日清製粉創業の地、館林に製粉をテー マにしたミュージアムがあります。
このミュージアムは東部鉄道伊勢崎線の館林駅西口に直結しているため、非常にアクセスが良い場所にあります。
メモ
入館料 :大人 200円 小人 100円(小・ 中学生) 2021年12月の時の価格
目次
1 日清製粉
製粉分野では日本国内最大であり、ニップン、昭和産業、日東富士製粉とともに製粉大手4社を構成しています。
創業者の正田貞一郎(しょうだ・ていいちろう、1870-1961)は、横浜で外国米輸入商売をしていた正田作次郎の長男として生まれますが、翌年父が風邪をこじらせて26歳で亡くなったことで、群馬県館林の正田醤油社長の祖父(三代目文右衛門)に引き取られ育てられました。
1887年(明治20年)東京高等商業学校(現・一橋大学)に入学。
外交官を志望していましたが、卒業直前の1889年に家業を担っていた叔父が急逝したことから本家の家業(醤油製造)を手伝うことになりました。
正田醤油の事業を手伝う中で、母校高等商業学校(現一橋大学)の恩師土子金四郎氏を館林に招き、当時輸入が増え続けている小麦粉を作る製粉業の将来性を聞きました。
国内でも原料小麦は生産されていましたが、伝統的な水車製粉による国産粉は機械製粉の輸入粉(メリケン粉)に品質面で劣っていました。
メモ
メリケン粉は、輸入が盛んになった明治時代、 国産の小麦粉とアメリカ産の小麦粉とを区別するために呼ばれたのが始まり です。
当時の日本産小麦粉は石臼を使って生産されていたのに対し、アメリカ産のものは専用の機械で生産されていました。
当時の日本人はアメリカ産の小麦粉のあまりの白さに驚きを隠せなかったそうです。
正田貞一郎が育った上州・館林も水車製粉が盛んな土地で、貞一郎は「輸入粉の増大に手をこまねいて傍観していることはできない、機械製粉すれば輸入粉に負けないはずだ」と、近代的な機械製粉事業を興すことを決意しました。
1900年(明33) このミュージックの地に館林製粉株式会社を設立し、製粉機械を輸入し原料を買い付け操業開始します。
一方1907年(明40)横浜に創立の日清製粉は、日露戦後の不況を乗り切るため同年館林製粉に合併し、社名は地方色を排し日清製粉としました。
日清ということば
”日清”という言葉は、海外を視野に入れているということを示し、明治後半期に好まれた言葉だそうです。
2 製粉ミュージアム
新館は、最新の製粉技術を楽しく、わかりやすく、体感できるミュージアム。
小麦や小麦粉に関する様々な知識を学ぶことができます。
本館は、 日清製粉の創業からの歩みを、 時代を追って紹介。
創業期より事務所として使われていた本館も近代産業遺産として見ごたえがあります。
明治の機械製粉黎明期の様子から最新の製粉テクノロジーまで、製粉にまつわる幅広い知識が集約されています。
2.1 プレゼンターションルーム
日清製粉とその関連会社で製造している製品が展示されています。
2.2 新館
2.2.1 ロール機
小麦を細かく砕きます。
2.2.2 旧シフター
破砕した小麦を何枚もの「ふるい」で篩って粒度別にわけます。
2.2.3 新シフター
2.2.4 日清製粉で使われていた製粉機械
2.3 本館
2.3.1 創業期のロール機
2.4 日本庭園
3 お土産
お土産のお好み焼き粉を貰いました。
入場料の200円を返していただいたようです。
帰宅後、すぐにお好み焼きを焼いて食べました。
日清製粉の歴史をみると、醬油醸造業をしていた初代が、一念発起して創業した会社が、時流に乗って一気に日本を代表する大企業に成長していったのがわかります。
初代社長の正田貞一郎の長女が上皇后美智子様です。
1958年(昭和33年)の正田美智子様の結婚時、旧皇族・旧華族らに強く反対されたました。
普通に見ると日清製粉の社長令嬢が平民とは思えないのですが、当時としては、粉屋あがりの成り上がりものの娘に格式のある皇室へのお輿入れなんてとんでもないという意識が強かったためです。
初代社長の正田貞一郎が働いていた、正田醤油の記事は以下にあります。