仙台市博物館は、仙台城三の丸跡に位置し、伊達家から寄贈された文化財を中心に約10万点を収蔵する総合博物館です。
昭和36年(1961年)に開館し、昭和61年に全面新築。国宝「慶長遣欧使節関係資料」や重要文化財の伊達政宗所用具足・陣羽織、豊臣秀吉所用具足などを展示しています。
企画展7月4日~8月24日「伊達を継ぐもの―仙台藩を巣立った殿様たち」は、仙台市と宇和島市の歴史姉妹都市提携50周年を記念して開催されました。
本展では、伊達政宗の長男・秀宗が藩主となった宇和島藩をはじめ、一関藩・刈谷藩・佐野藩など、仙台藩伊達家の子息が跡を継いだ各藩を紹介。
江戸時代、大名家が婚姻や養子縁組で家を維持し、仙台藩が危機に瀕した際には親戚大名が支え合った歴史を、約100件の文化財を通じて展示しています。




目次
1 縄文人の暮らし
縄文時代は、気候の温暖化によって木の実など山野の実りが豊かになった。
人々はそうした植物質の食料の採集を基本に、狩りや漁を行いながら、竪穴住居を建て定住生活を営んだ。
土器は煮炊きや貯蔵の重要な道具となり、 石器は用途に応じて多くの種類が作られた。
樹木の伐採や加工には磨製石器が大きな役割を果たした。
また、麓の角や骨は、釣り針や鍋などの素材となっている。
自然環境に左右される不安定な生活のなか、縄文人のくらしは祈りや祭りと共にあった。 数多く出土する土偶や土製品はそれをよく示している。
土偶
大野田遺跡
縄文時代後期
仙台市教育委員会蔵
土偶は女性、あるいは神や精霊を表したといわれる。
その役割についても、豊饒や多産を願ったという説、病気・けがからの回復を願ったという説等、さまざまである。
大野田遺跡(おおのだいせき)では、多数の墓のほか、土偶が二七〇点以上出土し、祭りと弔いの場と考えられている。
2 稲作の始まりと有力者出現
仙台では、富沢遺跡(仙台市太白区) などで約2千年前(弥生時代中頃) の水田跡が広範囲に発見されている。 耕作用の木製農具やそれを作るための磨製石斧(ませいせきふ)、収穫に用いられた石包丁も数多く出土しており、西日本に伝わった稲作文化がこの地に浸透し、定着していくようすがうかがわれる。
やがて、稲作の発達を背景に、各地で有力な豪族が現れ、巨大な古墳が造られるようになった。
4世紀末頃の遠見塚(とおみづか)古墳(仙台市若林区)は、仙台平野の最初の広域支配者の墓である。
5世紀後半には、市内各所に古墳が築造されるようになり、埴輪を伴う古墳も数多く発見されている。
3 中央政権の進出
飛鳥時代には、中央集権的な制度の整備が進められ、地方への支配が強まった。
7世紀の中頃には、郡山地区(仙台市太白区)に当時の日本の北端を支配するための国の役所が造られた。
それはやがて寺院を伴う役所へと発展し、多賀城が造られるまでの間、 陸奥国を治める行政拠点として機能した。
8世紀の中頃になると、聖武天皇の命令で陸奥国分寺 (仙台市若林区木芋)が造営される。
この頃、 台原・小田原丘陵では大量の瓦が生産され、国分寺や多賀城などで使われた。
4 陸奥(むつ)国分寺
陸奥国分寺は、国の施策によって全国各地に造営された国分寺の一つである。
発掘調査では東西240mに及ぶ大規模な寺院であることが判明し、 回廊の外に七重塔を配する東大寺に似た伽藍のようすも明らかとなった。
記録によれば、 陸奥国分寺は、貞観11年(869)の大地震で被災し、承平4年(934)には七重塔が雷火で焼亡したと伝えられ、それは発掘調査によっても裏付けられている。
現在の陸奥国分寺には、創建当時の礎石の一部が復元されている。
