟橋の大きさは不明ですが、 江戸時代後期の『越前国名蹟考』では、舟橋にかかわる多くの記事が記載されています。 その中では、 川幅105間(約190m)、橋長120間 (約216m) とも記されています。

また、 勝家公の舟橋にまつわる話として、 舟橋に用いる舟を越前海岸の各浦から集め、 鎖は 「刀さらえ」で集められた武器を利用して作ったと伝えられています。

3.3        九十九橋

足羽川に掛かっていた橋です。

現在も同名の橋が、この北庄城の北西500mの所にあります。

九十九橋の橋脚

九十九橋は、北陸道と足羽川が交わる地に架けられた橋ですが、 江戸時代には半石半木の珍しい橋として全国的にも有名でした。

半石半木とは橋の南半分が石で、 北半分が木で造られるという構造のことを意味しています。

この橋が架けられていたという記録は朝倉時代にもありますが、 半木半石の橋として架けたのは、文献、 絵図等の研究から勝家公だと考えられています。

江戸時代前期 (貞享2年: 1685) の 『越前国地理指南』では 「大橋 長八拾八間 幅三間板

橋四拾七間 石橋四拾一間」 とその大きさが記載されています。

石橋の部分は全て笏谷石で作られ、 橋脚の長さは立てる場所によって異なりますが、 2.5m~2.8mと推定されています。

江戸時代の二百数十年の間に九十九橋の架け替え工事は、記録としては十回以上あり、 最後の工事は安政元年(1854) でした。

また、 明治7年(1874) に半石半木の橋として最後の架け替え工事が行われたと記録に残されています。

ここからは郷土歴史博物館の展示資料です。

水流のあるところが、木造になっている橋です。

他にも、福井の記事があります。

よろしかったらどうぞ。

 

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