仙台城跡は伊達政宗の像がある青葉山だけではなく、山の麓も含めて城跡です。
今回、仙台市の城跡の中に建てられた博物館を見がてら、その周辺も散策しました。
仙台城跡
仙台城が築城された当時は、まだ戦乱が収まっていなかったことから、当初、本丸に至る大手筋 (登城路)は、巽門から清水門、沢門に向かう急峻な道であったという説が有力になっている。 (博物館の西)
その後、世の中が収まり、仙台城の整備が進む中で大手門が築造されると、大橋から坂を上って大手門に入り、中門から本丸へ向かうルートが、正式の登城路として整備されたと考えられる。(博物館の北)
目次
1 五色沼
五色沼は博物館に向かう道の北側にあります。
昔は、ここでスケートができるほど市内が寒かったようですね。
なぜ5色なのか? 博物館の学芸員さんに聞いても分かりませんでした。
ネットで調べてもその命名理由は記録に残っておらず不明との事でした。
明治中期、 外国人たちがこの場所でスケートを始め、 明治42年(1909)頃に第二高等学校生がドイツ語教師ウィルヘルからフィギュアスケートの指導を受けたという。
後に彼等や後輩たちが全国各地で普及に努めたことから、五色沼 (堀跡) は日本フィギュアスケート発祥の地と言われている。

2 子門跡
現在仙台市博物館敷地内の出入口となっているこの場所には、木造二階建・瓦葺の門が建っていた。 正保の城下絵図 (「奥州仙台城絵図」 (1645年))では 「子ノ方門」と見える。
三の丸への北側の出入口である。現在も石垣が左右に残っており往時をしのばせるが、 昭和時代に修理されたものである。

3 仙台市博物館
こちらの記事は後程。


4 魯迅像
博物館の裏手にあります。
魯迅って、仙台と何か関わりがあったのでしょうか?
1904年から約1年半、仙台の「仙台医学専門学校」(現在の東北大学医学部の前身)に留学していたとのことでした。
ここでの経験が、彼が医学から文学へと進路を転じる大きなきっかけとなったようです。
その後の魯迅は東京に移住します。
その場所は 東京街歩き:夏目漱石旧居跡巡り(猫の家など)に記載。


碑文
この銅像は、中国の文豪魯迅生誕の地である紹興市人民政府より、 生誕120年を記念し寄贈された。 銅像の制作にあたって、紹興市民や浙江上風実業股份有限公司の協力があった。
魯迅の功績を称えるとともに、 両市の友好の証とする。
2001年11月22日
5 魯迅の碑

「魯迅の碑」 碑文
中国の文豪魯迅は1904年秋から1906年春まで仙台に留まり東北大学医学部の前身である仙台医学専門学校に学んだ。しかし故国の危機に心をいため、 民族の魂を救うことが急務であるのを知り、文学に志すようになった。 仙台は転機をもたらした土地である。 中国の新しい文学の暁を告げる数多くの作品・評論を書いた魯迅の、若き日の留学を記念し、敬慕する人人の手で碑をたてて、偉大なるおもかげを永遠に伝える。
6 江沢民植樹の碑

中華人民共和国主席江沢民閣下
同令夫人ご来仙記念植樹
紅梅
1998年11月29日
日中友好の象徴として、ここに紅梅が植えられました。
背景には、魯迅と仙台の縁を通じた日中交流の深化があったとのことです。
7 魯迅の妻である許広平(許平)女士植樹の碑

許平女士除幕式記念植樹
黑松
1961年4月5日
魯迅の妻である許広平(許平)女士が仙台を訪れた際に行われた記念行事で、魯迅と仙台の縁を顕彰し、日中友好を象徴するものとして植樹されたものです。
8 林子平 碑文
林子平は江戸に住んでいた筈なのになぜここに碑文があるのか不思議でしたが、仙台藩の江戸屋敷に奉公していた姉が仙台藩主伊達宗村の側室となった縁で、林子平自身も仙台藩士となったとのことです。

