高遠城の戦いは、1582年に織田信長の軍勢が武田氏の高遠城を攻めた戦いです。
この戦いは、武田氏滅亡の一因となった重要な出来事です。
高遠城は、信濃国(現在の長野県)に位置し、武田信玄の五男である仁科盛信が城主を務めていました。
織田信長は嫡男の信忠に5万の兵を与え、高遠城を攻めさせました。
盛信は約3000の兵で徹底抗戦しましたが、織田軍の圧倒的な兵力により城は一日で落城しました。
この戦いで盛信は壮絶な最期を遂げ、武田氏はその後、天目山での戦いで完全に滅亡しました。
高遠城の戦いは、戦国時代の終焉を象徴する出来事の一つとして知られています。
以下は、高遠町歴史博物館の展示パネルです。
薩摩守仁科五郎盛信・高遠城主となる
*永禄4年(1561) 5月武田信玄は信州安曇郡 「森城主・仁科盛政」を攻略、 自害させた。
仁科家は清和源氏末裔の名門であった。
信玄はこの家門を絶やすことは忍びないと、 側室油川夫人の子で5歳になる五男「晴清」に仁科の通り名盛の字を付けて「五郎盛信」と名乗らせ、 時の高遠城主武田信廉(たけだ のぶかど)を後見人にして仁科家の後継ぎとして「森城主」につかせた。
*時移り信玄の死後の武田勝頼は天正9年(1581) 高遠城主武田信廉を大島城 (松川町) へ移し、 森城主仁科五郎盛信を「高遠城主」に据えた。
* 「五郎盛信」は生まれつき聡明で文武両道に秀で、 若年ながら人々に慕われた。
特に戦略と勇気にかけては「勝頼」に勝っていた。
織田軍 進行
* 織田信長は天下統一の野望に燃え、 徳川・北条等に呼びかけ、かねてから狙っていた「甲斐武田攻め」の号令を発し、既に織田連合軍は東西南から進発していた。
* 高遠城の「仁科五郎盛信」にもこの情報は届いていた。
「勝頼」 は 「高遠城」を南の砦として重視していたので「渡辺金太夫」「小山田大学助」 等屈強な武士を応援として差し向けていた。
高遠城の戦い (高遠城意気あがる)
勝頼弟「仁科五郎盛信」は伊那谷全軍の総帥として2700の将士と共に高遠城を固めた。
「勇将の下に弱なし」の例えの如く、小山田備中守昌行、 非持越後守、原隼人、波桐九郎次郎、 今福又左衛門、 渡辺金太夫、 諏訪勝右衛門、 飯島民部、小幡清左衛門、 他千軍万馬の将達が 「敵よ来たれ」と意気高々に布陣した。
伊那市街
* 高遠城の東、 板町村 (現東高遠) から民間の「若衆12名」が戦列に加わり、南曲輪の断崖の上から石や丸太を落として応戦した。
*又かつて武将達に恩義を受けた女性達も城中に入って「炊き出し」等の手伝いに参加した。
高遠城の戦い(三義弘妙寺住職・給食断る遠寺森軍へ炊き出し)
織田信忠の指示通り森長可軍3千は諏訪を回り杖突峠を経て高遠城の裏山月蔵山から攻めるべく進軍。
森軍は途中、 月蔵山裏の三義村 「弘妙寺」に立寄り食糧を求めたが、和尚曰く「我は仏に仕える身なれども、我が城主に楯突く敵に食わす物は無い」 と一喝された。
・・・・ 森長可は大いに怒り、寺に火を付け・弘妙寺は焼かれてしまった。
森軍は更に南へ降り遠照寺に至り再び炊き出しを求めた。
住職は寺を焼かれてはと、 願いに応じた。
この礼として、戦利品の太鼓と鰐口を置いていった。(現存している)
「腹ごしらえ」のできた森軍は川辺から、月蔵峠を越えて大北村に至り高遠城の東、 板町に陣を敷いた。
時に天正10年2月28日夕刻である。 新暦3月22日頃
高遠城の決戦