なお、境内の薬師堂は、伊達政宗が慶長12年(1607)に建てたものである。
(復元模型は、陸奥国分寺跡発掘調査委員会編 「陸奥国分寺跡』 1961 と岡田英男 「国分寺復元模型の製作」 1980を参考とした。 縮尺は200分の1。 1985年製作)
5 武士の台頭
奥州藤原氏の滅亡の後、 関東武士たちが陸奥国に所領を得て、この地にやってきた。
仙台地方でも、鎌倉時代初め頃には武士の屋敷が造られた。
特に、 岩切地区(仙台市宮城野区) から多賀城市西部にかけては、堀で囲まれた屋敷跡が見つかった洞ノ口遺跡(どうのくちいせき)や、中世寺院の東光寺遺跡など、遺跡が集中している。
この地域は中世には「府中」と呼ばれ、中世の陸奥国の中心地域であったと考えられている。
各遺跡からは中世の人々の生活のようすがうかがわれる多くの遺物が出土している。
6 東光寺の摩崖仏(石窟仏)
この石窟は、岩切城が築かれた高森山のふもと、 現在の東光寺境内に露出した凝灰岩の地層に造られている。
石窟内には7体の像が刻まれているが、いずれも風化が著しい。
正面の大きな2体の仏像は、手の組み方から向かって左が阿弥陀如来、右が薬師如来と考えられる。
また左右の壁面には、左に1体・右に2体の菩薩立像のほか、 左側に合掌して座る2体の像が表されている。
この2体は着衣の形式から僧と尼僧の姿と考えられ、 極楽への往生を願う実在の人物を表した可能性がある。
板碑(いたひ)とともに、 中世のこの地域における信仰のようすを具体的に伝える貴重な資料である。
7 伊達政宗の所領の変化
最大時は会津、米澤、仙台と所領していましたが、会津を没収され、米澤を没収され、岩手を貰っています。
8 戦国の南奥羽
戦国時代(15-16世紀)には、全国各地で、領域を排他的に支配する領主があらわれた。
現在の宮城県域も例外ではなく、大崎氏や留守氏、国分氏などの領主たちが、時に争い、時に友好関係を築き、 それぞれの領域を支配していた。
彼らの政治的・軍事的関係は、おおむね宮城県・山形県・福島県域からなる南東北地方、すなわち南奥羽と呼ばれる地域規模で展開した。
特に、鎌倉時代から福島県伊達郡一帯を拠点としていた伊達氏は、戦国時代には福島県北部、山形県南部、そして仙台市域を含む宮城県の南半分まで勢力を拡大した。
伊達氏の領域支配やほかの領主たちとの関係は、重要文化財「伊達家文書」 などからうかがえる。
伊達氏天文の乱
桑折西山城(福島県桑折町)を拠点とする領主だった伊達稙宗は、息子である時宗丸を、 越後(新潟県)の大名である上杉氏の養子にしようとしました。
天文11年 (1542) 稙宗に反対する家臣たちと、稙宗の長男である晴宗が、 稙宗に対立して戦い始めました。
これをきっかけに、 およそ現在の宮城県・山形県・福島県にいた多くの領主たちが、稙宗派と晴宗派に分かれて戦いました。
この一連の戦いは、伊達氏天文の乱と呼ばれています。
伊達氏天文の乱の結末
伊達氏天文の乱は、天文17年(1548) に伊達晴宗が勝利して決着しました。
晴宗は、 伊達氏の拠点を桑折西山城 (こおりにしやまじょう・福島県桑折町)から米沢城 (山形県米沢市)へ移して、伊達氏の正式な当主になりました。
稙宗(たねむね)は丸森城 (宮城県丸森町) へ隠居しました。
天文の乱が終わると、 晴宗は、 乱の最中に稙宗と晴宗がそれぞれ家臣たちに約束した褒美を整理しなければいけませんでした。
晴宗が家臣たちへ、 土地などを与えることを約束する新しい証明書を一斉に発することができたのは、乱が終わってから約5年後の天文22年のことでした。