林子平、名を友直六無斉と号し仙台の河内に住み寛政の三奇人のひとりで憂国の先覚者であり早くから海防のことを力説した。
全国を行脚して実際に見聞を広め、『三国通覧図説』、『海国兵談』を著し外国の事情と日本の国肪の必要を説いているが、特に三国通覧図説は一七八五年子平が四十八才の時の著述で、その中には小原群島の発見の史実が記されている。即ち小笠原群島に一五九三年既に小笠原貞頼が発見して日本領土として標示を立て小笠原島と称したことを明記している。
この三国通覧図説はその後一八三二年ドイツ人クラブロートによってパリーで仏訳三国通覧図説として 翻訳刊行された。
この本が唯一の資料となって英国、露国、米国を始め世界各国から小笠原群島は日本領土として確認されたのである。
小笠原群島は昭和四十三年(一九六八年)第二次世界大戦後二十三年ぶりでアメリカから日本に返されたことを考えると、林子平の偉大な功績が偲ばれる。
林子平は世界の情勢に暗い当時の幕府から世をわすものとして版木を没収禁固され、国を憂いながら五十六才で没した。その蟄居中の詠草に「親もなし妻なし子なし はん木なし かねもなければ死にたくもなし」がある。墓は仙台市子平町奄雲院内にあり、そばに林子平の考案した「日時計」がある。

1968年小笠原群島日本返還にちなみ
ライオンズ東北大会・全国大会仙台開催記念
1970年4月 仙台ライオンズクラブ
8 白萩と秋川石

元和8年(1622)、 伊達政宗は武蔵国にある大悲願寺を訪れた際、庭に咲く白萩の見事さに心をうたれ、のちに手紙を送って白萩を所望した。
この白萩と秋川渓谷の石は、 昭和48年(1973)古い絆と友好のしるしとして大悲願寺のある東京都五日市町 (現在のあきる野市) から仙台市に贈られたものである。
仙台市
あきるの市にある大悲願寺の場所はここです。
10 国際センター駅
帰りは、最終バスが終わってしまったため地下鉄の国際センター駅から帰りました。
国際センターでは一日コンベンションがあったみたいでしたが、私達が帰るころには人はちらほらという感じでした。でも地下鉄は混んでいました。

仙台市と米国テキサス州ダラス市が国際友好都市提携25周年を迎えたことを記念して、ダラス市とダラス・フォートワース日米協会から寄贈された鐘のモニュメントです。
2022年12月に除幕式が行われました。
こちらが国際センターで、

こちらが国際センター駅。


駅前には、荒川静香と羽生結弦のモニュメントがあります。
近くの五色沼 (堀跡) が日本フィギュアスケート発祥の地にちなんで建てられたものだと思います。
荒川 静愛
1981年12月29日生まれ
東京都で生まれ、 1歳4ヶ月で仙台市に転居。 5歳からスケートを始める。
小学生の時から数々の大会で功績を収める。
2006年トリノオリンピック (イタリア)では、ショートプログラムで自己ベストを更新し首位と僅差に付ける。 フリースケーティングでは、「イナバウアー」 を取り入れた演技でトップの得点をマークし、 フィギュアスケート女子シングルで日本人初 (アジア人初) の金メダルを獲得し、多くの人々を魅了した。
羽生結弦
1994年12月7生まれ
宮城県仙台市の出身。4歳からスケートを始める。 小学生の時から数々の大会で優勝や記録を達成する。 2014年ソチオリンピック(ロシア)では、ショートプロ グラムで公式大会111-界最高得点(当時)を逹成すると ともにフリースケー-ティングでも商得点をマークし、 フィギュアスケート男子シングルで日本人初(アジア人初) の金メダルを獲得した。
2018年平昌オリンピック(韓国)では、直前に右足を分傷しながらもこれを乗り越え、ショートプログラムで トップに立ち、フリースケーティングでも圧巻の演技 を披腺し、同競技66年ぶりの五輪2速期という快挙を 成し遂げ、感動と勇気を与えてくれた。
博物館周辺は以上で終わりです。
次はいよいよ博物館の中に入ります。