天正10年2月26日、下伊那の各城は織田軍の勢力に圧倒され、戦わずして織田の軍門に降った。
それぞれの城で生き残った者や、近郷の武将達で心ある者は高遠城へ集結してきた。
この様な状況下、 決死の志士達により戦闘防備を固めている高遠城は、織田軍にとっては驚異であり又脅威でもあった。
織田軍は高遠城総攻撃を3月2日 (新暦3月25日頃) 卯の刻(午前6時)と定め本陣を高遠城の南西下小原瀬戸 (現保科歯科院付近)に設営した。
物御台として「白山」 (現白山観音像のあたり) に置いた。
高遠城の戦い(天正10年3月2日払暁・織田軍移動開始)
前夜から城下町各地に駐屯露営をしていた織田軍各隊は3月2日明け方高遠城東方高台へ布陣のため移動を開始した。
突然三峯川方面から軍律破りの「はやがけ」戦の歓声が聞えた。
既に高台に居た森軍は軍律破りとは知らず、 本番と勘違いして戦闘態勢をとり・・単独で東城壁へと戦いを挑んだが、 仁科軍の猛反撃にあい大将森は、馬が物につまづき落馬。 散々な目に遭い月蔵山麓元の陣へ一時撤退した。
3月2日早朝・抜駆け軍進路--法幢院口から東(現在の様子)
明けて3月2日払暁、 指定総攻撃時間卯の刻より前の寅の刻 (午前4時)、 勝間村陣の滝川軍若者兵50名余が、 昨日迄の武田軍は戦わずして遁走戦はなし。
高遠勢もさもありなんと「抜け駆けの功名を」とばかり軍律を破り、 先駆けの一番首を狙って、こっそり早朝の三峰川を渡り、 烏帽子岩の崖を這い上がって法幢院口に迫った。
法幢院口を守っていたのは、槍を取っては天下一の「渡辺金太夫」先駆けの若者達はあっという間に突き伏せられて、崖から転げ落ちて、 命からがら勝間の陣へ逃げ帰った。
この事が滝川軍の将、 「滝川一益」 の耳に入り軍律破りの懲罰を受けた。
高遠城の戦い (織田軍一斉攻撃開始)
城将仁科五郎盛信は桐葉の金小実の鎧に吉光の二尺七寸の太刀を帯び、長さ一丈の十文字槍を構え・銀の髭籠の馬印を馬に引き寄せ三の丸へ撃って出たが、後に二の丸で指揮、之に遅れじと副将小山田昌行以下各将達も「敵よ来たれ」 と持ち場に陣を敷いた。
夜も明けて、開戦予定の「卯の刻(午前6時)」下伊那開善寺から掠奪してきた 梵鐘(桂泉院)を打ち鳴らし、 法螺貝の音もにぎやかに、織田軍の総攻撃が始まった。
東北・南方面 西殿坂口と四方から城へ向かって、一斉に攻め込んで来た。
高遠城の戦い(西方・搦め手の戦い・現在の大手門)
西からは敵水野軍が藤沢川を渡り、 殿坂の急坂を攻め上げた。
それに対して仁科軍は小山田、 神林、 諏訪、の各軍が坂上から大石や丸太を落として応戦、城北側の日影林の中に潜ませた鉄砲隊の一斉射撃により、 敵はさんざん苦しめられて死者多数となり一時退却。
時は午の刻 (12時)を過ぎようとしていた。
高遠城の戦い(三の丸・仁科盛信奮戦)
東側の戦況は、早朝から三の丸に出て陣頭指揮をしていた 「仁科盛信」はじめ城兵達に怒とうのごとく押し寄せる敵兵を、 突き・切り・はね飛ばして奮戦していたが、多勢の敵に押しまくられ、 味方の将兵は次々に討ち死。
剛毅な 「仁科盛信」は吉光の二尺七寸のわざものを振り回し敵数多を倒し、返り血で顔を染めていたが此処も危険と察知し二の丸へ移動した。
それを追うようにして織田軍は二の丸へなだれ込んだ。
高遠城の戦い (総大将・織田信忠独走)
かくして高遠城・東高台へ飛び上がってきた総大将信忠は、自ら「攻め」の先頭に立った。