仙台城推定復元模型
縮尺400分の1 1985年製作
この模型は、元禄期 (1688~1703) と推測される図面を元に推定復元したものである。
仙台城全体の立地やイメージをわかりやすく示すため、同時期に存在しない建物についても復元している。
政宗が築いた本丸は、 南を竜の口渓谷、 東を広瀬川、 西を青葉山に守られた丘陵上 (標高約115m) に位置する天然の要害だった。
一方2代藩主忠宗が政宗の死後築いた二の丸 (現東北大学文系学部)は標高約61mで広い敷地を持ち、 藩政の中心となった。
また、 三の丸(現仙台市博物館) は政宗の時代には藩主の屋敷だったと推測され、後に藩の米蔵が置かれた。
このように仙台城は自然地形を活かした城であった。
9 仙台藩主伊達政宗
伊達政宗は永禄10年(1567) 伊達氏の17世として米沢城 (山形県米沢市)に生まれた。
青年期の政宗は合戦を重ね、 南奥羽に領地を拡大する。
しかし豊臣秀吉の奥羽仕置により領地を没収され、米沢から現在の宮城県北部の岩出山へ本拠地を移すことになった。
慶長5年(1600) 関ヶ原の合戦の後、政宗は岩出山から仙台に城を移し、町づくりと国づくりにカを注いだ。
仙台藩62万石の基礎を築きあげた藩祖政宗は、一方で能楽や茶の湯、和歌などの文芸をたしなむ文化人としての一面ももっていた。
伊達政宗画像(複製)
原本は狩野安信筆 酒井伯元賛
武家の正装をして座す伊達政宗を描いた作品で、仙台に城と町を築いた藩祖の威厳を讃えている。
仙台に本拠を構えた政宗は、大崎八幡宮や松島瑞巌寺、仙台城本丸などを次々と建設した。
建築にあたって、上方から大工とともに、狩野左京という絵師を招き、桃山美術を仙台に花開かせた。
伊達政宗と瑞鳳殿
1636年、仙台藩の初代藩主である伊達政宗は、江戸にあった屋敷で亡くなりました。
政宗の遺体は仙台に運ばれ、埋葬されました。
翌年、墓の上に霊屋(魂を祀る建物)として瑞鳳殿 (青葉区霊屋下)が建てられました。
瑞鳳殿は、 1945年に戦争で焼けてしまいましたが、 1979年に再建されました。
再建のために行われた発掘調査で、政宗と一緒に埋葬された品物が見つかりました。
10 仙台城のすがた

伊達政宗は慶長5年(1600) 青葉山に仙台城を築き始め、翌年には城下町をつくり始めた。 この場所には政宗以前の領主国分氏の千代城があったといわれている。
慶長15年(1610)には、城の中心的な建物である大広間が完成する。
政宗の没後、2代藩主忠宗が二の丸を築くと、本丸は主に儀式を行う場となり、藩政の中心は本丸よりも広い敷地を有する二の丸に移った。
城はたびたび地震や火事などの災害にあったが、修復をくり返し維持された。

仙台城の本丸は、 仙台藩の初代藩主である伊達政宗が、 青葉山 (仙台市青葉区) の上に作りました。
周りは崖や山林で囲まれていて、敵が入りにくい場所です。
本丸には、戦うための石垣や土手が作られました。
また、仙台藩の政治に使う大切な建物 (大広間) や景色を楽しむ建物 (懸造) もありました。 政宗の時代には政治の中心地として、後には儀式の場所として使われました。
三の丸(東丸)
仙台城の三の丸は、江戸時代には「東丸」 や 「蔵屋敷」と呼ばれていました。
「三の丸」 という呼び方は近代になってから一般的になりました。
ここには、仙台藩の初代藩主である伊達政宗の邸宅や庭があったとされ、 発掘調査で茶室や池の跡が見つかっています。
二代藩主である伊達忠宗によって二の丸が作られた後は、 藩の倉庫が置かれました。
現在、三の丸の跡地には仙台市博物館が建っています。