総大将に先頭を越されては、 取巻く武将の面目は丸つぶれ、これが信長に知れたら大将達は首切りものであった。
各将達は兵の尻を叩いて奮励させ、ようやく二の丸へ雪崩れ込んだ。
織田軍三の丸突破・二の丸へ侵攻
城内二の丸の東の塀が破られ、次々と2万余の大軍が、三の丸から狭い二の丸へ一度に押し入ったので、大混乱。
敵味方の見分けがつかない状況であった。
高遠城の戦い(二の丸の戦い)
先に二の丸へ移動した盛信は本丸入口正面に座し・自ら指揮を執り・・・
副将小山田昌行 原隼人 春日河内・飯島民部等諸将も之に呼応して奮闘・・
織田軍は多勢の力で外塀を引き倒し、 怒濤の如く攻め込んできた。
仁科軍の捨て身の防戦の前に織田軍の損害は増すばかり・・・ 二刻 (午前10時)を過ぎるも戦況に変化なく、簡単に考えていた織田の将達は高遠勢の反撃の粘り強さに驚きと苛立たしさの中で打つ手に戸惑っていた。
白山の物見台から戦況を見ていた総大将織田信忠は、戦況が進展しないのに業を煮やし、選りすぐりの兵千騎を伴って勝間側から三峯川の浅瀬を渡り歳の神坂を駆け登り花畑から城門土塀に至り、自ら屏を乗り越えて攻め込まんとした。
高遠城の戦い (二の丸敗戦)
二ノ丸の戦況を見て副将小山田備中は仁科盛信に即刻本丸引き上げを注進した。
これに応えて盛信は二の丸の将兵全員に本丸内へ退去を下知した。
盛信は二の丸奮戦中森軍の鉄砲隊により股に鉄砲傷を負っていたので兵の肩を借りて本丸へ引き上げた。
各将兵もこれに続き、入口の橋を落とし門を固く閉ざした。
高遠城の戦い(二の丸敗戦)
二の丸で盛信達が本丸に引き上げるのを見届けていた 「飯島民部親子」は、閉ざされた本丸門へ敵を寄せ付けまいと二人で敵に立ち向かい、 切りまくり防戦するも力尽きて討ち死。 時に民部38才 ・ 息子小太郎18才であった。
織田軍兵達は我先にと 「首」を取りに掛かり、味方同士の激しい首争奪戦となって同士討ちにまで発展していた。
この後、織田軍は松の大丸太を皆で抱えて橋が落とされている堀に降り・・・・
中の累々たる死体を乗り越えて、次々と堀の本丸側の斜面を登り、門に迫り足場の悪い場所ではあるが 「本丸門」の打ち壊しに掛かった。
西方・搦め手の戦い(現在の大門口)
先程迄は勝っていた殿坂口も、応援に駆け付けた織田別働隊に攻め立てられ、諏訪勝右衛門は敵水野藤十郎と槍を交える中討死。
神林、小山田両将は最早これ迄と木戸から城内へ戻ろうとしたが、 群がる敵に妨げられ、思う様にならず、この時横にあった丸太を担ぎ上げて敵に投げつけ、転げ落ちる丸太に敵兵がひるむ間に生残りの兵と共に本丸へ引き上げた。
高遠城の戦い (戦いは本丸内へ)
やがて本丸門は破られた。
旗本戸田半左衛門が本丸一番乗りと入ろうとしたが矢受けの母衣が引掛かって入れないでもたついている横を、小柄な小姓佐々木清蔵と山口少辨がすり抜けて一番乗りを果たした。
続いてどっと雪崩れ込み、 本丸内は最後の修羅場となった。
今まで本丸留守居役として城中に立て籠もっていた非持越後守と波多野源左衛門の二人は、 盛信達が本丸建物に入ったのを見届け、もう留守居は用なしと屈強な兵達26名を引き連れて、なだれ込んでくる敵兵に向かって切り込んで行った。
しばらくして、非持守が血刀を提げたまま盛信達のいる部屋の縁先に来て「敵の大将が本丸に火をかけるな」と部下に云ってるのを聞いたと言う。
これで火攻めは無いから各々方もう一度此所から出て戦おう...