瑞鳳殿発掘資料
瑞鳳殿は昭和54年 (1979) に再建されました。 再建に先立ち、同49年に伊達政宗の墓室の発掘調査が行われました。
石室の中には、政宗の遺骨や副葬品が納められていました。
再度埋葬されたものもありますが、 一部は化学的な保存処理
を施した上で保存されています。
瑞鳳殿 Zuihoden
瑞鳳殿は、経ヶ峰 (仙台市青葉区) にある仙台藩初代藩主である伊達政宗の廟所です。寛永14年(1637)に二代藩主である伊達忠宗によって建てられました。
昭和6年(1931)に国宝に指定されましたが、 第二次世界大戦の空襲によって同20年に焼失しました。
11 武家の暮らし
仙台城や江戸屋敷は、公的な政治や儀式の場である「表」と、藩主とその家族が私的な日常生活を営む 「奥」 の空間に分けられていた。
江戸上屋敷の場合、 徳川家から夫人を迎えた18世紀中頃の「表」 と 「奥」 の規模はほぼ同程度であった。
彼らのくらしは、狩野派などの藩のお抱え絵師らが描いた襖や屏風、華やかな調度類、 格調の高い衣装などによって彩られていた。
このような伊達家や武士の家に伝えられた様々な資料を通じて、藩主をはじめとする当時の武家のくらしのようすを知ることができる。
家紋と調度
大名家の道具には家紋が付けられたものが数多くある。
家紋は家の象徴であり、権威を示すものでもあった。
伊達家の家紋は、 三引両紋、竹に雀紋、牡丹紋、蟹牡丹紋、菊紋、桐紋、九曜紋、雪薄紋の合計八つで、大名家の中でも家紋の数が多い。
よく見かけるのは三引両紋や竹に雀紋だが、 竹に雀紋の場合は、 葉の数や雀の形などが時代によって微妙に異なっている。
また、 大名家の婚礼調度は基本的に同じ文様で統一され、さらに使われる家紋も統一されていた。
夫人は実家の家紋が付いた調度を持参することが多いため、伊達家旧蔵品の中には、徳川家の葵紋のように伊達家以外の家紋を見かけることもある。
ここでは伊達家旧蔵品を中心に、 家紋のついた調度品を紹介する。

竹に雀折敷に三文字紋
稲穂に雀図指樽(すずめずきしだる)
江戸時代中期
館蔵
指樽は酒を入れる容器で、本来二つ一組。この指樽には竹に雀紋と、折敷に三文字紋が表されている。
これは稲葉家の家紋であるため、伊達家と稲葉家の婚礼用の指樽と考えられる。
稲穂に雀の図も、二つの家を象徴している。

雪薄紋蔦蒔絵見台(ゆきすすきもんつたまきえけんだい)
江戸時代後期
館藏
見台は書物を乗せて読むための台。全体を黒漆地とし、伊達家の家紋の一つである雪薄紋と蔦の文様とを金銀蒔絵で豪華に表している。
雪薄紋は仙台伊達家のほかには伊達家の親戚や伊達家から家紋を下賜された家で用いられたが、全国的には珍しい家紋である。
家紋はいろいろな種類があります。
12 仙台藩のようす
仙台藩の領地は、現在の宮城県を中心に岩手県南部と福島県の北部におよび、 滋賀県 茨城県にある飛地を加えた石高は62万石であった。
新田開発によって実際の生産高は100万石を超え、石巻から海路で江戸に出荷された米は仙台藩の重要な財源となった。
藩内には農林業や漁業などを生業とする人々の暮らしと様々な風景が広がっていた。
また領内には奥州街道などいくつもの街道が通り、参勤交代の大名や旅人などが行き交っていた。
仙台藩の狩り
仙台藩では鷹狩りや鉄砲などの狩りを好む藩主が多く、藩内で度々狩りを行った。
一方で狩りは仙台藩の正月行事にも組み込まれており、 武家の重要な嗜みの一つであった。 藩内には鷹匠という家臣がおり、藩主が狩に使う鷹の飼育や調教、鷹狩りの世話をする役割を担っていた。
ここでは仙台藩の狩りに関する資料を紹介する。
奥州仙台領国絵図 複製
宮城県指定文化財
藤縄達夫氏寄贈江戸幕府は、全国に国ごとの絵図を作成し提出するようたびたび命じた。
この絵図は、正保2年(1645)に仙台藩が制作した国絵図を、元禄年間 (1688~1703) に模写したものである。 大きさは畳26枚分である。
1里(約3.92km)を6寸(約18cm)で表すよう定められ、縮尺は約21600分の1であった。 幕府の指示に従って、 郡と村の石高を記し、街道の本道と脇道の別を朱線の太さで描き分けた。仙台城下の北目町を起点に一里塚を記し、川には舟渡し・徒渡りの別、 坂には勾配などが詳細に記されている。
仕上げには藩のお抱え絵師も関わり、松や雑木など樹種を描き分けており、 絵画性にも富んでいる。
13 仙台藩の家臣たち
仙台藩は、多くの家臣を抱えていた。 家臣には家格によって、一門・一蒙をはじめとする上級家臣、大番士など藩の主力を構成する平士、さらに足軽などの下級家臣がいた。
上級家臣の中には、1万石を超える大名級の石高の重臣もいた。
また仙台藩は、家臣に知行地として直接土地を与え、その年貢を家臣の収入にあてる地方知行制をとっている。
領内の軍事的要地や交通の拠点となる場所には重臣が配置された。
それは屋敷の規模などから城・災害・所在所に区分された。仙台藩の武器・武具
戦のない江戸時代においても、武器・武具は武家の象徴であり、 参勤
交代に携えられ、藩の儀式や行事などで用いられる重要なものであった。
仙台藩では藩主や家臣の具足として、鉄砲などから身体を保護するため、胴部に五枚の鉄板を組み合わせる五枚胴形式のものが多く用いられた。また仙台藩の家臣は家ごとに旗印を持っていた。
家臣は旗印の図柄や大きさなどの詳細を、藩の求めに応じて藩に届け出る必要があった。
ここでは、仙台藩で用いられた武器・武具を紹介する。
鉄錆地樋側胴具足(かなさびじおけがわどうぐそく)
江戸時代初期(一部は江戸時代中期)桜田吉則氏寄贈胴は横矧桶側五枚胴(よこはぎおけがわごまいどう)で、兜には試し撃ちの痕跡がある。伊達政宗の長男で宇和島(愛媛県南部)を領した秀宗に従った家臣・桜田玄蕃元親(さくらだげんばもとちか)の具足と伝わる。
籠手(こて)や佩楯(はいだて)などは、江戸時代中期に取り合わせたと考えられる。
黒漆五枚胴具足(くろうるしごまいどうぐそく)
青木寛太夫(あおきかんだゆう)所用
胴朱漆銘「安政三年青木寛太夫」
江戸時代後期
館蔵(青木和子氏寄贈)

黒漆五枚胴具足
伊達家の家臣であった青木家に伝来した具足。
仙台藩では伊達政宗以来の黒漆五枚胴具足を、藩主だけでなく藩士も踏襲し着用したので、仙台胴とも言われた。
これは典型的な幕末期の仙台藩士用の具足で、前胴をふくらみのある縦三枚の鉄板で形成している。

白地黒獅子図旗
青木家旗 江戸時代 (一七~一九世紀)
青木和子氏寄贈口を大きく開いた黒色の獅子を、躍動感のある姿で描いた旗。
メリハリのある輪郭線に、墨の濃淡や白抜きの線を交え、部分的に赤色も用いられている。
火縄銃
銘「仙臺住木田市郎右衛門作」
「天保二年」
天保二年(一八三二)
石垣喜嗣氏寄贈
火縄銃の筒を作る仙台藩お抱えの職人・木田市郎右衛門の作。台木に隠れる銃身部分に銘があり、天保二年の製作年も刻まれている。
14 城下町仙台
慶長6年(1601) 伊達政宗は仙台城を築くとともに、城下町の整備を始めた。
城から東に伸びる大町と、南北に通じる奥州街道を基軸に、原則として碁盤の目状の町割を行った。