と縁側を後にして出て行った。
部屋にいた数人が抜刀してその後を追ってついて行き、 敵兵を蹴散らし闘ったが、 前後左右群狼の如き多数の敵に取り囲まれて全員城門塀際で討ち死をしてしまった。
高遠城の戦女傑 (「諏訪はな」 と 「女性達」)
殿坂口守備の諏訪勝右衛門の女房「はな」は「勝頼の城主」時代から高速城の御中﨟頭であった。
又城内きっての薙刀の名手であり、 弟子達も多数いた。
この日は勘助曲輪に退避していた武将達の正室や女性達を長刀の弟子達と共に守っていたが・・・ 副将小山田昌行から・・・「もうこれまで。 各人逃げるなり、自害するなり自由にせよ」 との命令が出された。
はな達は勘助曲輪の女性避難所で自害する 「女性達の介錯」をして廻った。
(この中には飯田城城主の保科正直室や副将小山田昌行室等も居た)
一通り処置が終わった頃 「はな」は主人諏訪勝右衛門の戦死を知らされた。
高遠城の戦い (諏訪はなの奮戦)
「はな」は主人「勝右衛門」の戦死を知らされた時、戦もこれ迄と•••••7人の御中﨟衆と共に勘助曲輪北・金山坂へ打って出た。
この時の出で立ちは 「紺糸威しの腹巻き・たっつけ袴・白だすきに白鉢巻・丈なす黒髪を細縄で束ね」 大身の薙刀を小脇に抱え、 足早に金山坂上に立ち、 持った「薙刀」を縦斜めに構え、 むらがる敵に立ち向かった。
それ女だ、 捕らえろと敵兵がどっと群がってきた。
はなと7人の御中﨟衆は目にも止まらぬ早さで数人を切り、 突き倒した。
敵は女と侮って掛かったが、思わぬ強さに驚き引さがった。
この時堀を隔てた本丸の城壁の上に居た森軍の鉄砲が火を噴いた。
銃弾ははなを貫いた。
最早これまで・・・とはなは、すかさず懐剣を抜き、 胸を突いて自害した。
他の御中﨟達もそれに倣い、 全員見事な戦死を遂げた。
高遠城の戦い(渡辺金太夫の最後)
渡辺金太夫は元は織田信長に仕えていて、 槍を取っては敵なしと言われ「信長から槍の金太夫」と云われていた。
ふとしたことから織田が気に入らなくなって武田へ 「仕官替え」した人である。
この日金太夫は今福又左右衛門と共に法幢院口を守っていた。
金太夫の出で立ちは胴丸の鎧に雑加鉢の兜をかぶり・赤色の緒を締め・・・・
金の短冊18枚で飾った朱色雨傘の大指物を立て・一丈三尺赤柄の大身の槍をしごいて夜明けから滝川勢の抜駆ヶ組の敵を痛めつけ一人で大活躍・・・・・
高遠城の戦い・渡辺金太夫の最期
この時相手となっていた滝川軍も、金太夫のあまりの奮戦に近寄れなくて、ただ遠巻きにして唖然としていたが、 大将 「滝川一益」 は部下の旗本津田 岩田・服部・氷上・鳴海等に 「一人ばかりの敵に何をもたもたしている皆で一度にかかれ」と下知。
さすがの金太夫も八方攻めの体制に遭い、 もうこれ迄と松の大木を背に根方へ寄り、 旗指物を土に刺し立て、覚悟を決めた。
大声を張り上げ 「我こそ元は遠州高天神の住人・渡辺金太夫・照(てらす)・・・
生年五十二才 ・ 只今討ち死にせんとす。
並み居る諸侯は美濃尾張の方々と見受ける、中には見知った御仁も居ろう。
天下に知られた槍の金太夫の最期。
「見届けたなら近寄ってこの首を取り手柄とされよ」と大声で叫んだ。
滝川勢は金太夫めがけて八方から一斉に槍を突き刺した。
さすがの金太夫もたまらず・・・・
大手を広げたまま弁慶立往生の如く立ち尽くし最期を遂げた。
この金太夫の働きは「敵味方併せて随一」と語りぐさとなり称えられた。
かくして渡辺金太夫照は此所に力尽き岩田市右衛門に首を渡してしまった。
位牌は桂泉院仁科の位牌堂に立てられて居て、 墓は五郎山にある。
高速城の戦い (弓の曽根二十朗・茶坊主の活躍)
混戦の中、若衆 「曽根三十郎 15歳」 弓の腕前は高速若者衆一番・・・
今日も朝から本丸屋敷の台所脇から弓を引いて、 敵20人あまりを倒していた。
先ほど手傷を負った総大将仁科盛信、 その後を血刀を提げた副将小山田備中昌行・同大学助・原隼人 ・春日河内・小幡清左衛門等・ 屈強な将30名余り・・・・
急ぎ本丸建物へ入って行くのを見とどけ、 戦も最期と感じていた。
三十郎の残矢も数本、近寄る敵を次々倒し、矢もつきて、 台所から飛び出した。
目の前に大男が立ちはだかった。
金の三団子旗印、 滝川一益であった。
夢中で刀を抜いて切り込んだがあえなく討死した。
本丸建物外縁の廊下から声が聞こえた。
14歳になる茶坊主だ。
台所の竈の灰や火鉢の灰を集めて小ザルに入れ十能ですくって敵めがけて振りかけ応戦。
目つぶしに遭った敵兵はまさかの武器にたじたじであった。
このように高遠勢は、官民・女・子供まで全員命をなげうって全知全能を傾け、敵に立ちむかったのであった。
本丸で「信忠が着座・指揮した場所」 と 「森軍鉄砲隊位置」
既に時は未の刻(午後2時) 二の丸侵攻まで先陣を切って活躍していた織田信忠は本丸へ移動し、正門入口付近・ 築山の桐の大木を背に陣取った。
土塀の上には森軍の鉄砲組を配置、 広場では敵味方多数の兵達が接近・混戦するのを見て「槍でなく刀で戦え」と下知していた。
その姿を見た仁科の将兵は最期の勇気を振り絞り、 血刀を提げて「信忠公の御首頂戴」 と再三築山めがけて切り込んだが、 薄手一つ負わす事ができずに鉄砲隊に狙撃されて次第に討死していった。
本丸広場は血なま臭い空気が渦巻いて、 敵味方の判別も難しい混戦の様相を呈し、凄惨を極める戦いはいつ果てるとも知れずに続いていた。
高遠城の戦い (仁科五郎盛信の最期)*戦は本丸の戦いとなり、 城中大広間で采配をふっていた盛信は、もはやこれ迄と足の鉄砲傷をものともせず
「郎党衆一同大広間に結集せられたし」と呼びかけた。
奮闘の末、返り血を浴びて面相も変わった諸将が大広間へと集まった。
* 「盛信」 は 「諏訪大明神の大軸」の掛かっている床の間に立ち、
居並ぶ諸将に向かって朗々たる声で········
おのおの方 今日迄の忠節に感謝す
法性院信玄が五男 薩摩守仁科五郎盛信 生年26才 命運つきてここに切腹いたす..
武士たるもの武運つきて腹切らん時の手本とせられたし
と宣言.....
高遠城の戦い (仁科五郎切腹)
「盛信」は、着ていた 「桐葉の鎧」の上帯を切り、 鎧をかなぐり捨て、信玄公譲りの鮫の白束作りに金の武田菱をあしらった短刀を抜いて、左の脇腹へかけ声一つ「えいっ」と突き立て「おうううう」と右の肋骨二三枚にかけて、腹斜めにかき破り、流れる血潮
に染まった紅い「はらわた」をつかみ出し床前の壁へ叩き付けた。
* すかさず「曽根十左衛門」・・・・・
裂帛の気合いと共に介錯し、 自分は返す刀を自らの口にくわえて、どうと前に倒れて最後を全うした。
小山田備中守昌行を始め居並ぶ諸将も皆これに倣って壮烈な最期を遂げた。
時に天正10年3月2日
申の刻(午後4時)
高遠城は今滅ぶ
*戦が終った城内は、 敵味方の死体が散乱。
どの死体にも首がついていなかった。
戦国時代の兵達にとって、 手柄の証は 「首を取る」事であった。
恩賞は 「首の価値次第」であったからである。
*高遠城の将兵は全部で3千弱に対して織田軍は5万・価値ある首を取るにはよほど運がよくなければ手に入らない。
ましてや大将首を取ることは、 宝くじ一等に当たるような確率であった。
だから敵味方の見境なく死体の首は取られてしまっていた。
血生臭い空気の漂う本丸・信忠は直ちに盛信以下諸将の首級をまとめ岐阜の信長に届けるべく使いを向かわせた。
その後城内の整理を下知。
その夜は戦乱の余韻が漂う夜気の中、 荒れはてた城内へ泊り、翌早朝諏訪へと向かった。
五郎山にある仁科五郎盛信公以下高遠勢の墓
勝間村の領民は、 織田軍の許可を取り 「仁科盛信以下諸将の遺骸」をもらい受け法幢院にて懇ろな法要を行った後、 勝間へ運んで宮之原にて荼毘に付し現在の五郎山へ埋葬した。
翌3月3日早朝、織田軍が甲州攻めに杖突峠へ向かう頃、 高遠城落城をいち早く知った、 城の南 「勝間村の領民」 達が三峯川を渡り、荒れ果てた城内に入り、 将兵達の遺体を敵味方の区別無く、法幢院の北土手下堀の蓮池に運んで清めた。
(今も首洗い井戸としてのこっている)
法幢院の僧達により懇ろに弔ったと法幢院 (現桂泉院) の記録にある。
城の東月蔵裏山に避難していた板町村の領民達も駆けつけて、遺体を月蔵山麓へ埋めるよう織田の番兵に頼んだが、先に駆けつけた勝間の領民達に「優先権」あり、とのことで三峯川を越えた勝間の地へ運ばれた。
板町村一同は三峯川の川辺まで見送った。
高遠城趾公園の桜
この桜花の色は 「戦国の流血」 に染まったからだと云われている。
織田信長はこの年6月・本能寺にて明智光秀軍に殺され、戦国の世は、秀吉天下へと移って行く
このパネルを見てから、高遠城址に行くと、往年の戦での攻防が想像できると思います。