この大町と奥州街道が交差する地点は「札の辻」 または 「芭蕉の辻」 と呼ばれ、 高札場が置かれる城下の中心地であった。城下町の範囲は、次第に拡張し、元禄から享保の頃 (1688~1735)に最大となった。
この城下町が現在の仙台市の基盤となっている。
仙台城下の町屋敷と町並み
仙台城下は奥州街道や大町通沿いに並んだ町屋敷と、城下の大部分を占める武家屋敷、 そして城下の周縁部に配置された寺屋敷などから構成される。町屋敷は、店舗となる建物と奥に続く細長い形状の建物が連続する建物の密度が高い空間であり、通りに面する町家は二階建て瓦葺の屋根の建物だけでなく、平屋の板葺や茅葺屋根
の建物も見られた。
ここでは、町屋敷の構造と、仙台城下の町並みを描いた絵画や版本を紹介する。
仙台城下図屏風
吉成東温筆
慶応元年(一八六五)
館蔵(三原良吉コレクション)
仙台城と城下町を結ぶ大橋を中心に、右側に仙台城下の町並みを、左に川内の上級家臣の屋敷を描いた屏風。
幕末の仙台城下の武家屋敷の構造、町屋敷などが立体的に表される。大町通には平入と妻入、瓦葺きと板葺き屋根が入り交じる町並みや、芭蕉の辻の櫓(やぐら) 状建物を象徴的に描かれている。

参考資料 芭蕉の辻図 (複製)
熊耳耕年画
原画: 昭和三年(一九二八)
復刻: 昭和三〇年(一九五五)
館蔵(三原良吉コレクション)
明治初期ころの仙台の繁華街である芭蕉の辻の様子や当時の風俗を描いた浮世絵版画。
人力車や郵便ポストなど明治の文物のほか芭蕉の辻の櫓状の建物が見える。町屋敷に注目すると、表長屋の裏に蔵や居屋敷、屋敷境の塀まで細かく描かれている。
15 町のくらし
仙台の城下町は、身分によって居住地が分けられ、武士の住む地区を 「丁」、町人や職人 ・ 足軽らの住む地区を「町」と呼び分けていた。
人口は町人よりも武士の比率が高く、屋敷地についても町人より武士の占める割合が高かった。
町では検断・ 肝入と呼ばれる町役人が町政を担当していた。
城下町に住む人々はそれぞれの生業を営みながら、年中行事や寺社の祭礼、芝居見物などを楽しんだ。
仙台と七夕
7月7日夜の星祭り行事である七夕は、古代中国に始まった。日本にも奈良時代以前には伝来していたという。
江戸時代後期には、仙台藩でも色紙や短冊に和歌を記して竹に付け、七夕を祭っていたことが知られている。
また、明治時代半ばには、旧城下の町々で華やかな竹飾りが作られ、仙台の七夕祭りとして注目されるようになった。
昭和21年(1946)、第二次世界大戦の影響で休止していた七夕祭りは10年ぶりに復活を遂げ、その後も復興・景気振興の象徴とされていった。
仙台と七夕
江戸時代後期の仙台城下の七夕行事は、 和歌等を記した色紙や短冊を笹竹に飾り、翌7日に広瀬川に七夕飾りを流すものでした。人々は、 この広瀬川の七夕流しの見物を楽しみにしていたようです。
明治時代半ばになると、 華やかな七夕飾りが作られるようになり、現在のように、 街に飾られた七夕飾りを楽しむ七夕まつりが有名になっていきました。
名所江戸百景 市中繁栄七夕祭
歌川広重(初代) 画
安政四年(一八五七)七月
館蔵(阿部次郎コレクション)
『江戸名所百景』は、歌川広重が最晩年に江戸や近郊の景色を春夏秋冬にわたって描いた物の作品集。
本図は江戸の七夕行事の様子を描いている。江戸では、七月七日の七夕前日から家々の屋上に笹飾りを立て、七夕当日の夕方に飾りを取り払い、川や海に流す慣習があったという。
飾りには瓢箪やスイカ、大福帳が見られる。
16 教育と文化
仙台藩の学問所である藩校には、 武士の子どもが学ぶ養賢堂(ようけんどう)と医学館があった。
養賢堂では儒学を中心に国学・算法・兵学・洋学・武術などを、 医学館では東洋・西洋の医学を学ばせた。
一方、庶民の学校としては寺子屋があった。
文化面において仙台は出版が盛んで、 特に子どもの手習いに用いる「往来物」が多く出版されている。
また、 名所として名高い松島や金華山への旅の途中で、 仙台を訪れる文化人たちも多かった。
城下の人々は文化人たちとの交流を通じて、さまざまな情報を得ていた。
仙台藩の学校
江戸時代、藩が藩士の子弟の教育のために設置した学校を藩校という。
仙台藩では、元文元年(1736)、 北三番丁に 「学問所」を開校したことを始まりとする。
宝暦10年(1760) に通学に便利な勾当台へ移転し、安永元年(1772) から学校名を 「養賢堂」とした。
その後、教科の増設や敷地の拡大などの学制改革が行われ、文化14年(1817)には医学部門が独立し、 百騎丁に 「医学館」が開校した。

水滴
江戸時代後期
養賢堂で学生が使っていた水滴。堤焼製で、右が亀、左が布袋の形となっている。
17 新たな時代へ
嘉永6年(1853)、アメリカのペリーが軍艦を率いて浦賀に来航し、開国を迫った。
その圧力に屈した幕府は、アメリカのほか諸外国とも条約を結んだ。
これを機に、国内では開国論と攘夷論が対立し、混乱の中、 幕藩体制は崩壊へと向かう。その頃、仙台藩にも水や食料を求めてアメリカ船が来航し、外国に対する危機感が高まった。
このような情勢の中、仙台藩でも洋式軍艦開成丸を建造するなど、海岸防備や軍備の充実を進めていく。
林子平と玉蟲左太夫(たまむしさだ ゆう)
仙台藩ゆかりの人物として経世家・林子平と仙台藩士・玉蟲左太夫がいる。林子平は日本の海岸防備の必要性を訴えた人物として有名だが、教育についても意見を持っていた。
玉蟲左太夫は幕府の箱館奉行の蝦夷地巡行や万延元年(1860) の幕府による遣米使節団に従者として随行した。
彼は自らが見聞した記録を詳細に残した人物であるが、記録者としての素養は先祖から受け継いだと思われる。
今回は、彼らや彼らの家族と学問との関わりを紹介する。林子平と玉蟲左太夫(たまむしさだゆう)と教育
林子平は、 仙台藩の教育について、 学校の蔵書を増やして読書をすすめ、 馬術など武芸も磨くべきという意見も持っていました。
また、アメリカでの体験記録 「航米日録」 などを著した玉蟲左太夫ですが、 その記録する慣習は玉蟲家の先祖から受け継いだものだったようです。
今回は、 彼らの教育に関する考え方や環境について紹介します。

林子平伝・林子平画像
林子平伝: 斎藤雄馨江戸時代末期~近代
館蔵(斎藤報恩会寄贈)涌谷(わくや)出身の儒学者・斎藤竹堂(順治、一八一五~五二)による「林子平伝」と作者不詳の画像を合わせて表具した資料。竹堂は藩校養賢堂で学んだ後、江戸の昌平黌に入り、西洋の歴史を紹介した『蕃史』やアヘン戦争を論じた『鴉片始末』などの著作で知られる。
「林子平伝」では子平の事績を讃えている。

仙台市指定文化財玉蟲左太夫 肖像
庄子勇筆
大正時代
館蔵(玉蠱誼氏寄贈資料)玉蟲左太夫誼茂(たまむしさだゆうやすしげ)は仙台藩士玉蟲暢茂の七男として生まれ、一三歳で荒井宣昭の養子となる。妻が若くして死去し、二四歳の左太夫は婚家を離れて江戸へ出た。
蝦夷地を巡見した記録を「入北けんべいしせつ記」、遣米使節に従者として随行したときの記録を「航米日録」に残した。
その結果、仙台藩士として登用された。
18 戊辰戦争と明治維新
慶応3年(1867)の大政奉還によって、幕府から朝廷へ政権が移った。
しかし翌年、鳥羽・伏見で旧幕府勢力と新政府軍との間に軍事衝突が起こった。
戊辰戦争の始まりである。
新政府は旧幕府や会津藩などを朝敵として、東北地方にも追討軍を派遣した。
会津藩救済のため、仙台藩 米沢藩が中心となって結成された奥羽越列藩同盟は、新政府軍に抵抗するが敗北に終わる。
戦争後、新政府は欧米と並ぶ中央集権的な近代国家を目指し、廃藩置県・地租改正 徴兵制度など一連の改革を行った。

坂英力(さかえいりき)画像
文岳筆
近代
館蔵(齊藤規夫氏寄贈)仙台藩の奉行。奉行の但木土佐と共に奥羽列藩同盟会議を主導した。同盟の太政官宛建白書の提出に携わったほか、藩主の陣代として戦場での指揮にもあたった。
仙台藩が降伏すると戦争の責任者として江戸に護送され、但木土佐と共に処刑された。
19 近代都市仙台
明治時代に入り新たな行政制度が整えられると、明治9年(1876)に現在の宮城県が成立し、 明治22年(1889)には仙台市が誕生した。
仙台には、第二師団や東北帝国大学などが置かれ、「軍都」「学都」と称される近代都市へと発展していく。 また、江戸時代以来の屋敷林の存在や、 公園・街路への植樹により、「杜の都」とも呼ばれるようになる。
しかし、 昭和20年(1945)の空襲により仙台の中心部は焦土と化した。
戦後、 市民のたゆまぬ努力によって復興を果たし、平成元年(1989) 仙台市は政令指定都市となった。
明治の伊達家と旧仙台藩士たち
明治4年(1871) 7月の廃藩置県によって、全国約300の藩は一朝にして廃された。
藩主たちは東京移住を命じられ、伊達家の当主である宗基と父の慶邦は住み慣れた仙台城を出て、東京へ向けて旅立った。
藩主と藩士の君臣関係も制度上なくなり、藩士たちは自活のため、それぞれの職業を選択する必要を迫られた。
ここでは、明治という新たな時代を迎えた伊達家の暮らしを伝える資料や、各分野で活躍した旧仙台藩士の姿を紹介する。
明治の仙台藩政
62万石から 28 万石となった仙台藩にとって、藩政の課題は家臣団の禄高を削減する禄制改革や、 家臣数を減らすための帰農政策の実施であった。また、領地が他藩領となった白石の片倉家や亘理伊達家などは、北海道の開拓へ集団入植を検討する。
仙台藩は仙台城二の丸に藩庁 (政)を設置し、 行財政改革の推進を実施した。

伊達宗基調書(だてむねもとちょうしょ)
(明治四年一八七一)
館蔵(伊達家寄贈文化財)
仙台藩知事であった伊達宗基 (一八六六~一九一七)の経歴を記した資料。
宗基は一三代藩主伊達慶邦の実子で、明治元年、三歳(当時の名は亀三郎)で二八万石となった仙台藩主に就任した。
明治四年の廃藩置県後、宗基は東京に移住し、明治一七年に伯爵を授けられた。
奥羽盛衰見聞誌 後編
武藤弘毅編
明治時代
館蔵(片倉家資料)
本書は明治維新前後の片倉家の動向を記したもの。編者の武藤弘毅は片倉家代々の家臣。
戊辰戦争後の処分で白石城をはじめ、片倉家の領地は盛岡藩の移封地となり、片倉家臣団は現地で帰農するか、北海道へ開拓入植するかの選択を迫られた。
展示は石狩国 札幌郡白石村(札幌市)に入植した人々の記録。
資料に出てくる大泉善八は、俳優・大泉洋さんのご先祖にあたるそうだよ。
片倉家家臣の大泉家は、この時開拓のため北海道へ移住したんだね。
伊達家は、仙台だけではなく宇和島にあるのは有名でしたが、もっと日本中に散らばっていたのですね。
外様でありながら、これだけ、各地へ子孫を残したのはさすが大大名と言えると思います。

































